九鬼氏(くきし)は、南北朝時代から江戸末期まで活躍した一族。江戸時代に作成した家系図には藤原氏の末裔と記したが、明確にはわかっていない。出自は詳しくわかっていない。九木浦(九鬼浦)に移住した熊野本宮大社の八庄司の一派が地名から九鬼を名乗ったと『寛永諸家系図』に記されているが、異論が多い、。南北朝時代に京都で生まれた藤原隆信が伊勢国佐倉に移住したのちに紀伊国九木浦に築城し、九鬼隆信を名乗ったとする説もある。九鬼氏は熊野で勢力を伸ばせずにおり、3代目隆房の次男の九鬼隆良は新天地を求め波切村の川面家の養子となり、波切城城主になった。この時期は貞治年間(1362年 - 1366年)とするのが定説であるが、元中年間(1384年 - 1393年)とする異論もある。隆良は子に恵まれなかったため、志摩和具の青山家から養子を迎え、波切九鬼2代目の隆基となった。この時点で本来の九鬼氏の血統は断絶している。ただし『系図研究の基礎知識』(近藤安太郎、1990年)によれば、3代目とされる九鬼隆良は分家であり、本家は隆良の兄・隆長であるとする(隆良系は7代で絶える)。隆長のあとは光長・政長・政隆・浄隆・澄隆と続き、澄隆の異母弟・光隆が家督を継いだが熊野地方に留まり、光隆の弟の嘉隆は北畠氏に仕えたと伝える。戦国時代初期、九鬼氏は伊勢北畠氏に仕えていたが、伊勢北畠氏の勢力範囲が弱まると、織田信長の幕下に入った。信長が北畠氏を侵攻した際、当時の当主であった九鬼嘉隆は織田勢を後ろ盾に、妻の実父である橘宗忠他、付近の小勢を制圧し、志摩国一円を手中に収めた。その後、九鬼氏の九鬼水軍は織田家(織田信長)の海戦部隊として伊勢長島の一向一揆の討滅戦において活躍、石山本願寺攻略戦においては、第一次木津川口の戦いでは敗れるものの第二次木津川口の戦いでは鋼鐵で外板を覆った鉄鋼船を用いて能島村上氏率いる毛利水軍をことごとく追い払った。信長没後は織田信雄に仕えたが、蟹江城合戦にて羽柴秀吉方に寝返り、天正13年(1585年)、従五位下・大隅守に叙位・任官された。九州征伐、小田原征伐に参加し、文禄・慶長の役では水軍の主力として功を挙げた。このような戦功の結果、紀伊半島の制海権を与えられ、5万石の大名になった。この後、嘉隆は息子守隆に家督を譲って隠居する。こうした経歴から、江戸時代には軍記物などで海賊大名の異称をとった。石田三成挙兵の報を受け、徳川家康の上杉討伐に参加していた守隆は急遽志摩に戻る。そして西軍方で桑名城に篭城した氏家行広・行継らを破り、東軍最初の勝報を挙げた。一方で、石田三成に加担要請され西軍についていた嘉隆は、娘婿である堀内氏善と鳥羽城を占拠してしまう。この後、守隆と嘉隆は城外で合戦するも決着はつかなかった。しかし関ヶ原の戦いでの西軍敗北が伝わると、氏善が逐電、嘉隆は退去、逃亡したため、騒乱は収束した。そののち、守隆は桑名城戦での功で鳥羽城を安堵された。また守隆は徳川家康から嘉隆の助命の許しを得るが、その報を受け取ることなく嘉隆は逃亡先で自刃した。守隆は鳥羽城主として5万6000石を持っていたが、仏門に帰していた五男九鬼久隆を還俗させ、後継者にしようとしたところ、三男である九鬼隆季から猛反発をうけ、家督争いとなった。守隆の死後も家督争いは続き、この騒動を見ていた幕閣(江戸幕府)により、九鬼家は代々領土を守ってきた志摩国の領地を失い、九鬼久隆は摂津国三田藩3万6000石に、九鬼隆季は丹波国綾部藩2万石に移された。ここに九鬼水軍はその水軍力を失い、陸に上がることとなったが、九鬼氏はこの後も廃藩置県までの期間を生き抜くこととなる。三重県の四日市市に移住した九鬼一族は九鬼紋七・九鬼紋十郎・九鬼喜久男などが九鬼産業の経営者となり、四日市市で町人・実業家・政治家となった四日市九鬼家がある。幕末、三田綾部の両藩共に討幕派につき、参戦。藩主家は明治17年(1885年)子爵となり、華族に列した。九鬼隆一、九鬼周造などが末裔である。
出典:wikipedia
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