ボードゥアン1世(、1930年9月7日 - 1993年7月31日)は、第5代ベルギー国王(在位:1951年 - 1993年)。ボードワンの表記も見受けられる。実名はボードゥアン・アルベール・シャルル・レオポール・アクセル・マリー・ギュスターヴ()、オランダ語ではボウデヴィン・アルベルト・カレル・レオポルト・アクセル・マリー・グスターフ()。妃はスペインのモラ伯爵ゴンサロ・デ・モラの娘ファビオラ。姉に前ルクセンブルク大公ジャンの妃ジョゼフィーヌ=シャルロットがいる。1930年、ブラバント公爵レオポルド3世と、スウェーデン国王オスカル2世の三男ヴェステルイェートランド公カールの三女アストリッドとの間に長男として生まれる。第二次世界大戦中、レオポルド3世はナチスの捕虜となっており、戦後の1950年に実施された復帰の是非を問う国民投票の結果、賛成多数を得て帰国したものの反国王派の抗議は収まらなかった。そのためボードゥアンは1950年に王太子(Prince Royal)に叙され、翌1951年に父王から譲位された。1960年6月30日、ベルギーの植民地であったコンゴ共和国の独立と植民地支配の終わりが宣言された。レオポルドヴィルで挙行された独立式典において、ボードゥアンが行った挨拶は、私領地としてコンゴ自由国を創設して非人道的な暴虐な統治を行い非難された彼の祖父の叔父に当たるレオポルド2世を「天才」と呼び、コンゴの独立をベルギーによる「文明化の集大成」と表現した上、「(ベルギーが残した諸制度の)性急な変更は将来を危うくする」と忠告までした挑発的なものであった。1990年に妊娠中絶法案が議会を通過した際、議会はボードゥアン1世に法案への署名を求めたが、ボードゥアン1世は敬虔なカトリック教徒であり、また王妃ファビオラとの間に子供が授からなかったことから法案への署名を拒否していた。しかし署名を拒否すれば立憲君主制の原則を揺るがすことになるため、内閣はボードゥアンと協議を行った。その結果、ボードゥアンを一時的に「統治不能」状態とし、その間に内閣が代理で法案に署名することとした。ボードゥアン1世は1990年4月3日から、法案成立後の4月5日まで統治不能状態に置かれていた。1993年7月31日、スペイン南部に滞在中、心不全により崩御(この日、同国のスパ・フランコルシャンで行われていたスパ・フランコルシャン24時間レースの開催中に崩御した為、同レースが途中中止となった)。弟のリエージュ公爵アルベールが王位を継承した。1995年にエゼル競技場を全面改装した際に、ボードゥアン1世を記念してボードゥアン国王競技場へと改名された。
出典:wikipedia
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