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雲龍型航空母艦

雲龍型航空母艦(うんりゅうがたこうくうぼかん)は、日本海軍が太平洋戦争中に運用した中型航空母艦である。竣工が1944年(昭和19年)以降となったために、搭載機がなく、また出撃機会もなかった。マル4計画で大型空母1隻(後の「大鳳」)を計画した日本海軍は、アメリカ海軍の第3次ヴィンソン案に対抗する形で1940年にマル5計画を発案、1941年春の概案では30,000トン級の大鳳型空母(または排水量45,000トンの大型空母)3隻を計画していた。しかし予算、資財、建造能力などの制約から大型空母は1隻(または1隻ないし2隻)に減らされ、代わりに10,000トン級の飛龍型空母2隻(または新設計の17,000トンの中型空母)を建造する計画となり、この中型空母は仮称艦名「第800号艦」とされた。ここで開戦が決定的となったため、1941年(昭和16年)8月にマル5計画を前倒しする形で昭和十六年度戦時艦船建造及航空兵力拡充計画(通称マル急計画)が策定され、中型空母1隻を建造することになった。この時、新型空母の設計はほとんど進んでいなかったため、マル急計画の中型空母は「飛龍」の設計を流用して建造を促進することになった。これが雲龍型航空母艦である。計画番号はG16 。雲龍型はマル急計画で1隻、また1942年1月時点ではマル5計画で1隻の建造が予定された。しかしミッドウェー海戦で4隻の空母を喪失したことによりマル5計画は改マル5計画に大きく改定され、雲龍型は「第5001号艦」から「第5015号艦」までの計15隻の整備計画があげられた。このうち「第5002号艦」と「第5005号艦」は戦艦「第110号艦」(後の「信濃」)の空母改造決定により、その後に中止となった。この時に航空本部は飛龍型が10年前の設計であること、構造が複雑であること、決して大型艦ではなく新型艦上機の運用に十分対応出来ないことにより難色を示し、当時の航空本部総務部長であった大西瀧治郎が中心として書かれた『航空母艦整備方針に関する意見書』を提出、構造の簡単で建造の容易な、戦時急造艦のような最低限の防御力をもった空母の新規開発を主張した。艦政本部は工数が雲龍型と大差無いなどの反論を行い、軍令部は雲龍型の建造継続を決定した。結局マル急計画で1隻、改マル5計画で13隻の計14隻の建造が計画されたが、その後の戦局悪化、資源不足などにより実際に起工されたのは6隻に留まる。そのうち竣工したのは雲龍・天城・葛城の3隻のみである。太平洋戦争の戦局の悪化により、笠置・阿蘇・生駒の3隻は途中で建造中止となっている。雲龍型は先に建造された飛龍の図面を流用し部分的な改正を加えた。主な改正点は艦橋位置の変更、エレベーターを2基とし大型化、舵を変更、対空兵装増強、その他戦訓対策であった。船体形状は「飛龍」の線図をほぼ流用した。構造も船体、飛行甲板共に「飛龍」と同じであり、寸法の変更も無い。ただし「飛龍」が装備した半平行舵は小舵角での旋回半径が大きく、「蒼龍」の装備した並列2枚釣合舵に戻された。艦橋の位置が「飛龍」の左舷艦中央から雲龍型では右舷前部に移された。これは改装後の「赤城」「飛龍」の実績に基づいており、「蒼龍」と同じ位置に戻された。形状は「飛龍」に近いが、機銃、電探の装備や防弾板の装着などで印象はやや変化した。艦橋構造物は4層からなり、前方に方位測定室、後方に缶室通風路などが設けられるなどして大型化した。またトップは九四式高射装置に代わり21号電探を装備、高射装置は舷側に移された。高角砲は「飛龍」と同じ40口径12.7cm連装高角砲6基を装備した。25mm機銃は「飛龍」が3連装7基、連装5基の計31挺、「雲龍」の基本計画時(1941年10月頃)で3連装9基、連装2基で合計は「飛龍」と同じ31挺だった。その後の建造から竣工までに増強され、「雲龍」竣工時で3連装13基39挺、「天城」竣工時で3連装21基63挺と言われる。「葛城」の最終時では3連装22基66挺となっていた。「雲龍」の竣工時、煙突直後の3連装機銃4基は防煙シールド付であったが、「葛城」は前方の2基だけ防煙シールドを取り付けて完成した。単装機銃も建造中の1944年5月の時点で橇式を24挺、同年8月の噴進砲装備時には同25挺、10月竣工の「葛城」は更に増備した可能性があるとされる。28連装噴進砲は、「雲龍」の竣工前の写真で既に砲座が準備されている。「雲龍」「天城」は竣工直後に6基を呉で装備、「葛城」は竣工時に既に装備していたと言われる。「葛城」のみ30連装を装備とされるが、引き渡し目録によると他と同じ28連装を装備していた。爆雷は「雲龍」計画時で6個、「生駒」計画時で10個となっている。「葛城」は最終時に爆雷投下台1基が装備されていた。飛行甲板寸法は飛龍と全く同じ、航空機用エレベーターは中央エレベータが廃止されて3基から2基に減少すると共に、大型化した新型機に対応するため前部が14x14メートル、後部は14x13.6メートルへ拡大され、昇降スピードもアップされた。格納庫は上下2段、ミッドウェー海戦の戦訓対策で泡沫式消火装置が壁面に設置された。着艦制動装置は計画では呉式9基9索であったが、空廠式4基12索に変更され、新型・大型の艦上攻撃機に対応するものとなっている。また滑走制止装置も従来のものを新型機用に改良した空廠式(三式10型)滑走制止装置を装備した。爆弾や魚雷は、信濃や大鳳で採用されたのと同じように飛行甲板まで揚弾される専用の揚弾筒が採用され、前部に昇降式大型、後部に同小型が設置された。魚雷は36本を搭載可能で、同時調整可能数は6本といわれる。飛行甲板は、戦後に撮影された天城の写真等より、鋼板にリノリウム~ラテックス等を貼った仕様で木甲板では無かったと考えられる。「雲龍」竣工直前の写真では艦橋上に21号電探1基の搭載が確認される。その他竣工時には飛行甲板上に隠顕式に21号電探1基、メインマスト上に13号電探1基を搭載した。その他「葛城」の公試写真では左舷無線マスト2基のうち前方の1基に13号電探が装備されている。「天城」「葛城」は艦橋上の21号電探を22号電探1基、13号電探1基と換装、その時期は1944年末から翌年初めと推定されている。また、飛行甲板前部に短波方向探知機のアンテナを埋め込み式に装備、飛行機の運用が無いときに使用して、潜水艦の通信波を受信して方位等知ることを意図していた。ソナーは「雲龍」の計画として探信儀に「仮称九一式四号1」の記載があり、「葛城」の引き渡し目録では「水中聴音機3基、探信儀1組」となっている。実際には九三式または零式水中聴音機の装備が推定されている。機関は翔鶴型や大鳳型(蒸気温度350度、圧力30kg/平方cm)、隼鷹型(蒸気温度420度、圧力40kg/平方cm)で使用された高温・高圧缶の採用が見送られ、飛龍と同じで、鈴谷型重巡洋艦と同一の機関を搭載、蒸気温度220度、圧力22kg/平方cmだった。最も出力152,000馬力、速力34ノットは空母として十分な値だった。ただ初期建造艦は資材入手に困難があり三菱長崎造船所で建造された「天城」「笠置」は巡洋艦伊吹型の機関(蒸気温度200度、圧力22kg/平方cm)を流用、呉海軍工廠建造の「葛城」「阿蘇」は駆逐艦の機関(蒸気温度350度、圧力30kg/平方cm)を転用した。このため「葛城」「阿蘇」は出力104,000馬力に低下し速力32ノットになった。駆逐艦2隻分の機関を搭載するとなるとタービン4基に対し缶(ボイラー)は6基で十分な力量があるが、空母の場合は速力の変更がたびたびあり、また急に高速力を発揮する必要もあるので、余力を持たせる為8基搭載になった。煙突は「飛龍」とほぼ同じ下方排出である。後期建造艦は工事簡易化のために6角形とする計画だったようである。「笠置」は6角形煙突だったとする文献もあるが、竣工した3隻の他、「笠置」「生駒」も写真から通常の楕円形だったことがわかる。また戦訓対策から吸排気口は両舷に分散された。電源は「第5006号艦」(阿蘇)までは「飛龍」と同様の直流220Vであり、「第5007号艦」(生駒)以降は当時の新造艦と同じ交流440Vとする計画だった。この点については「天城」「笠置」も建造時に交流だったとする関係者の回想もある。弾火薬庫の装甲については「雲龍」「天城」「笠置」は「飛龍」と同様に140mmから50mmNVNC鋼、砲弾に対する舷側装甲については「葛城」「阿蘇」ではその必要性が薄れたことより装甲厚が薄くされ100mmから75mmNVNC鋼とされている。また機関部舷側は甲鈑製造が間に合わず25mmDS鋼に2枚重ねで代用された。反面、魚雷の威力増大により水中防御の充実が図られた。「生駒」以降も甲鈑製造簡易化のために変更が行われた。装甲に関しては上記のように個々の艦による違いや時期によっても違いがあり、何種類かの計画値が伝えられているので表にまとめて示す。ミッドウェー海戦の戦訓として格納庫には「炭酸ガス式消火装置」に代わって、2%石鹸水と空気を混合して庫内を泡で覆う「泡沫式消火装置」が設置された。その他防御力の強化として吸気口の位置の改善、舵取室と舵取機械室の防御強化、格納庫の通風強化など、不燃対策として不燃性塗料の使用やリノリュームの廃止、可燃性の備品を撤去するなどが実行された。またガソリンタンクの周りをコンクリートで囲み漏洩防止を行った。「雲龍」の基本計画時の公試排水量は20,100トンの計画であったが、航空艤装の変更、対空機銃の増加などで20,400トンまで増加した。また「葛城」「阿蘇」では機関変更により20,250トンとなった。その他にも出典により色々な値があり、公試平均吃水を含めて以下の表にまとめる。加えて後期艦は雲龍型から改良が施されており、5007号艦(生駒)以降は「雲龍改」型、又は「飛龍改改」型と呼ばれ、下記の様な変更点があった。更に、川崎重工業艦船工場にて建造予定だった艦(生駒)は戦訓により機関室を交互配置にする予定であったという。搭載機数は基本計画時には常用57機、補用8機を予定しており、内訳は零式戦闘機12+3機、九九式艦上爆撃機27+3機、九七式艦上攻撃機18+2機(機数は常用+補用機)であった。ただし、資料によって搭載機数が異なる。以下は各種文献にある計画機数である。生駒の場合は以下の通り。雲龍と天城の竣工直後に起きたレイテ沖海戦の後、空母から発艦する特別攻撃部隊である神武攻撃部隊を編成し、雲龍・天城に秋月型駆逐艦4隻を護衛として付け、フィリピン諸島東方海域の敵機動部隊や水上艦艇を攻撃するといった作戦を日本海軍は計画していた。しかし、戦況の悪化により神武攻撃部隊は空母発着艦訓練を実施する事も無く特攻隊として陸上基地より出撃し散って行った。このため、結局雲龍から飛び立った航空機は横須賀航空隊が行ったロケット発艦実験の時に発艦した流星のみとなった。神武特別攻撃隊が全滅した後も、第一航空戦隊所属の艦載機部隊第六〇一航空隊はまだ存在しており、戦力化に向け訓練を続けていた。しかし、信濃・雲龍が相次いで戦没した上に、艦船燃料の払底が危惧されたため、昭和20年2月11日をもって艦隊航空隊としての再建を断念されて基地航空隊へと変貌し、空母機動部隊は消滅する事となった。竣工した雲龍型は2隻が戦没(雲龍は潜水艦の雷撃により戦没、天城は空襲により大破着底)し、終戦まで健在だったものは3番艦の葛城1隻のみである。雲龍型と同時期に計画されたアメリカ海軍のエセックス級航空母艦は、全長、全幅、排水量いずれも翔鶴型航空母艦を上回る大型空母でありながら、太平洋戦争中に17隻、最終的には24隻が完成しており国力の違いを見せつけた。しかしながら戦艦・巡洋艦・駆逐艦など他艦種においては、日米の建造数の差はより開いている。日米の工業生産力の差を考えれば、大戦中に3隻の雲龍型、大鳳を含めて4隻の正規空母を竣工させた事は、大いに健闘したといってよい。しかしながら、せっかく竣工させた3隻であるが、完成当時には肝心の艦載機の搭乗員の育成が追いついておらず、ほぼ戦力化できないまま終戦を迎えた。状況を考えるに雲龍型よりもさらに建造容易な空母を日本海軍は建造すべきであったという意見もあるが、搭載機の連続射出が可能なカタパルトを実用化できなかった日本海軍にとっては、これより小型サイズの空母を建造しても機動部隊の戦力足り得なかったのも事実である。また、雲龍型航空母艦が戦力として運用されたとしても、1945年以降の主力として計画されていた「烈風」や「流星」といった新型機は雲龍型の飛行甲板の全長・全幅では同時発艦機数に難があると見られていた。

出典:wikipedia

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