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大善寺 (甲州市)

大善寺(だいぜんじ)は、山梨県甲州市勝沼町にある寺院。宗派は真言宗智山派、山号は柏尾山、本尊は薬師如来である。正確な創建年代は不明だが、寺伝に拠れば奈良時代に行基の開創を伝え(延慶3年(1310年)「関東下知状」)、本尊である薬師如来像の様式などから創建は平安時代前期と考えられている。薬師堂は天禄2年(971年)に三枝守国による建立とする伝承がある。(天文14年(1545年)「大善寺諸堂建立炎上記」)によれば、在庁官人として甲府盆地東部の東郡地域で勢力を持った古代豪族である三枝氏の氏寺とされる。大善寺東方の甲州市勝沼町柏尾には柏尾山経塚が所在し、平安時代の康和5年(1103年)の年記を有する経筒が出土している。銘文には三枝氏の一族である三枝守定・守継の名が見られる。経筒の銘文によれば、康和2年正月に山城国乙国郡石川村出身の勧進僧・寂円が山梨郡牧山村の米沢寺において千手観音宝前において発願したという。康和5年3月24日には完成した経典が米沢寺から大善寺にあたる柏尾山寺往生院へ移され、同年4月3日に往生院院主・堯範により開講演説・十種供養の行事が行われると、柏尾山に埋納されたという。なお、経典が書写された「米沢寺」はのちの米沢寺雲峰寺の前身寺院と推定されており、山梨市牧丘町杣口に所在する金桜神社奥社遺跡に比定する説がある。寺伝では養老2年(718年)、行基が甲斐国柏尾山の日川渓谷で修行した時に、夢の中に葡萄(甲州ぶどう)を持った薬師如来が現われ、満願を果たし、葡萄を持った薬師如来像を建立したことが当寺の起源であるとされている。甲州葡萄の始まりは行基が法薬として葡萄の栽培法を村人に教えたことであるともいわれている。本尊の薬師如来像の持物は失われているが、元は右手に葡萄を持っていたという伝承がある(薬師如来像の右手は通常は掌を正面に向ける施無畏印であるが、大善寺の薬師如来像は右手を膝前に垂下している)。鎌倉時代には鎌倉幕府が甲斐・信濃国において棟別銭を課して本堂が再建された。戦国時代には天文19年(1550年)に郡内領主の小山田信有(出羽守)がニ子を連れて参詣を行っている(「大善寺文書」)。天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍の武田領侵攻に際して、3月3日に武田勝頼は本拠である新府城(韮崎市中田町中條)から小山田信茂を頼り都留郡の岩殿城(大月市賑岡町)に向かう。勝頼はその途中で大善寺に立ち寄り、戦勝を祈願している。その後、勝頼は小山田領へ入る前に信茂の離反により日川を遡上し、3月11日に山梨郡田野(甲州市大和町)において一族とともに自害した。勝頼・武田氏の滅亡を記した記録に『理慶尼記』がある。『甲斐国志』によれば、理慶尼は武田一族の勝沼信友の娘で雨宮氏に嫁していたが、勝沼氏の処断により離縁されて大善寺で尼になっており、勝頼を一晩大善寺に泊めると『理慶尼記』を記し、高野山引導院に奉納したという。一方で勝沼氏は武田一族の今井氏により継承され、理慶尼は今井信甫正室の母とする説がある。この説に立つと武田氏滅亡の際には高齢であると推定されるため、『理慶尼記』は執筆者が理慶尼に仮託して記した史料とする説もある。慶応4年(1868年)には近藤勇の率いる甲陽鎮撫隊の兵が甲州街道を甲府城へ向けて進軍し、同年3月6日に大善寺の付近で新政府軍を抗戦し、敗退している(甲州勝沼の戦い)。江戸時代後期の天保12年(1841年)には浮世絵師の歌川広重が甲府道祖神祭礼幕絵制作のため甲斐国を訪れ、甲府に滞在する。広重は甲府を拠点に甲府近郊や甲斐名所のスケッチを残しており、『甲州日記』の「旅中、心おほへ」には数々のスケッチが見られる。「心おほへ」十六丁・十七丁では、右頁に前頁から続く高尾山大本坊の境内が記され、左頁には大善寺の全景がスケッチされている。画中の文字のうち大善寺の部分は「カツヌマヨコブキ」「柏尾山」「大善寺」「薬師堂」なお、広重は日記部分でも4月分で大善寺門前の鳥居に掛かった額について言及し「馬一疋☆牛一頭」の図を記している。1903年(明治36年)4月に出版された銅版画『日本寺社名鑑 甲斐国之部』では「柏尾山大善寺之景」が描かれている。大善寺では宿坊を経営しており、宿泊することも可能。寛永末期に造られた江戸時代の日本三名園と言われる池泉鑑賞式庭園を見ながら食事ができる。

出典:wikipedia

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