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施薬院全宗

施薬院 全宗(やくいん ぜんそう、大永6年(1526年) - 慶長4年12月10日(1600年1月25日))は戦国時代から安土桃山時代にかけての医者。豊臣秀吉の側近。渡来系で多くの医者を輩出した丹波氏の出身。号は徳運軒。妻の永原実賢の娘との間に一男(施薬院秀隆)一女がいた。大永6年(1526年)、平安時代に医心方を著した名医・丹波康頼の二十世の末裔として生まれる。祖父・宗清、父・宗忠ともに権大僧都法印となっている。幼少時に父を失い僧籍となり、比叡山菜樹院の住持であった。織田信長による比叡山焼き討ちに遭い、その時豊臣秀吉にもその意図があると聞き及んだために、還俗して曲直瀬道三に入門し、漢方医学を極め、豊臣秀吉の知遇を得て侍医となりながら叡山の弁護にあたった。秀吉が天下人になった後の天正13年(1585年)に大飢饉と疫病の流行にみまわれると、廃絶していた祖先よりの「施薬院」の復興を願い出て許された。この施薬院は奈良時代・光明皇后による創建以来、800年の時を経て完全に形骸化していた。全宗はこの復興に尽くし、身分の上下を問わない施療を再開した。天正年間に勅命を受けて施薬院使に任命、従五位下に叙され昇殿を許される。7月下旬から9月までの間に号を「施薬院」とした。「(全宗の)言ふところ必ず聞かれ、望むところ必ず達す」(『寛政重修諸家譜』)というほど秀吉の信頼は厚く、秀吉の諱を与えられた息子の秀隆とともに秀吉側近としても活躍し、伊達政宗・佐竹義重との交渉役などを務めている。天正15年(1587年)発布の定(バテレン追放令)は全宗の筆による。豊臣氏番医の筆頭として、番医制の運営につとめる。焼き討ち後の荒廃した比叡山の再興にも尽力した。天正18年(1590年)に嫡男の秀隆が病没(外来の伝染病という)したため、近江の三雲資隆の子を養子とし、宗伯として継がせ、曲直瀬氏嫡流を守り道三流医術の衰退を防止した。この子孫は代々施薬院使を務めることになった。豊臣秀次の失脚事件を契機に曲直瀬一門の結束が全宗を頂点に強化されたことが知られる。後に正四位に陞爵。慶長元年12月10日(1597年1月27日)に没したとされてきたが、宮本義己により慶長4年12月10日(1600年1月25日)没であることが判明した。享年74(一説に69ともいう)。

出典:wikipedia

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