第三国人(だいさんごくじん)は、本来は「当事国以外の第三国の国民」一般を指すが、連合国軍占領下の日本においては、官公庁や国会を含む日本人およびGHQが、特に、日本に居留する旧外地(台湾・朝鮮など)に帰属する人々を指して用いた呼称(もとは行政上の用語、後述)。単に三国人(さんごくじん)ともいう。本来は特に話題の限定されない「当事国以外の第三国の国民」一般の意味から、この記事で扱う朝鮮・中国系の人々に使われるようになった経緯には諸説あり、定説は確立していない。GHQが、日本の統治下に置かれていた旧植民地の住民は戦勝国民・中立国民のいずれにも該当しないとして、「third nationals(第三国人)である」と規定したことによるとする説が、 野村旗守、宮島理、李策、呉智英、浅川晃広らや、佐藤勝巳、秦郁彦らから出されている。GHQが使用した「non-Japanese(非日本人)」という言葉を日本の政治家・官僚が「第三国人」と訳し、それがGHQ側にも受け入れられたとされる説が朝鮮史研究会の水野直樹、藤永壮らから出されており、GHQ内では朝鮮人を当初 "non-Japanese nationals"(非日本人)や non-Japanese, Koreans, Formosans(台湾人) と称しており、日本人に合わせて第三国人を使用したのではないかとの見解を示している。「第三国人」という言葉が、一般の書籍や新聞等で多く使われたのは主に戦後の混乱期であり、朝鮮人をはじめとする「旧日本人」は、「降伏後における米国の初期対日方針」では解放国民とされた。1945年11月から1946年11月までは「難民」としてGHQによる帰還事業の対象とされた。1946年11月からは「日本国籍」と看做されながら、1947年5月2日からは外国人登録令により外国人として扱われた。また1946年2月から日本の司法権が適用されるなど朝鮮系の人々は占領政策の転換のはざまで翻弄されつつ、多くの騒乱・衝突を引き起こし(代表的な例として、直江津駅リンチ殺人事件など)、民族教育を巡る対立も加わり、「闇市」や「騒擾」をする「第三国人」と伝えられることが多くなった。1955年(昭和30年)12月8日の第23回国会衆議院法務委員会で入国管理局長内田藤雄は、日本が終戦後朝鮮人を外国人として取り扱った実情に対して、それまでに日韓会談において韓国側から不当だとの主張は出されず「むしろ逆に、韓国側は、朝鮮人は外国人である、特に占領時代の当初におきまして、占領国民と同様の待遇を与えるべきだということからでもあったと思いますが、ことさらに向う側で外国人であるということを非常に強く主張して参った」、それで「いわゆる第三国人などというような言葉も当時できた」と語っている。藤永壮は水野の論文を解説して高野雄一が1946年末までに「第三国人」についての定義を与えており、1947年にGHQが日本政府の意向を受けて「第三国人」を "Third Nationals" と訳した例が見られるとしてGHQ起源説を否定し、椎熊三郎の質問に対する大村清一の答弁が議会での最初の用例だとして、そもそも「第三国人」という言葉を使い始め広めたのは、警察、マスコミ、政治家、官僚だと主張している。そして、そのような経緯から、「「第三国人」が「不法行為」を行っているというイメージは、不当に誇張、宣伝され」たものだと主張している。しかし、1946年の高野による「第三国人」の定義では「従来日本の支配下にあつた諸国の国民」で「外国人ではないが、同時に日本人と必ずしも地位を同一にしない」という当時の主に在日朝鮮人を述べただけのものであり、また上記のように藤永・水野は「「第三国人」が「不法行為」を行っているというイメージ」を日本人が「不当に誇張、宣伝」したと主張しているが、佐藤勝巳は、この用語に蔑視、畏怖が含まれるようになったのは、在日朝鮮人連盟をはじめとして、在日朝鮮人自身が戦後の混乱期に「連合国人(戦勝国民)」と自称して集団強盗、略奪、殴打暴行、破壊、占拠監禁などを日本各地で行っていた事実があり、その事実を知った日本人が、公然と社会秩序を乱し何事も暴力で解決しようとする在日韓国・朝鮮人(三国人)は恐いと考えるようになるのは当然で、在日韓国・朝鮮人自身の行為が「三国人」なる言葉に特別な意味を含ませるようになったとしている。戦後間もない頃「第三国人」が使用されていた事例については枚挙にいとまがない。公的なものとしてて1947年に在日朝鮮人によって税務署員が殺害された神奈川税務署員殉職事件で殉職した税務官を顕彰するために1951年に設立された碑には「第三国人」と明記されている。1947年当時の衆議院では、日本社会党を主体とした片山内閣の栗栖赳夫大蔵大臣や野党日本自由党の宮幡靖代議士や出席した政府職員は「第三国人」と述べているが、これはほんの一例であり、当時の国会では敗戦に伴う「第三国人」の地位や経済事案を巡る議論が国政上の大きな問題となっており、盛んに審議されていた。国会会議録検索によれば、昭和20年代に国会で「第三国人」という言葉が登場した回数は200回を超えている。また木山捷平には「第三国人」と題した小説がある。1973年には在日韓国人の林浩奎が『第三国人の商法』と題した著書を出版した。1983年には中内功が「その当時は(神戸が)第三国人に支配されていまして」とこの呼称を用いてインタビューに応えている。「在日朝鮮人に対する措置」文書(1949年)にて、当時の総理大臣である吉田茂は戦後の在日朝鮮人に対して以下の見解を出している。その理由は次の通り。 1981年8月には、『朝日新聞記者の証言5』(朝日ソノラマ)の「第三国人の独壇場」の章におけるといった記述が在日韓国人団体「兵庫民闘連」から抗議を受け、朝日ソノラマが同書の在庫を処分したことがある。占領体制終結後の日本においては、一般的には死語であるが、差別語であると主張する人々も存在する。最も議論となった例は、東京都知事の石原慎太郎が2000年4月9日、陸上自衛隊練馬駐屯地創隊記念式典での演説で用いたものである。石原は不法入国した三国人と述べ、この発言は「近年の日本での外国人犯罪への危惧から発せられた言葉」とされ、対象も限定されているが、この発言に対して特に在日コリアンや韓国が強く反発した。また、朝鮮史研究会としても石原の発言を批判している。石原の発言は、2005年11月の人権問題討論国連総会第3委員会で「東京都知事の外国人差別的演説」として取り上げられ、国連人権委員会人種差別問題特別報告者ドゥドゥ・ディエン () によって「日本の当局がよりはっきりした態度を打ち出すなど、人種差別と戦う政治的な意思が求められる」と指摘を受けた。しかし、これに対し国連人権委員会及びドゥドゥ・ディエンの政治的中立性には疑問が向けられている。
出典:wikipedia
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