LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

クイズタイムショック

『クイズタイムショック』("QUIZ TIMESHOCK") は、テレビ朝日(旧:日本教育テレビ)がかつて放送していたクイズ番組。通称「タイムショック」。本項では、その後リメイクされた『タイムショック21』およびその後の特番である『超タイムショック』についても記述する。1回全12問のクイズに、1分以内に何問正解できるかを競うというクイズ番組(1問につき5秒。ただしこの5秒は問題を読む時間も含めてなので、実質的な回答時間は1 - 2秒である)。また企画当初「機械文明に生きる現代人の頭脳と反射神経をテストする」と言う趣旨があった。平均視聴率14%、最高視聴率29%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)レギュラーシリーズ第1期。田宮司会の時期の映像は、当時のVTRの規格が2インチで機器・テープ共に高価だったうえ、当時は著作権法などの絡みで番組の資料保存が制約されていた事情もあり、テレビ朝日の映像アーカイブス倉庫に現存する数は少なく、1978年8月31日放送の「500回記念・1978年度日本一王座決定戦」と田宮最終日に当たる同年9月28日の放送(第504回)の「親子大会」のVTRが主に使用されている。2009年9月に発売された「CRAクイズタイムショック」でも田宮末期の写真や映像が使われている。一方、山口司会の時期の映像は、後期の1インチ収録時代を中心に、多数現存していると考えられる。なお、両時代ともに、神奈川県横浜市にある放送ライブラリーに保存されている映像は1本も無い。『超タイムショック』第5回(2009年3月放送分)では、ピーターが出演した山口の初日である第505回(1978年10月5日放送分)および山口最終日である第888回(1986年3月27日放送分)でタイムガールズが3問以下で回転降下する映像が流れた。また、『超タイムショック』第9回(2010年9月24日放送分)でもピーターが出演したため、その際に再びその映像が流された。田宮時代山口時代初期・中期山口時代・後期山口時代・末期山口時代・最末期毎週水曜 19:00 - 19:30。当時のこの枠はローカルセールス枠だった。レギュラーシリーズ第2期。毎週月曜 20:00 - 20:54レギュラーシリーズ第3期。10年半ぶりの復活となっただけではなく、放送時間も復活前の30分から約2倍となる54分番組となった。企画段階で「どのようにテレビの画面で(スリルとスピードを)どう効果的に出せばいいか」と試行錯誤の末に「めんどうだね、時計の中に人間(挑戦者)を押し込んじまったら」とふともらしたスタッフのつぶやきがヒントとなり、番組のシンボルである「時計台」と「解答席」が誕生したと言う。1人用のイスのみが用意され、これがイスの背後に垂直に設置されたリフトによって、高く上昇する(生島時代のみ、イス(キャスター式)が左右に移動して解答者が登場する)。イスのデザインは時代によって異なる。高さは、田宮時代初期で2メートル、田宮後期~山口時代は3.5メートル、鹿賀・中山&新山時代は3メートル。解答席のイスの背後に1分計がセットされる(初代 - 3代目。それ以外はイスの外側)。生島時代を除いた1分計では、秒針として59個の緑と1個(1秒の部分)の桃色から成る60個のランプが点灯し、クイズが開始されると1秒ごとに1つ消えていく仕組みであった。正解表示は緑のランプ5秒分の大きさの時計の外側の赤ランプと、時計台の外にある1 - 12の数字が記されたランプが赤く点灯する。クイズ解答中のBGMはどの時代のものもアナログ時計が時間を刻む様子をイメージして作られており、時代によってアレンジが異なっている。『タイムショック21』は時期によりルールが頻繁に変更されたため、それに伴いクイズも様々な形式のものが登場した。田宮・山口・生島時代には考えられなかった形式であった。番組の第1期には以下の予選クイズがあり、勝ち抜いたチームのみが「ファイナルタイムショック (Final Time Shock) 」(1分間に12問出題される元祖で正真正銘の「タイムショック」)に挑戦できた。5チームの内、以上3つの予選クイズを勝ち抜いたチーム(5人1組)の代表1人が「ファイナルタイムショック」(1分間に12問出題される正真正銘の「タイムショック」)に挑戦できるというものだった。後に、5チームから無制限になる。「オープニングタイムショック」「データタイムショック」が無くなり、2チームが「ビジュアルタイムショック」で対決。3ポイント正解で「ファイナルタイムショック」に進出。5 - 10チームによる「ビジュアルタイムショック」での1問勝負となり(「まちがい探し」は無くなった)、正解すれば「ファイナルタイムショック」(内容は「リレータイムショック」)に進出するものだった(その後、内容が変更され、「ビジュアルタイムショック」自体が無くなり、「ビジュアルタイムショック」用の問題は『クイズ!バーチャQ』で使われた)。業種別に4チームが出場し、「(業種名)クイズ王選手権」というサブタイトルが付けられていた。「百貨店クイズ王」、「ホテルクイズ王」等が開催された。各ラウンドごとにチームの代表1人が「タイムショック」の正解数で対決。1回戦と決勝はレギュラー問題、2回戦はジャンル問題で3つの中から選ぶ(挑戦は前ラウンドの得点順)。最も代表者の正解数が少なかったチームから失格。これを繰り返し、最後まで残ったチームが優勝。優勝すると賞金100万円+優勝チームの代表1人が全問正解で賞金1000万円を獲得できる「ファイナルタイムショック」に挑戦するというルールだった。パーフェクトの場合、更に個人賞として100万円が贈られた。レギュラー放送の第5期(最終期)は、事前のペーパーテストで勝ち抜いたクイズ自慢の挑戦者(+前週チャンピオン)10人による「個人戦最強コロシアム」。前週からのチャンピオンが複数の場合は、その分ペーパーテストで勝ち抜ける挑戦者枠が減る。ペーパーテスト成績順下位から(チャンピオンは挑戦者が終了して勝ち抜き数の少ない順に)挑戦。問題番号は、目の前の番号ボタンを使い自分で選択する方式となった。その時点での最高正解数に到達もしくは超えていれば、「ポイントリーダー」として挑戦終了後リーダーズシートに座れる(同時にリーダーズシートの上部にある時計の針が最高正解数に応じて回転していた)が、到達していない場合は目の前の扉が閉まり退場となる(最終回に限り、退場者には無条件でトルネードスピンというペナルティが加わった)。また、リーダーズシートにいるポイントリーダーは、自分の正解数を超えられた場合シート後ろから退場することになる。前週チャンピオンも含む全員の挑戦が終わった時点でリーダーズシートに座っているポイントリーダーがチャンピオンとなる。チャンピオンは翌週も参加でき、5週連続で勝ち抜くと1000万円が贈られた。第1期、第4期でのルールだった。第2期、新タイムショックでのルールだった。第3期のルールだった。第3期の「出張タイムショック」でのルールだった。2001年春からの基本的に特番のみのルール。2003年春 - 2004年秋 特番のみのルール。※これ以降も田宮・山口・生島時代には考えられなかった形式だった。鹿賀・中山&新山時代に4度「高校生クイズ王日本一決定戦」が行われた。ここでは、「スイスペ!」枠で行われた「高校生クイズ王日本一決定戦!2003」の本選ルールについて紹介する。チーム構成は、日本テレビの「全国高等学校クイズ選手権」同様、同一高校の3人一組。男女混合可。なお、第4回はスイスペ枠で本戦を放送し、本戦出場8校が決まるまでの予選は日曜の特集枠で放送された。1チーム3人以上の6チームで予選クイズもしくは予選ゲームを行い、トップになったチームのメンバー3人が「リレータイムショック」に挑戦できる。「リレータイムショック」は『タイムショック21』以降に登場した「12アンサーズ」などのクイズは廃止され、レギュラー問題のみとなり、賞金額も全問(12問)正解すれば100万円(3人で最高で300万円)に変更された。2007年4月8日に放送された「お披露目スペシャル」の際は予選クイズや予選ゲームの成績トップのチームの代表1人が全問(12問)正解すれば30万円の「タイムショック」に挑戦するというルールで行われ、タイムショックシートも簡易セットだったため5問以下のトルネードスピンもなくかわりにスタジオの照明が赤転されるだけだった。独自の出題形式であるため、後のクイズ番組に影響を残す、ユーモアを交えた問題形式が誕生している。旧版では賞品紹介とエンディングのみに出演する程度であった。ただし廣瀬の場合は途中から山口の隣に常時居座るようになっていた。『タイムショック21』では「出張タイムショック」というコーナーがあり、リポーターを設けていた。これは、ミニセットを設置したトラックとともに依頼先へ向かいコーナー司会を務めるというものであった。なお、高校生以下の者が参加した場合には、賞金は現金ではなく図書券にて支払われていた(田宮・山口ともオープニングアナウンスでその旨を告げていた)。この番組は暗転から始まり暗転で終わるという進行だった。初代司会者田宮は1969年1月9日(第1回放送)から司会を担当。ただ、晩年は躁鬱病に悩まされており、自身から番組降板を申し入れ、1978年9月28日放送(第504回放送分)を持って山口に司会を交代した(その後田宮は、同年12月28日に自殺)。 同じく出場者の中で、北川宣浩が田宮・山口時代では唯一の偉業を達成した。その内容は、1977年(第458回放送分)に5週間連続勝ち抜きを達成して一回目の100万円を獲得、さらにその8年後の1985年(第864回放送分)に行われた「グランドチャンピオン大会」(過去の100万円獲得者を集めて実施)で、今度はパーフェクトを達成して二回目の100万円獲得を決めた。つまり、5週勝ち抜きとパーフェクトの異なる獲得形態で二度も100万円獲得を果たしている。子供の出場に関しては、夏休みなどに放送された特集「小学生大会」「中学生大会」「高校生大会」「親子大会」などのみしか、原則的に認められていない。またキャロライン洋子は「特集・小学生大会」(放送年月不明)、「特集・中学生大会」(1976年9月2日放送)にそれぞれ出場しており、後者での結果は5問正解。「日本語での出題が聞き取りにくかった、英語だとそれよりいい結果になっていたかもしれない」とコメントしている。2代目・山口時代の1984年3月29日放送分では、声優の横沢啓子が回答者として出場。当時出演していた『The・かぼちゃワイン』での役を意識した紹介と挨拶がなされていた。結果は9問正解。800回記念特集では過去16年の放送で印象に残った場面を織り込み、芸能人挑戦者や、第1回放送が行われた1969年1月9日に生まれた当時高校生の少年、さらには山口が司会者として初めて挑戦した(結果は8問正解)。山口挑戦時の進行は出題者の矢島が担当。山口の挑戦の前にそれまでの解答者の成績とトップ賞の賞品紹介のあと、ナレーターの矢島が番号選択し、すでに解答席に座っている山口が「タイム・ショック!!」とコールし開始した。挑戦終了直後に「800」の文字が書かれたカーテンが、時計台の前に表れるという演出もあった。12問のクイズが終了した後、山口は「何問行った?」と言って結果を確認し、矢島が「8問です」と答えながら、エンディングで顔出しをした。脚本家の小山高生は駆け出しのころ、企画集団Qのバイトの一環で問題作成や正解チャイムを担当したことがあったという。山口時代最後の3週は特別企画が行われ、1週目(第886回)は珍芸・奇芸を持った子供7人による大会で挑戦後にはそれぞれ持ち芸が披露された。2週目(第887回)では番組に携わった広告代理店・スポンサーの代表7人が挑戦。荏原製作所の女性社員が山口時代最後のトップ賞を獲得した。そして3週目(第888回)では過去に番組に多大な功績を残した人々を迎えての回顧録であった。この回ではタイムガールズの代表、大泉滉、北川宣浩、廣瀬雅子が特別にクイズに挑戦。矢島が顔出しで問い読みをしたが、結果は大泉が2問正解で最後のペナルティ経験者となった。大泉は芸能人大会、700回大会、800回大会を含め6回出場したが全て3問以下で椅子が回転した。なお、第888回では、当時テレ朝アナウンサーだった廣瀬雅子がクイズに挑戦したが、3問目で「タイムショック 初代のアシスタントは誰?」という問題が出された。正解は、上記の通り渋沢詩子である。番組終了後、CBCラジオの番組でリスナーからのリクエストに答えて、タイムショックのテーマミュージックをかけた。3年半ぶりに鳴り物入りで復活したが、真裏に当時全盛期の『ドラゴンボールZ』(フジテレビ)があったため、視聴率も最高で7.0%と低迷し、半年で打ち切られたた。第1回目の放送冒頭に生島が「新装開店」という発言をした。この時期に限り、挑戦者のことを「タイムショッカー」と呼んでいた。上述のタイムショック独特の問題は出題されず、問題自体の難易度も田宮・山口の頃よりは高かった。毎回特定の条件に沿った挑戦者による「○○○○大会」という志向であり、挑戦者の中には毎回1 - 2人芸能人が混じっていた。正解数の多かった挑戦者にはトップ賞が贈られたが、前期は週代わりの品物(フグ料理等)、後期は週代わりの行先の海外旅行となっていた。なお、該当者が2人以上の場合は早押しクイズで決着をつけていた。1989年11月頃の放送では、その回に出場した解答者6人中5人がショックポイントのついた問題で不正解、失格となったため、唯一最後まで解答できた1人がトップ賞を獲得した(9問正解、賞金60,000円獲得)。 1989年12月30日放送の懐かしアニメスペシャルの中では「懐かしアニメタイムショック」というコーナーでセット・司会者もそのままで懐かしアニメ問題限定のタイムショックを行った。 最終回は、2週に渡って実施(1990年3月14日・21日)。100人の参加者(殆どが、過去の挑戦者とクイズマニア)で一斉早押しクイズを行い、正解した人が挑戦できた。通常のタイムショック(ショックポイントなし)に加え、ショックポイントが最初の3問や最後の3問に仕掛けられていたり、遂には12問全てにショックポイントが仕掛けられた問題もあった。また、全問YES・NOクイズが出題される問題(しかも、全て正解がYESというおまけ付き)もあったりと、最終回限定で色々な問題が出題されたが、結局最後まで、生島司会期では1人もパーフェクトは誕生しなかった(11問正解20万円獲得は多かった)。最終回エンディングでは、オフコースの「さよなら」が流れた。番組終了直後、同スタッフが務める『ミュージックステーション』の司会も担当していた(1990年4月から1993年3月まで)。2000年9月30日(土)12:55から一部の地域で1時間のプレビュー放送(番組対抗芸能人大会)が放送された。その時セットやルールは、その後に始まる「21」ほぼ同様だったが、「ファイナルタイムショック」の60秒BGMは、田宮二郎時代の最終バージョンを使用していた。「タイムショック21」のオリジナル60秒BGMの初披露は、「ナインティナインだ!!新番組をやらせろスペシャル2」(2000年10月12日放送)で。初の1000万円獲得者は慶應オッサン大学生チームの駒田純久である。これは14年11か月ぶりのパーフェクト達成である。国会議員がチームを組んだ対戦が2001年1月に2回行われたこともある。1回目は自民党VS民主・社民連合で、「ビジュアルタイムショック」で民主・社民連合チームが勝利し、当時社会民主党議員だった横光克彦が「ファイナルタイムショック」に挑戦。「クイズタイムショック」以来2度目の挑戦であったが、トルネード。その次に行われた自民党と民主党の対戦では「ビジュアルタイムショック」で民主党が勝利。枝野幸男議員が「ファイナルタイムショック」に挑戦したが、こちらもトルネードし失格。また、1回目の対戦の際に賞金がチャリティに回される「チャリティタイムショック」が行われ、自民党チームが3人挑戦したが失格、賞金を没収された。日本ハムファイターズ(当時)の岩本ツトム(現・岩本勉)が獲得賞金を全額寄付する「チャリティタイムショック(※)」に挑戦した際、6問正解でクリアしたにもかかわらず自ら回してくれと希望。希望通りトルネードさせたが、何故かマシンが故障、元に戻るまでの十数秒間斜め45度前のめりの状態で停止してしまった(※本来の挑戦はトルネード・失格により賞金没収となったため急遽行われた)。SINGLESにおいて、挑戦終了後に解答に対する審議が行われたことがある。ビビる大木が挑戦した際、次の問題で審議となった。「新山千春は今何歳?(問題読みは「新山千春って今何歳?」)」正解は20歳(当時)だったが、大木は「20,21」と回答。その時はチャイムと共に正解ランプが点灯したが、終了後に審議に入って「言い直しによる不正解」と判断。しかもその時、大木は6問正解だったため、シートに固定されたまま再び椅子が上昇、5問正解と言うことになりトルネードスピン・失格に。このように、正解を言った後言い直して違う答えを言った例は過去に何回かあるが、不正解と判断されるのは極めて異例のことである(通常では正解扱いされる)。イジリー岡田もカンニングが発覚。11問目の「今、何問目?」と言う問題の時ちらっと右上を見て回答。チャイムと正解ランプは点灯したものの、これは不正解。なお、結果は正解が5問以下だったのでトルネードスピン・失格だった。ナインティナインの岡村隆史は、旧ルール(6問以下トルネードスピン)と新ルール(5問以下トルネードスピン)で2度トルネード・失格を経験している。1回目は、前述の「ナインティナインだ!!新番組をやらせろスペシャル2」で。この時は6問正解でトルネード・失格。2回目は番組対抗スペシャルで「ナイナイナ」チームとして登場。その時は5問正解でトルネード・失格の憂き目にあっている。2001年6月25日放送、リレータイムショックにて 日高大介率いる「苦学生チーム」が日高が11問・500万円を獲得するなど950万円まで積み立てるも最後の挑戦者が5問により賞金没収、保証金の100万円は獲得できたものの、あと1問で1000万円を逃した。この「5人リレータイムショック」は、1000万円を獲得したチームは少なかった。2001年8月には大磯ロングビーチで番組収録を行った。内容は「グラビアアイドル クイズNo.1決定戦」(アイドル達が芸能問題に挑戦、正解数5問以下で高台の滑り台でプールに叩き落される「トルネードダイブ」)、「サマージャンボタイムショック」(一般参加者対象で、出張タイムショックと同じクイズ形式)、過去にトルネードスピン・失格を食らった芸能人を叩き直す「緊急企画 高所恐怖症克服トルネードファミリー リベンジへの道(高さ7メートルの飛び込み台の上で挑戦。正解数5問以下で解答者の後ろにセットされている巨大風船が膨らみ、圧迫された末にプールに落とされる「トルネードダイブ」、成績優秀者は「芸能人10vs10バトルロワイヤル2」出場権獲得)」しかし、「グラビアアイドル クイズNo.1決定戦」では出場者の成績が悪い上、これまでのタイムショックとは雰囲気が変わりすぎた事、「高所恐怖症克服企画」ではクリアしたにも関わらずプールに落とされたり、高台に置き去りにされるなどの演出があったため批判が殺到した。「サマージャンボタイムショック」ではクジ引きで出場者を選ぶ形式で行われ、前出の日高大介が選ばれて11問正解・100万円を獲得した。また、21と出張のタイムショックの時計台搭乗を経験した(後述する「個人戦最強コロシアム」でも、予選1位通過したものの、7問正解10万円獲得にとどまった)。『タイムショック21』の末期「個人戦最強コロシアム」になると「クイズ王決定戦」のような趣の個人戦となり、一般人には(時間が十分にあったとしても)到底正解できないような難問ばかりが出題され、出演者も名の知れた(過去に同番組にも出場経験のある)クイズマニアばかりになってしまった。『タイムショック21』最終回ではチャンピオンは2人誕生し、そのうちの一人は過去にタイムショック優勝経験を持つ石野まゆみだった。また、最終回で2週勝ち抜きになった石野まゆみは、5週勝ち抜きは不可能なので、代わりに第5期の賞金額の10倍の賞金ルールで「ファイナルタイムショック」行い、賞金を貰っていた。結果は12問目で不正解し、レギュラー最後での1000万円獲得はならなかった。2004年の現ルールで実に5年目にして山口良一がレギュラー問題でのタイムショックで初の全問正解をした(このときは∞リレータイムショックでこのラウンドでは山口を含め計8人が進み、最終走者の江守徹が6問正解と同時に1600万円到達、賞金獲得となった)。それから1年5か月後に今度は宮崎美子が女性陣として初のレギュラー問題でのタイムショックで全問正解した(このルールでは宮崎が唯一なしえた。また「21」時代では宮崎と麻木久仁子が11問正解が最高だった)。2007年4月8日14:00からテレビ朝日系列(ただしKBC、熊本朝日放送、大分朝日放送のみプロ野球中継のため、16:00からの時差ネット)で1時間25分のプレビュー放送「新タイムショック2007・お披露目スペシャル!」が放送された。2000年9月30日の「タイムショック21 番組対抗芸能人大会」以来のゴールデンタイム以外の放送となった。このときは、通常の解答席を使わず、シンプルなもので5問以下のトルネードはなく照明を赤点していた。2007年4月18日19:00 - 21:48の「スイスペ」にて本放送がされた。サブタイトルは「春の豪華番組祭り」。テレビ朝日系列の人気番組や4月からの新番組の出演者によるチーム対抗戦。3人一組で前半6チーム、後半6チームという構成。クイズは「映像早押しクイズ」「お絵かきステージ」「カーリングステージ」などで、勝利チームが「ファイナルタイムショック」への挑戦権を得る形式だった。その時トルネードスピンとなったのは2代目そのまんま東・東幹久の2人だった。芸能人18名が、「タイムショッククイズマスター」の座をかけてタイムショックに挑戦する。一次予選としてタイムショック史上初の、「6人同時タイムショック」が行われる。内容は、1チーム6人に別れ、6人の回答者がヘッドホンをして同じ問題(レギュラー問題)に挑み、成績のよい上位4名(合計12名)が二次予選に進め、下位2名(合計6名)がその時点で敗退する。2次予選ではA・Bのブロックに分かれAブロックでは小学校で習う問題が出題され、Bブロックでは面白3択問題と題しさまざまなジャンルから3択が出題された。プライベートタイムショックでは正解数に応じて獲得した賞金をかけて自分のことに関する問題が出題され、正解数に応じて獲得賞金が倍になった。なお、和田アキ子がこれでパーフェクトを達成した。この放送では、Aブロックの小学校で習う問題で体育のジャンルを選んだ西川史子だけが正解数3でトルネードスピン・失格となった。現在まで19回開催され、宮崎美子(第1回、第12回、第13回、第16回、第17回(トーナメントSP1))、宇治原史規(ロザン)(第2回、第9回 - 第11回、第18回(トーナメントSP2))、麻木久仁子(第3回)、本村健太郎(第4回、第15回)、ピーター(第5回)、東貴博(第6回)、辰巳琢郎(第7回)、やくみつる(第8回、第14回)、金田一央紀(第19回(絶対クイズ王誕生SP))の9人が優勝している。最多出場は宇治原の14回である。2位は本村の13回、3位は辰巳琢郎の11回、4位は宮崎美子の10回。比較的頻繁にパロディ・オマージュが見受けられる。ここではその番組をいくつか紹介する。開始から長らく(1983年頃まで)視聴率は良好であった。しかし、1985年春には出場者を8人に増やし、オープニングの語りを割愛し、アシスタントの出番を増やすなど明るさを求めた傾向のリニューアルを施すが、1986年3月27日の放送をもって17年3か月・888回で終了した(後番組の『三枝の国盗りゲーム』は前週3月20日に終了した)。1人もパーフェクトが出ないまま半年で打ち切られた。『タイムショック21』放送開始時には「14年ぶりの復活」と銘打っており、生島時代の歴史が割愛されているが、「朝日放送の50年・III資料集」(朝日放送発行)では放送資料年表の欄に放送年月日と期間が記載されている。2009年2月2日に「50時間テレビ」の一環として放送された「Qさま!!・プレッシャーSTUDY」では、過去と現在のテレビ朝日の出演者を解答者としていたが、生島の肩書は「クイズタイムショック」となっていた。また、2月8日の「あのシーンをもう一度!伝説の高視聴率超大ヒット人気番組ぜ〜んぶ見せます!スペシャル」においても、歴代のタイムショックの司会者として生島の映像が流された。視聴率は生島時代よりは改善はされたが、2002年6月17日をもってレギュラー放送は終了、特番に格下げされた。放送開始当初は日本の民放にはまだオープンネット局状態が色濃く残っており、テレビ朝日系列局が少なかったこともあって系列を超えて、また当時は1・2局しかない地域でも、同時ネットされることが多かった。中には、時折所属系列の19時台後半の番組が19時から拡大して放送されたときでも、通常通り本番組をネットして19時半から飛び乗る現象もみられた。なお、この元祖のみオープニングではネット局の紹介テロップが流されていた(田宮時代初期 - 山口時代初期まで、番販ネット局を除く、同時ネット局のみ表示された)。また、静岡けんみんテレビ(現:静岡朝日テレビ)は1978年7月1日の開局以降、同時ネットであったにもかかわらず、マイナーチェンジした同年10月5日放送分までネット局の紹介テロップにて表記されなかった。●はスペシャル版ネット局。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。