遠国奉行(おんごくぶぎょう)は、江戸幕府の役職の一つ。江戸以外の幕府直轄領(天領)のうち重要な場所に置かれ、その土地の政務をとりあつかった奉行。役方に分類される。遠国奉行は、幕末時点では京都町奉行・大坂町奉行・駿府町奉行の各町奉行と、長崎奉行・伏見奉行・山田奉行・日光奉行・奈良奉行・堺奉行・佐渡奉行・浦賀奉行・下田奉行・新潟奉行・箱館奉行・神奈川奉行・兵庫奉行の各奉行の総称である。伏見奉行は大名から、他は旗本から任ぜられた。老中の支配下で、芙蓉間詰諸大夫役。役高は1,000石から2,000石と任地により異なり、役料が支給されることもあった。遠国奉行の管轄地を奉行知行所と呼ぶ。慶応4年(1868年)に江戸幕府が倒れると、同年1月から4月にかけて、明治政府によって長崎・京都・大阪・佐渡・新潟・箱館・神奈川・兵庫に裁判所が置かれた。各裁判所は5月から9月にかけて府に改組された(ただし佐渡・兵庫は県)。なお山田・奈良には裁判所を経ずに度会府・奈良県が設置された。また江戸には7月に江戸府が置かれ、9月に東京府に改称している。明治2年(1869年)7月17日、府の名称は東京府・大阪府・京都府に限るとした太政官布告により、長崎府・度会府・奈良府(奈良県より改称)・新潟府(越後府より改称)・箱館府・神奈川府は県に改称された。そのうち長崎・京都・大阪・奈良(一時的に堺県に編入)・新潟・神奈川・兵庫の各府県は現在も存続しており、遠国奉行が事実上の前身に当たると言える。松前奉行までは幕末時点での序列順。後身は管轄地域を基準としたものであり、行政機関としての後身ではないものもある。駿府の町政の他、駿河国内の天領の、主に公事方を扱った。駿府の在勤だが、駿府城代ではなく老中の支配に属した。駿府城代と協議して駿府を通行する諸大名諸士の密察、駿河や伊豆の裁判仕置、久能山東照宮の警衛を役務とした。定員は2名で横内組町奉行と大手町奉行があった。慶長12年(1607年)に設けられて2人が任命されるが、元和2年(1616年)以後しばらく廃職となる。寛永9年(1632年)4月に再置されてから、元禄15年(1702年)9月まで2人体制を継続した。元禄15年(1702年)9月に1人役と改め、横内組を廃止する事となった。役高1,000石・役料は500俵。慶応3年(1867年)には役金1,500両と決められた。城中では芙蓉の間席。配下は与力8騎・同心60人・水主50人。下田奉行は、伊豆下田の港の警備、船舶の監督、貨物検査、当地の民政が役務であった。1,000石高の職で役料が1,000俵支給された。定員は1、2名。当初元和2年(1616年)に伊豆下田に置かれていたが、享保5年(1720年)には江戸湾内の経済活動の活発化に伴って相模浦賀に移転し、当時の下田奉行・堀隠岐守利雄が初代浦賀奉行となる。この時は佐渡奉行の次席、役料は500俵だった。浦賀奉行の定員は時代によって変わった。浦賀奉行の役務は、江戸湾に入る船舶の監視・積荷の検査・相模や浦賀の民政裁判等を担当した。配下は組頭と与力10騎、同心50人、ただし人数は時代によって変化した。他に、足軽20人、水主頭取11人、足留水主190人がいた。文化年間になると、日本へ外国船が来航するようになり、浦賀奉行の職務に江戸湾の警備が加わることになった。相模側の警備は、浦賀奉行を中心として、川越藩(非常時には小田原藩も)が援護することとなった。役高は1,000石で、役料500俵を支給された。嘉永6年(1853年)の黒船来航以後は、重要性が増し、2,000石高となる。慶応3年(1867年)には、従来の足高、役知、役料、役扶持を中止して、役金として1,500両が支給された。幕末期には外国との交渉の窓口となった。天保13年(1842年)-天保15年(1844年)及び嘉永7年(1854年)-万延元年(1860年)にかけては外国船の来航に備えて下田奉行も再置され、この期間には浦賀・下田の両奉行所が並存していた。主として陸奥会津藩士が赴任した。浦賀奉行定員数興福寺・東大寺など南都の大寺院の監視とその門前町(北町・南町)の支配のため設置。南都町奉行とも呼ばれる。老中支配だが、直接には京都所司代の指揮下にあり、その主要任務は春日大社の警衛と神事であった。慶長18年(1613年)に設置。定員1、2名。役高1,000石で、役料700俵を支給された。奈良に駐在し、配下は与力7騎と同心30人に牢番1人。奉行所は現・奈良女子大学の敷地内に置かれていた。江戸幕府以前、豊臣政権時代の天正10年(1582年)にも同名の奉行職はあった。その役務は、蝦夷地の行政や警固(防衛)であった。東北諸藩に出兵を命じて各地に陣屋を築き警固したほか、道路網の整備を行った。また、前期奉行の治世中には寛永通寳鉄銭が広く流通し、幕末には箱館通宝の発行なども行われた。18世紀末のアイヌの反乱(クナシリ・メナシの戦い)、ロシア人・アダム・ラクスマンの来航を背景に、幕府は北辺警護のため松前藩の領地であった東蝦夷地(北海道太平洋岸および千島列島)を寛政11年(1799年)に上知。そして、享和2年(1802年)2月、箱館に蝦夷奉行が設置され、戸川安論・羽太正養の2名が任命され、うち1名が1年交代で箱館に駐在した。同年5月箱館奉行に改称する。文化元年(1804年)宇須岸館(別名・河野館または箱館)跡(現在の元町公園)に奉行所を置き、これに伴い、同地にあった蝦夷地総社・函館八幡宮を会所町(現八幡坂の上)に遷座した。文化4年(1807年)、文化露寇を機に、和人地及び西蝦夷地(北海道日本海岸とオホーツク海岸および樺太(樺太は文化6年(1809年)北蝦夷地に改称))も上知、箱館奉行を松前奉行と改め、松前に移転した。ロシアの脅威が収まった文政4年(1821年)、和人地及び全蝦夷地を松前氏に還付し松前奉行は廃止された。幕末の箱館開港を機に、乙部村以北と木古内村以東の和人地と全蝦夷地(北州)が再度上知され、安政3年(1856年)再び箱館に箱館奉行が置かれる。開港地箱館における外国人の応対も担当した。定員は2 - 4名で、内1名は江戸詰となる。役高は2,000石で、役料1,500俵、在勤中の手当金700両が支給された。奉行所は、最初は前回同様宇須岸館跡に置かれたが、元治元年(1864年)奉行所を五稜郭へ移転した。天保14年(1843年)に天領となった新潟周辺の地域を支配するため新設。設置の理由は日本海交通の要衝である新潟港の管理であった。その後、開国に当たり新潟が開港地となったため、その重要性が増した。新潟に駐在し、その民政や、出入船舶の監視、密貿易の取り締まり、海岸警備、海防強化が役務であった。老中支配で、1,000石高、役料1,000俵、慶応3年(1867年)には石高にかかわらず役金2,000両となった。定員1名。元治元年(1864年)に小笠原摂津守が任じられたのが最初である。翌慶応元年(1865年)に兵庫港が廃止され、兵庫奉行の池野山城守好謙は堺奉行へ転役。慶応3(1867年)年に、兵庫開港となった際に再び設置された。老中の支配下で、芙蓉の間席。1,000石高、役料現米600石。慶応3年9月には役金3,000両と定められた。慶応4年(明治元年、1868年)の『武鑑』では、2,000石高、役料1,500石と記され、柴田日向守剛中の名が記載されている。配下に支配組頭が付属。
出典:wikipedia
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