鄭樵(てい しょう, 1104年(崇寧3年) - 1162年(紹興32年))は、中国の南宋代の歴史家で、『通志』の撰者である。字は漁仲、福建の莆田県の出身、夾漈先生と号す。若い間に諸国を歴遊して蔵書家のもとを経巡り、知識を吸収した。1149年(紹興19年)、高宗に、『通志』の中でも名高い二十略に通ずる内容の著を提出した。それを機縁として、高宗に謁見を許され、断代史を否定する史論を上奏した。礼部に任官を果たすも、宰相秦檜による強権政治の被害者の一人として、地方官に出されてしまう。しかしその間も『通志』に繋がる著述活動を中断することなく、枢密院編修官として中央への復帰を果たす。南宋にとって外患であった金朝の官制調査を思い、秘書省に蔵された書物の閲読を願い出たこともあった。これは、当時における現代史への強い興味を意味している。1161年(紹興31年)、開封に遷都を果たしていた金と南宋との対立は激化し、高宗自らが出陣するほどの情勢となった。鄭樵は行宮留守幹弁公事として都の臨安の留守となり、勅命によって完成していた『通志』200巻の献上を命じられたが、まもなく病没した。他に著作として『爾雅注』3巻や『夾漈遺稿』などがある。鄭樵の歴史家としての評価を与えたのは、清代の章学誠である。
出典:wikipedia
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