大阪市立南高等学校(おおさかしりつ みなみ こうとうがっこう)は、大阪府大阪市中央区に所在する市立の高等学校。英語科と国語科の普通科系専門学科2学科を設置する専門高等学校。学校規模は1学年あたり各学科2クラスずつの合計4クラス、全体で12クラスで、大阪府の高校としては小規模である。英語科は大阪府内の公立高校では最初に設置された。英語を重点的に学び、英語力向上のために、少人数授業やALTとのティームティーチングによる英会話の授業、海外研修旅行や宿泊セミナーなどをおこなっている。国語科は高校の専門学科としては日本唯一で、国語について重点的に学ぶ。現代文や古典、表現、古典芸能に関する専門科目が開講されている。また、文学ゆかりの土地の見学、作家やジャーナリストなどによる特別講義などもおこなわれている。アメリカ合衆国・オーストラリア・中華人民共和国の高等学校とそれぞれ姉妹校協定を結んでいる。校歌は、同校教諭として勤務したことがある作家・庄野潤三が作詞を手がけている。昭和時代初期の高等女学校への進学希望者増加に伴う入学難緩和のため、大阪市立としては扇町高等女学校・桜宮高等女学校に次ぐ3番目の高等女学校・大阪市立南高等女学校として、1937年4月15日に南区西賑町(現在地)に開校した。開校当初は、尋常小学校卒業者を入学対象とした5年制の学校だった。校舎敷地は、この年限りで廃校となった旧大阪市育英高等小学校の敷地を継承した。また同校に併設されていた育英高等家政女学校の教育実践も継承する形になった。1938年2月13日には校内に、夜間部の大阪市立南第二女学校を併設している。大阪府の公立学校としては初めての夜間女学校であり、府下でも夜間女学校は私立扇町夜間女学校と並んで珍しいものだった。南第二女学校は1944年に大阪市立南第二高等女学校へ改編され独立した。太平洋戦争中には戦時体制として、工場への動員が実施された。また修業年限も4年制へと短縮されている。終戦後に5年制へと復帰した。学制改革により、1948年4月1日に大阪市立南高等学校として発足し、全日制普通科を設置した。大阪市では当時市立として設置されていた旧制中等教育学校について、全校を形式的・暫定的に新制高等学校へと移行させたが、戦災被害などを考慮して学校を整理統合することにしていた。1948年4月21日には、敷地を新制中学校に転用することになった大阪市立桜宮高等学校が南高等学校の敷地内に移転し、2校が同居することになった。学校名については当時、「大阪市立南桜宮高等学校」と併称することもあった。桜宮高等学校は1950年、独立校舎を設置して退去している。1948年6月15日には大阪府立今宮高等学校および大阪府立泉尾高等学校と生徒・教職員を交流し男女共学となった。1956年には鰻谷の大阪市立大学敷地(旧制大阪市育英商工学校跡地)を運動場として譲り受け、翌1957年より運動場として使用した。鰻谷運動場は大阪市立南中学校の移転・建て替え用地として提供されることになり、1983年3月に廃止している。廃止の代替地として、1983年4月より旧南中学校分校敷地(旧制渥美尋常小学校跡地、現在の住所では中央区南船場1丁目)が提供され、南船場運動場として使用している。1960年代には生徒数増加に伴う学級増のため、特別教室を普通教室に転用したり、屋上にプレハブ校舎を設置するなどした。敷地狭隘化や校舎老朽化により、1960年代前後から郊外移転なども含めた対策が検討された。大阪市教育委員会は移転先として瓜破(現・平野区)や南港(現・住之江区)などの案を提示した。しかし学校関係者は「移転する場合は、南区内もしくは近辺での移転を希望する」と強く主張し、郊外移転案は立ち消えになっている。結果的に現在地での校舎建て替えが、1986年2月に決定した。1986年8月には浪速区難波中3丁目8-26、旧大阪市立難波小学校跡に仮移転し、仮校舎で約1年半の間教育活動をおこなった。1988年3月に現在地に新校舎が竣工し、1988年4月より使用を開始している。また1988年度より、普通科に加えて英語科を新設した。さらに1991年には国語科を新設した。国語科新設に伴い、普通科は1991年度より募集停止となっている。
出典:wikipedia
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