矢崎 泰久(やざき やすひさ、1933年1月30日 - )は、日本の編集者。元『話の特集』の編集長、フリージャーナリスト。私塾「学校ごっこ」常任講師。別名、笠倉 泰久。文藝春秋社社員で菊池寛の秘書役だった矢崎寧之(笠倉寧之)の息子として東京府に生まれる。幼名、祥夫(さちお)。国文学者物集高量は叔母八重の夫。やはりおばの佐藤碧子は菊池寛の秘書かつ愛人をつとめ、小磯なつ子の筆名で直木賞候補作家となった。父の義兄、石井英之助は六興出版社社長。次男は『週刊アスキー』編集部の矢崎飛鳥。小学校から高校までを成城学園で過ごす。早稲田大学政治経済学部政治学科中退。日本経済新聞社記者や内外タイムス記者を経て、1965年に父親の経営する日本社から『話の特集』を創刊。1967年に邱永漢の出資により話の特集社を独立させた。デザイナー和田誠、放送作家永六輔、俳優伊丹十三など、他方面で活躍していた才能をイラストレーター、ライターとして雑誌に起用した。他に色川武大の、色川名義での再デビュー作『怪しい来客簿』を連載。また、雑誌の連載をとおして中山千夏とは意気投合し、二人のユニット「狭間組」を結成して著作活動などを行なった(1995年休刊)。1975年、田原総一朗らと日本ジャーナリストクラブ(JIC)を立ち上げる。その資金集めのため、新宿コマ劇場にて「のんすとっぷ24時間」という討論会(司会:中山千夏)を行なった。なお、このイベントが田原が後に制作する『朝まで生テレビ!』の原型となった。革新自由連合所属で中山千夏が参院議員の時代には、公設第一秘書もやっており、1983年6月26日に行われた参議院議員選挙では、無党派市民連合候補として比例区から立候補したが落選している。かつて『週刊金曜日』に連載を持ち、また"ラジオ版話の特集"としてエフエムさがみにもレギュラー出演している。2002年から2007年まで、校長が中山千夏。講師陣が永六輔、矢崎、小室等という私塾「学校ごっこ」に係わった。2006年11月19日、『週刊金曜日』主催で日比谷公会堂にて行われた「ちょっと待った! 教育基本法改悪 共謀罪 憲法改悪 緊急市民集会」に参加。皇室をテーマにした寸劇に出演し、「さる高貴なご一家」にて、今上天皇が以前患った前立腺癌に対して矢崎が「あちらの生活も支障をきたしますね」と応じた。『週刊新潮』(12月7日号)は、寸劇の様子を「『陛下のガン』も笑いのネタにした『皇室中傷』芝居」と題して報じた。矢崎は寸劇に出演した経緯について、予定されていた出演者が出られなくなたっため代役を頼まれたと述べている。上記事件の影響で収入が激減したことや所得税滞納分の支払いのため収入が差し押さえられたために破産宣告を受け、2008年8月20日より破産手続きが開始されている。麻雀好きでもあり、1982年の著書『あいつの麻雀』では麻雀仲間の雀力を批評。それに反発した面々が、矢崎に挑戦状を叩きつけ、「近代麻雀」雑誌の企画で、以下の16人のメンバーで麻雀を打った。結果は、矢崎は16人中2位で、挑戦者たちを「返り討ち」にした。
出典:wikipedia
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