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李承福

李 承福(イ・スンボク、1959年12月9日 - 1968年12月9日)は、韓国江原道で北朝鮮の武装工作員に殺害された少年で、韓国においては反共主義のシンボル的存在として知られる。イ・スンボクは、両親と祖母、兄と弟、妹の7人家族で、江原道平昌郡珍富面(現在の龍坪面)で生まれ、1967年3月から束沙(ソクサ)国民学校桂芳(ケバン)分教場(現在の初等学校。日本の小学校に相当)に通っていた。1968年11月、北朝鮮の武装工作員部隊120名は対南工作としての拠点と内通者を作るべく、江原道の東海岸の町三陟の海岸から韓国に侵入した(「蔚珍・三陟事件」)。当時の韓国はクーデターで政権を掌握した朴正煕大統領であり、圧政に疲弊した民衆は北側の宣伝に呼応するだろうとの北の目論見があった。12月9日(奇しくもスンボクの誕生日であった)の夜、韓国軍に追われた武装工作員達はスンボクの家に押し入った。この時、父と祖母は近所の引っ越しの手伝いで留守だった。武装工作員達は一家を監禁、北の主張と共産主義思想を強引に説いた。そして、武装工作員は一家に「北が良いか、南が良いか」と問い質した。これに対するスンボクの答えは「僕は共産党が嫌いです」だった。これに激昂した武装工作員達は、一家の殺害を決意。一家はめった刺しにされ、あるいは石でめった打ちにされた。特にスンボクは(悪言を吐いた)その口を刃物で裂き切られた。惨劇の最中に帰宅した父は、武装工作員達の反撃にあいながら近くの軍部隊に助けを求めたが、応援に駆けつけた時は既に事潰えた後だった。この事件でスンボクと母、幼い弟と妹の4人が犠牲となり、スンボクの兄は重傷を負ったものの一命を取りとめた。生き残ったスンボクの兄の証言を元に、朝鮮日報は事件現場の惨劇な写真と共に事件の顛末を大々的に報じ、韓国内を震撼させた。同時に、命を賭しても共産主義に立ちはだかったスンボクの態度は「反共の鑑」として宣伝の材料となった。冷戦下の当時、対共産圏の最前線だった韓国政府ではこの事件を小学校の道徳の教科書に取り上げ、韓国各地の学校にスンボクの銅像を建てるなど、スンボクを「勇敢な愛国少年」として反共主義のシンボルに祭り上げた。小学校では北朝鮮の残忍さを強調するため、教師たちがスンボクが殺害される様子を生々しく語ったという。1992年秋、韓国のある雑誌が「イ・スンボク事件は捏造である」との記事を掲載した。記事では、朝鮮日報がスンボクの兄の名前を誤って掲載したこと、スンボクの口が裂かれていなかったとの住民の証言があること、などを根拠として事件は「朝鮮日報の作文である」と批判した。当時は朴正煕大統領の軍事独裁下にあり報道が規制されており、国家を反共で纏め上げるために事件をでっち上げた、という主張であった。1998年11月、朝鮮日報はこの編集者ら二人を名誉毀損で刑事告訴、1999年7月ソウル地方検察庁は二人を在宅のまま起訴した。2002年、一審で二人にそれぞれ懲役6ヶ月と10ヶ月の有罪判決を言い渡した。2004年10月28日、ソウル地方裁判所の控訴審判決で、「報道の自由は容認されるべき」とする一方で、「(朝鮮日報の)記事は事実に基づいている」として、スンボク事件を「事実」と認定した(二人の被告人はそれぞれ執行猶予つきの懲役刑と無罪となった)。2006年11月24日、大法院(最高裁判所)は二審判決を支持、事件を事実と認定した判決が最終確定した。しかし、この問題により、韓国の学校教育の場でスンボク事件が取り上げられる事が減り、若い世代を中心に「事件は捏造」と考える国民が増えるといった影響が出たという。また、各学校に建てられていた銅像も多くが撤去された。1982年、スンボクの生家付近に李承福記念館が建てられた。敷地内にはスンボクが通っていた束沙国民学校桂芳分教場の校舎もある。

出典:wikipedia

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