上杉 慎吉(うえすぎ しんきち、1878年(明治11年)8月18日 - 1929年(昭和4年)4月7日)は、明治後期から昭和初期にかけての日本の憲法学者。天皇主権説を主張する君権学派(神権学派)であり、天皇機関説と激しい論争を展開した。父上杉寛二は元大聖寺藩(現、石川県加賀市)藩医。旧制四高補充科予科、旧制四高を経て、1898年に東京帝国大学法学部に進学、憲法学教授で天皇主権主義の穂積八束に師事して憲法を学んだ。1903年東京帝国大学法学部政治学科卒業(恩賜の銀時計を授与される)、同年には同大学助教授に就任した。この頃の上杉はキリスト教に傾倒したり、1905年に公刊した『帝国憲法』・翌1906年に発表した『比較各国憲法論』では国家法人説の立場に立ち師の穂積説を批判する立場だったが、同年から1909年までドイツへ留学(「西遊研学」)し国家法人説を唱えていたゲオルク・イェリネックの指導を受けて以降は穂積説の後継者を自任するようになった。陸軍大学校や海軍大学校の教授も務め、皇族にも進講し、同僚の筧克彦は「勅奏任の行政官にして教授の憲法学説に親まざる者殆んど悉無といふべし」と評している。1910年代に入ると「天皇即国家」「神とすべきは唯一天皇」「天皇は絶対無限」「現人神」とする立場から同じく東京帝国大学の美濃部達吉が打ち出した天皇機関説を批判するようになる(天皇機関説論争)。陸軍のボスである山縣有朋と接触し、1913年には上杉を発起人兼幹事に大島健一、江木千之、杉浦重剛、筧克彦と桐花学会を創設。1916年には吉野作造の民本主義を批判する一方、後に「資本論の会」や葬儀に参加するほど高畠素之と親しくなって高畠一派と経綸学盟を設立するなど国家社会主義運動を進め、1926年には建国会の会長に就任(顧問は平沼騏一郎や頭山満と荒木貞夫、理事長は赤尾敏、書記長は高畠門下の津久井竜雄)。1920年に森戸辰男の発表した論文「クロポトキンの社会思想の研究」を「学術の研究に非ず、純然たる無政府主義の宣伝」と排撃した(森戸事件)。甘粕事件の甘粕正彦の擁護から軍部の石光真臣や福田雅太郎とも結びついて山縣有朋と親交を深めた。上杉の学説を熱心に支持する学生達は国家主義の先駆けとなる木曜会を形成して右翼学生運動の源流となり、1918年に上杉の影響下でつくられた興国同志会は後に上杉の弟子竹内賀久治と太田耕造によって国本社と改めて平沼騏一郎や東郷平八郎ら軍や政財官界の有力者を担ぐ巨大な右翼団体となり、1925年に結成された帝大七生社はのち4人の七生社メンバーが1932年に起きた血盟団事件で犯行グループに参加した(このうち四元義隆、池袋正釟郎、久木田祐弘は金鶏学院の塾生)。教え子の岸信介(木曜会・興国同志会会員)と安岡正篤に大学で自らの講座の後継者として残るようにすすめたが、両者は官界に進んだ。興国同志会会員だった蓑田胸喜は上杉と同じように機関説を排撃する国体明徴運動で名を馳せ、国体擁護連合会の中心的存在となった。また、上杉の教え子の中には、内務省の特別高等警察に務める者も少なくなく、1930年代から敗戦に至るまで、治安維持法に基づく国民の弾圧・粛清を通じて、上杉が理想としていた天皇主権・絶対君主制の確立に努めた。上杉正一郎ら二人の息子は日本共産党員である。
出典:wikipedia
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