ハックルバック(HUCKLEBACK)は、1975年に活動した日本のバンド。1972年12月末をもって解散した“はっぴいえんど”において、他のメンバーが個々の志向を強めていったのに対し、あくまでもロック・バンドに自身のアイデンティを求めた鈴木茂は、はっぴいえんど以前にトリオ編成のロック・バンド“スカイ”を小原礼とともに組んでいた林立夫に構想を打ち明ける。その結果林からの提案で、林とともに“フォー・ジョー・ハーフ”の元メンバーだった松任谷正隆をメンバーに加えることを決め、残ったベーシストを小原と細野晴臣のどちらにするか迷ったものの細野に決まり、“キャラメル・ママ”が誕生した。ところが適切なヴォーカリスト不在のままスタートしたことが、その後のバンド活動に大きな影を落とすことになる。細野のファースト・ソロ・アルバム『HOSONO HOUSE』のレコーディングを行って以降、そのまま南正人や吉田美奈子、南佳孝や荒井由実のレコーディングをサポートするうちに、キャラメル・ママは次第に細野主導のセッション・ユニット ⁄ サウンド・ラボラトリー志向を強め、1974年7月にバンド名を“ティン・パン・アレー”へ変更するに至り、もともとの発案者だった鈴木のバンド構想はここで消滅してしまった。言わばその反動として制作されたのが鈴木曰く“ティン・パンのメンバーを裏切るような形で渡米して作った”という、ファースト・ソロ・アルバム『BAND WAGON』だった。この『BAND WAGON』発売にあわせたプロモーションのために“マルチ・プレイヤーになりすぎていた”ティン・パンのメンバーではない、ロック専門のミュージシャンとアルバムの曲をライブで再現するために結成されたのが、“ハックルバック”だった。制作経緯からティン・パンのメンバーに負い目を感じていた鈴木は、彼らに遠慮してライブのサポートを頼めなかったという。メンバーは佐藤博(key)と田中章弘(b)、林敏明(ds)。3人は石田長生とバンド“THIS”を結成し、関西で評判を取っていた。加川良のアルバム『アウト・オブ・マインド』のレコーディング・セッションで顔を合わせていた彼らに接触、自らスカウトして東京へ呼んだ。鈴木によれば「ハックルバックでは、もう迫力、迫力って、一所懸命やってたのね。どういうのをやりたいかってのはコロコロ変わってたんだけど、とにかく迫力、ね」「アメリカでいろんな印象を受けたわけだけど、やっぱり日本とくらべちゃうでしょ。で、いちばん大きく感じたのは迫力不足。いろんな意味でね。それを一所懸命、自分なりに解消しようとしてたんです、あの頃」「だから、ハックルバック作って、最初の2か月くらいはクラウンのスタジオで毎日毎日練習。彼らはもともと大阪でやってた何とかってバンドでね、結構迫力あったの、そのときから。だけども一緒にやりはじめて、なんかまだダメだな、もっともっと、って。むずかしかったけどね」という。『BAND WAGON』の発売を目前に控えた1975年2月11日、目黒区民センターでのライブでデビューする。デビュー当初は“鈴木のバンド”という印象が強かったが、短期間のうちにバンドとしての力を高め、以後は佐藤のオリジナル曲も取り上げられるようになっていったものの、予定されていたスケジュールを約10か月後に消化すると11月16日、新宿厚生年金会館でのコンサートを最後に解散する。その理由を鈴木は「バンドを続ける必要性を感じれば、そうするつもりだったんです。でもはっぴいえんどとは違って、誰にもバンドをひとつにまとめようとする気持ちがなかった。それぞれが自分のキャリアのステップとしてしか考えてなくて、終われば自分の世界へ戻るものと思っていました。互いに自分の主張ばかりで歩み寄りが少ない、みんながそうだったんです。一応は僕と佐藤さんが先導してましたが、彼も気持ちはソロ・デビューへ向かってましたからね。かくいう僕もアレンジ志向が強まってますから、バンドなんて続くはずがなかったんです」と振り返っている。解散後の1999年2月23日、鈴木(g)、佐藤(key)、田中(b)、市川祥治(g)、青山純(ds)というライン・アップによる“鈴木茂とハックルバック”として渋谷クラブクアトロにてジョイントライブ“南佳孝 with ハックルバック”を行った。2016年には鈴木、田中のオリジナル・メンバーに加え、中西康晴(key)、上原裕(ds)の特別編成で1年限定で復活。
出典:wikipedia
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