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長州五傑

長州五傑(ちょうしゅうごけつ)は、江戸時代末期(幕末)に長州藩から清国経由でヨーロッパに派遣され、主にロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジなどに留学した、井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)の5名の長州藩士を指す。駐日イギリス領事であったエイベル・ガウワーや、ジャーディン・マセソン商会(横浜・英一番館)のウィリアム・ケズウィック(創業者ウィリアム・ジャーディンの姉の子)らの協力を得て成し遂げられた。イギリス留学中は、ジャーディン・マセソン創業者ジェームス・マセソンの甥にあたるヒュー・マセソン(ジャーディン・マセソン商会・ロンドン社長)が世話役となった。この5名はロンドン大学において長州ファイブ(Choshu Five)として顕彰碑が建てられており、そのことを知った西日本国際交流推進協会が「地元にも顕彰碑を」と運動した結果、2003年に山口市に顕彰碑が建てられた。その碑文では、井上馨は外交の、遠藤は造幣の、山尾は工学の、伊藤は内閣の、井上勝は鉄道の、それぞれ「父」とされている。2006年には、この5名の渡航前後の様子を描いた映画『長州ファイブ』が製作された。文久3年4月18日(1863年6月4日)、井上、山尾、野村の3名、藩主より洋行の内命を受ける。4月28日(6月14日)には洋行のため、井上は野村と共に京都を発ち、5月6日(6月21日)に江戸に到着した。5月7日(6月22日)、駐日イギリス総領事エイベル・ガウワーを訪ね洋行の志を述べ、周旋を依頼する。ガウワーからは船賃が700ドル(約400両)、1年間の滞在費を含めると1000両は必要と聞かされる。江戸到着後さらに2人(伊藤・遠藤)増え、5人分つまり5000両が必要になった。洋行にあたって藩主の手許金から1人200両(井上・伊藤・山尾の3人で600両)を支給されたが当然足りなかった。そこで、伊豆倉商店の番頭佐藤貞次郎と相談し、麻布藩邸に銃砲購入資金として確保していた1万両の準備金があったので、佐藤は「藩邸の代表者が保証するなら5000両を貸す」ということになり、藩邸の留守居役村田蔵六に、死を決してもその志を遂げたいと半ば脅迫的に承諾させ、5000両を確保することができた。5月12日(6月27日)、ガワー総領事の斡旋でジャーディン・マセソン商会の船(チェルスウィック号)で横浜を出港し、上海に向かう。このとき、井上は密航という犯禁の罪が養家先に及ぶことを恐れ、志道家を離別している。5月18日頃、上海に到着し、ジャーディン・マセソン商会上海支店の支店長に面会した。話が通じず、結局支社長は「お前達は何のために洋行するのか?」と聞いているらしいことは分かった。そこで「海軍を研究する」と言おうとして「ネイヴィー」とすべきところを間違って「ネビゲーション」の一言を発した者がいた。この言葉を支社長は「ナビゲーション=航海術」と理解した。当時の上海は東アジア最大の西欧文明の中心地として発展していた。彼らは、上海の繁栄と100艘以上の外国軍艦およびその他の蒸気船を目の当たりにして、「攘夷」という無謀なことをすれば日本はすぐに滅ぼされてしまうだろうとの判断から「開国」へと考えを変えていった。上海からは、井上と伊藤は約300トンのペガサス号で出港し、他の3名は10日ほど後に5、600トンのホワイト・アッダー号で出港した。ロンドンまでの旅程は、“航海術を学ぶ”ということと理解されていたので、水夫と同格の扱いで非常に困苦し、日本人を「ジャニー」と呼び軽蔑されていたと感じている。便所は船体から張り出した横木につかまって用をたす方式であったから、嵐の時には身体を縄で縛って危険から保護した。さらに伊藤は下痢で苦しんだため、「実にその困難の状は筆舌の能く尽す所でなかった」という。11月4日、ロンドンに到着する。元治元年3月(1864年4月)、密航者5名は日本発の「砲撃を受けた連合国は幕府に抗議するも幕府返答は煮えきらず、連合国は長州藩に対し重大な決意をするに至った」との報道に驚き、井上と伊藤は直ちに帰国を決意する(一説には薩英戦争の取材記事であったとする説もある)。4月中旬、井上と伊藤はロンドンを発つ。井上は当時を回想して「国家に対する憂いの思いは、国内に居る時よりも寧ろ海外に在る時が切実なのを覚えた。例えば藩主は今如何に憂慮して居られるだろうか、同志の士は如何に行動しつつあるか、或いは彼らは攘夷の為に戦死したのでは無かろうか、或いは敗戦の結果土地割譲の窮地に陥ったのでは無かろうかなど」と言っている。6月10日(7月13日)頃、2人は横浜に到着した。伊藤と共にガウワーに会い急遽帰国した説明をしたところ、ガウワーは4カ国が下関を襲撃する計画があることを告げた。両名は故国の安危に関する大事件と受け取り、イギリス公使館の通訳アーネスト・サトウを介して公使ラザフォード・オールコックと会見し、自分たちが長州藩に帰って藩論を一変したいと説明し、停戦講和を願った。駐日公使は「フランス、アメリカ、オランダの公使と協議して確答するから数日間居留地のホテルに宿泊して待つように、その際長州人と分からないように日本語を使ってはならない」と申し渡された。2人に対してホテルのボーイ等は「今回ホテルに来たポルトガル人の顔付きは日本人に似ている、けちで金銭を使わぬには驚いた、金銭を使う道を知らぬのではあろうが、彼ら2人の風貌から見てもポルトガル人の中でも最下等の貧乏野郎」など、言葉が分からないものと思って勝手なことを話していた。やがてイギリス公使から連絡があって、他の3国も了解したから国に帰って尽力して欲しいと、藩主あての公使からの書簡を手渡された。書簡に対する返答は、到着から12日後と決まった。イギリス海軍オーガスタス・レオポルド・キューパー提督は長州藩の発砲に対して賠償金を要求したが、「これは朝廷・幕府の命に従った事で我が藩の私意によったものではない。4カ国公使から幕府に請求するのが筋である」として責任転嫁することが出来た。これは高杉の機転によるものであった。一方で和議に反対する攘夷論者は多く、山口に滞在する公卿(三条実美、四条隆謌、東久世通禧)らは毛利定広に対して抗議し、藩政府員は困って「あれは高杉、井上、伊藤らが藩主を篭絡してやったことで」などと逃げ口上もあり、井上は帰国以来命を狙われるのは当然という時期であった。遠藤、野村、山尾は、薩摩藩からの密航留学生(薩摩藩遣英使節団)たちの存在を知り、交遊している。遠藤は慶応2年(1866年)、野村と山尾は明治元年11月19日(1869年1月1日)に帰国した。

出典:wikipedia

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