清河 八郎(きよかわ はちろう、天保元年10月10日(1830年11月24日) - 文久3年4月13日(1863年5月30日))は、江戸時代末期(幕末)の庄内藩出身の志士。田中河内介とともに九州遊説をして尊王攘夷派の志士を京都に呼び寄せ、一方で浪士組を結成し新選組・新徴組への流れを作り、虎尾の会を率いて明治維新の火付け役となった。幼名は元司、諱は正明、号は旦起、木鶏。本名は齋藤正明で、清川八郎と改名したのち、清河八郎を名乗った。山形県庄内町の清河神社に祭神として祀られている。位階は贈正四位。出羽国庄内藩領清川村(現・山形県東田川郡庄内町)の郷士・齋藤豪寿の子。天保14年(1843年)、清川関所役人の畑田安右衛門に師事し勉学に勤しむ。弘化3年(1846年)には後の天誅組総裁・藤本鉄石と会い親交を深めた。弘化4年(1847年)、江戸に出て古学派の東条一堂に師事。才を認められ東条塾塾頭を命ぜられたが、固辞。安積艮斎に転塾。その傍ら、塾の同輩に誘われ、北辰一刀流の開祖・千葉周作の玄武館で剣を磨き免許皆伝を得、江戸幕府の学問所である昌平黌に学んだ。その後、清河塾を開設。当時、江戸市中で学問と剣術を一人で教える塾は清河塾だけであった。安政2年(1855年)3月から9月にかけて、母親を連れて、清川村を出発。善光寺、名古屋、伊勢、奈良、京都、近江、大坂、宮島、岩国、天橋立、鎌倉、江戸、日光などをめぐる大旅行をする。その記録『西遊草』は、幕末の旅行事情を知るうえでは貴重な資料である。内容は各国の名士との出会いなどを中心に書かれているが、清河の性格からか辛辣で手厳しい批評が多い。安政7年{万延元年}(1860年)に起こった桜田門外の変に強い衝撃を受け、倒幕・尊王攘夷の思想を強める。この事件を契機に、清河塾に憂国の士が集まりだす。その中には幕臣の山岡鉄太郎(鉄舟)・笠井伊蔵・松岡万、薩摩藩の伊牟田尚平・樋渡八兵衛・神田橋直助・益満休之助、同門であった安積五郎らがいる。また池田徳太郎・中村貞太郎・西川練造・村上俊五郎・石坂宗順などとも交わる。同年、清河を盟主として虎尾の会を結成。発起人は山岡鉄太郎ら15名。横浜外国人居留地を焼き討ちし、尊王攘夷の精神を鼓舞し、倒幕の計画を立てたが、この密計が幕府の知るところとなる。しかも文久元年(1861年)には罵詈雑言を浴びせてきた者を斬り捨てたため、幕府に追われる立場となった。このとき、笠井・中村・西川らは捕縛され、後に獄死している。清河は京に潜伏したり、諸国を回って倒幕運動を続けた。田中河内介に続いて九州遊説に入った清河は筑後国の水田天満宮に蟄居中の真木保臣の下にも滞在し、福岡藩士の平野国臣、小郡、肥後の尊皇攘夷派とも接触。清河の戦略は薩摩藩の率兵上京に期待を寄せるものであり薩摩は立つと諸国を遊説したが、小松清廉は清河に一切の言質を与えていない。『近世日本国民史』では京都に参集した尊皇攘夷派は清河の空想的政局論により集められた一面があるとしている。その後、山岡鉄舟らを通して松平春嶽(幕府政事総裁職)に急務三策(1. 攘夷の断行、2. 大赦の発令、3. 天下の英材の教育)を上書する。尊攘志士に手を焼いていた幕府はこれを採用し、松平忠敏のもとに浪士組が結成される(234名)。清河は上手く幕府を出し抜いて今度は佐幕派を京都に集め出した。文久3年(1863年)2月23日、将軍・徳川家茂上洛の際、その前衛として清河は盟主として浪士組を率いて京都へ出発。京都に到着した夜、清河は浪士を壬生の新徳寺に集め本当の目的は将軍警護でなく尊王攘夷の先鋒にあると述べる。鵜殿鳩翁が浪士組隊士の殿内義雄・家里次郎の両名に、京に残留することを希望する者の取りまとめを依頼し、攘夷に反対した根岸友山・芹沢鴨・近藤勇・土方歳三らが残留し清河と袂を分かつたものの、200名の手勢を得た清河は翌日、朝廷に建白書の受納を願い出て幸運にも受理された。このような浪士組の動静に不安を抱いた幕府は浪士組を江戸へ呼び戻す。清河は江戸に戻ったあと浪士組を動かそうとするが、京都で完全に幕府と対立していたため狙われていた。文久3年(1863年)4月13日、幕府の刺客、佐々木只三郎・窪田泉太郎など6名によって麻布一ノ橋(現麻布十番商店街そば)で討たれ首を切られた。享年34。『女士道』(山岡英子 1903年)の記述によると首は石坂周造が取り戻し、山岡英子(山岡鉄舟の妻)が保管し伝通院に葬ったが後に遺族に渡したという。墓所は東京文京区の伝通院にある。清河の死後、幕府は浪士組を新徴組と改名し、庄内藩預かりとした。没後、正四位を贈位された。
出典:wikipedia
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