ナポレオン3世(Napoléon III, 1808年4月20日 - 1873年1月9日)は、フランス第二共和政の大統領(在任:1848年 - 1852年)、のちフランス第二帝政の皇帝(在位:1852年 - 1870年)。本名はシャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(Charles Louis-Napoléon Bonaparte)であり、皇帝に即位して「ナポレオン3世」を名乗る以前については一般にルイ・ナポレオンと呼ばれている。本項でもそのように記述するものとする。ナポレオン・ボナパルトの甥にあたり、1815年のナポレオン失脚後、国外亡命生活と武装蜂起失敗による獄中生活を送ったが、1848年革命で王政が消えるとフランスへの帰国が叶い、同年の大統領選挙でフランス第二共和政の大統領に当選した。第二共和政の大統領の権力は弱く、はじめ共和派、のち王党派が牛耳るようになった国民議会から様々な掣肘を受けたが、1851年に国民議会に対するクーデタを起こし、独裁権力を掌握。1852年に皇帝に即位して「ナポレオン3世」となり、第二帝政を開始した。1850年代は「権威帝政」と呼ばれる強圧支配を敷いたが、1860年代頃から「自由帝政」と呼ばれる議会を尊重した統治へと徐々に移行した。内政面ではパリ改造計画、近代金融の確立、鉄道網敷設などに尽くした。外交ではクリミア戦争によってウィーン体制を終焉させ、ヨーロッパ各地の自由主義ナショナリズム運動を支援することでフランスの影響力を拡大を図った。またアフリカ・アジアにフランス植民地を拡大させた。しかしメキシコ出兵の失敗で体制は動揺。1870年に勃発した普仏戦争でプロイセン軍の捕虜となり、それがきっかけで第二帝政は崩壊し、フランスは第三共和政へ移行した。以降2016年現在までフランスは共和政であるため、彼がフランスにおける最後の君主にあたる。1808年にフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの弟ルイ・ボナパルトとその妃オルタンスの三男としてパリに生まれる。兄にナポレオン・ルイ・ボナパルトがいる。一説に母が愛人の男性との間に儲けた子ともいわれる("→生誕と出自をめぐる疑惑")。1815年のナポレオン失脚でブルボン家の復古王政によって家族とともに国を追われ、長きにわたる亡命生活を余儀なくされた("→ナポレオンの失脚")。母に引き取られ、スイスやバイエルンで育った("→アレネンベルク・アウクスブルクで育つ")。1830年に復古王政が倒れてルイ・フィリップの7月王政が樹立されるも、帰国は認められなかった("→7月革命をめぐって")。1830年にローマへ移住し、イタリア統一運動に参加したが、教皇やオーストリアに対する抵抗運動ボローニャ一揆の失敗によりスイスへ逃げ戻った("→イタリア統一運動への参加")。その後文芸活動に精を出し、「空想的社会主義」のサン=シモン主義に接近した("→文芸活動")。またボナパルト家の帝政復古を目指して武装蜂起を策動し、1836年にはストラスブールからフランス軍に蜂起を呼びかけるストラスブール一揆を起こしたが、失敗して逮捕される("→ストラスブール一揆")。この時はアメリカへ国外追放だけで済んだが、フランス国内でナポレオン再評価が高まったのを好機として1840年にブローニュで再び一揆を起こした。やはり失敗して逮捕され、今度は終身刑に処せられた("→ブローニュ一揆")。5年半に及ぶでの獄中生活を利用して政治研究に明け暮れ、1844年に著した『貧困の根絶』の中で労働者階級の保護を主張し、貧困層に新たなボナパルティズムをアピールした("→アム要塞服役時代")。1846年の父の危篤に際してアム要塞を脱獄し、ベルギーを経てロンドンへ逃れた("→脱走")。1848年2月の革命で7月王政が崩壊するとフランスへの帰国を果たし、憲法制定議会議員補欠選挙で当選した("→1848年革命をめぐって、→憲法制定議会の代議士")。12月の大統領選挙にも出馬し、「ナポレオン」の名の高い知名度、豊富な資金力、両王党派(正統王朝派とオルレアン派)の消極的な支持などで74%の得票率を得ての当選を果たす("→大統領に当選")。しかし第二共和政の大統領の権力は弱く、共和派が牛耳る国民議会によって帝政復古は掣肘を受けた。そのため当初は両王党派やカトリックから成る右翼政党との連携を目指した("→秩序党との連携期")。その一環でローマ共和国によってローマを追われていた教皇の帰還を支援すべくローマ侵攻を行った。これに反発した左翼勢力が蜂起するも鎮圧され、左翼勢力は壊滅的打撃を受けた。代わって秩序党が国民議会の支配的勢力となり、男子普通選挙の骨抜きなど保守的な立法が次々と行われ、ルイ・ナポレオンとの対決姿勢も強めてきた("→ローマ侵攻とその影響、→秩序党の支配")。国民議会から政治主導権を奪う必要があると判断し、クーデタを計画。軍や警察の取り込みなど準備を慎重に進め、1851年12月にクーデタを決行した。秩序党幹部らを逮捕したのを皮切りに共和主義者にも逮捕の網を広げ、国内反対勢力を一掃した("→クーデターの準備、→「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日のクーデター」")。翌1852年1月には大統領に全権を認めた1852年憲法を制定して独裁体制を樹立する("→1852年憲法と独裁体制の樹立")。さらに同年12月には国民投票のうえで皇帝即位を宣言し、第二帝政を樹立、「ナポレオン3世」と名乗るようになった("→皇帝に即位")。その治世の前期は「権威帝政」と呼ばれる強圧的な統治だったが、1860年代には「自由帝政」と呼ばれる自由主義・議会主義的な統治へと徐々に転換していった("→権威帝政と自由帝政")。内政面ではサン=シモン主義を背景にした経済政策を行った("→経済政策")。金融改革を起こして産業融資を行う近代的金融業の確立に努めた("→金融改革")。また各国と通商条約を結んで自由貿易の推進にも努めた("→自由貿易")。国土整備も推し進め、ジョルジュ・オスマンにパリ改造計画を実施させて道路増設や都市衛生化を推進した("→パリ改造計画")。また金融資本家の鉄道融資を煽ることで鉄道網整備にも尽くした("→鉄道建設")。しかしサン=シモン主義の自由放任主義から社会政策には不熱心だった("→社会保障の不十分")。外交は、彼の伯父を否定するウィーン体制の改定、ヨーロッパ各国の自由主義ナショナリズム運動の擁護、アフリカ・アジアに植民地を拡大することを基本方針とした("→外交")。クリミア戦争ではイギリスと同盟してロシアに対して勝利したことでフランスの国際的地位を高めた("→クリミア戦争")。イタリア統一戦争ではサルデーニャとともにオーストリアと戦うも、サルデーニャに独断で早々にオーストリアと休戦協定を結び、以降教皇領の保護にあたるなどイタリア統一にブレーキをかけることでイタリアへの影響力を維持しようとした("→イタリア統一戦争")。非ヨーロッパ諸国に対しては帝国主義政策をもってのぞみ、アフリカやアジアの諸国を次々とフランス植民地に組み込んでいった。その治世下にフランス植民地帝国は領土を3倍に拡張させた。サン=シモン主義の影響からとりわけアジア太平洋地域への進出に力を入れ、アジア諸国に不平等条約を結ばせたり、拒否した時には戦争を仕掛けたり、コーチシナを併合したり、カンボジア保護国化するなど強硬政策をとった("→アジア太平洋地域植民地化")。サハラ砂漠以南の「黒アフリカ」にも植民地を拡大していき、強圧的な植民地統治を行った("→サハラ以南アフリカの統治")。一方アルジェリアでは「アラブ王国」政策と呼ばれる先住民に一定の配慮をした植民地統治をおこなった("→アルジェリア統治")。ナポレオン3世の権力はこうした外交的成功によって支えられている面が多かったが、メキシコ出兵の失敗で国内的な地位を弱めた("→メキシコ出兵")。さらに小ドイツ主義統一を推し進めるプロイセンと対立を深め、スペイン王位継承問題を利用したプロイセン宰相オットー・フォン・ビスマルクの策動により、1870年にプロイセンに対する宣戦布告に追い込まれ、何の準備も出来ていない状態で普仏戦争へ突入する羽目になった("→スペイン王位継承問題")。自ら前線に赴き、指揮をとったが、フランスは連敗を重ね、セダンの戦いにおいては彼自身がプロイセン軍の捕虜になった("→普仏戦争と破滅")。これにより求心力を決定的に落とし、パリではクーデターが発生して第二帝政は打倒され、フランスは第三共和政へ移行した("→第二帝政崩壊")。普仏戦争が終結してプロイセン軍から釈放された後、ナポレオン3世はイギリスへ亡命した。復位を諦めず、クーデターを起こすことを計画していたが、実行に移す前に1873年に同国で死去した("→イギリスでの晩年、→死去")。皇后はスペイン貴族の娘ウジェニー。彼女の政治面での影響力は大きかった。彼女との間に唯一の子である皇太子ルイ(ナポレオン4世)を儲けた("→ウジェニーを皇后に迎える")。まぶたの垂れ下がり、低身長、胴長短足など容姿には恵まれていなかったが、座高が高めだったので馬上の姿が映えたといい、「馬上のサン=シモン」とあだ名された("→容姿")。身分の上下問わず数多くの女性と性交したので漁色家として知られた("→漁色家")。話下手で無口だったといわれ、「スフィンクス」と呼ばれた("→無口")。君主としての正統性の欠落を気にしていたという("→正統性の欠落")。カール・マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』や『フランスにおける内乱』などの中で第二帝政を「ルンペン・プロレタリア体制」「超国境的な金融詐欺師の祭典」として批判した。ヴィクトル・ユーゴーも〚小ナポレオン〛においてナポレオンと比ぶべくもない小物の独裁者として批判した("→マルクスとユーゴーの批判")。ビスマルクもナポレオン3世の知性を低く見ていた("→ビスマルクによる評価")。キッシンジャーはウィーン体制こそがフランスにとって対ドイツの最良の安全保障であるのにそれの破壊を目指したこと、国民世論を気にしすぎて近視眼的になったことが彼の外交が破綻した原因と分析した("→キッシンジャーの評価")。一方、パリ改造計画や経済政策など内政面には再評価論もある。また外交面でもフランスの植民地を拡大したこと、イギリスと協調して一時的とはいえフランスの国際的地位を上げたことなどに評価する声もある("→再評価論")。1808年4月20日から21日にかけてホラント王ルイ・ボナパルト(フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの弟)とその王妃オルタンス(ナポレオンの皇后ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネの前夫との間の娘)の三男としてパリのに生まれた。つまりナポレオンの甥にしてジョゼフィーヌの孫にあたる。兄に(5歳で薨去)とナポレオン・ルイがいた。父ルイ・ボナパルトは1806年にナポレオンからホラント王位を与えられていたが、兄の傀儡になるつもりはなく、オランダ人の利益を優先する独自路線をとろうとしたため、ナポレオンの圧力で1810年に退位させられた。一方、母オルタンスは熱狂的なナポレオン崇拝者であり、ボナパルト家は常にヨーロッパ人民に依拠せねばならないと主張していた。ルイ・ナポレオンは母の影響を強く受けて育った。元老院は1804年5月18日に伯父ジョゼフ・ボナパルト(男子がいなかった)と父ルイ・ボナパルトに皇位継承権を認めていたため、生誕時点ではルイ・ナポレオンは伯父、父、兄に次ぐ第4位の皇位継承権者であった。ただ1811年3月にはナポレオンが後妻であるハプスブルク家の皇女マリー・ルイーズとの間にナポレオン2世を儲けたため、それ以降はルイ・ボナパルトの2人の息子の重要性は下がった。ルイ・ナポレオンの出生には疑惑がある。彼の父と母は仲が悪く、2人の男子を儲けた後に1807年まで別居状態になり、その間に母は何人かの男性と愛人関係を持っていたためである。ただ、1807年中にわずかな期間だが父と母が同居していた時期があり、懐胎の時期と符合するため、やはりルイ・ボナパルトが父親とする説の方が有力であるという。いずれにしてもルイ・ナポレオンはナポレオンと似ていなかったこともあり、この噂は後々まで付いて回った。但し、母オルタンスはナポレオンの義理の娘である為、ルイ・ナポレオンはナポレオンの血の繋がらない義理の孫ではある。1814年3月31日にパリは反ナポレオン同盟軍によって陥落させられ、ナポレオンは廃位のうえエルバ島の領主に左遷された。反ナポレオン同盟国はフランスを革命前の状態に戻すべく、5月にブルボン家のルイ18世による復古王政を樹立させた。しかし母オルタンスは反ナポレオン同盟国総司令官であるロシア皇帝アレクサンドル1世に接近して身の保全を図り、ルイ18世から引き続きパリに滞在することを許されたため、この最初のナポレオンの失脚ではルイ・ナポレオンの生活にも大きな変化は生じなかった。1815年3月にエルバ島を脱出したナポレオンは「人民の権利」「反封建制」を掲げてパリの民衆や軍隊の支持を獲得し、人心を掌握できないでいたルイ18世をパリから追って「百日天下」と呼ばれる一時的な復権を果たした。この時ナポレオンはオルタンスに対して「お前が私の大義を捨てるとは思わなかった」と述べて彼女がルイ18世やロシア皇帝にすり寄ったことを非難したが、罰せられる事はなかった。それどころかナポレオンの皇后マリアと皇太子ナポレオン2世がすでにオーストリアに引き取られていたため、オルタンスとその子供らが代役を果たすことになり、ルイ・ナポレオンもナポレオンと一緒に暮らすようになった。1815年6月12日にナポレオンは再び結成された反ナポレオン同盟軍と戦うためパリを発つことになり、ルイ・ナポレオンとの最後の別れの際に大元帥に対して「この子を抱いてやってくれ。心根の優しい子だ。いつの日か我が一族の希望となるかもしれない。」と語ったという。もっともこの逸話は後年にナポレオン3世自身が語ったものであるため、事実かどうかは疑わしいとされる。結局ナポレオンは6月18日にワーテルローの戦いにおいてイギリス軍とプロイセン軍に敗北を喫した。ナポレオンは再び廃位されてイギリス領セント・ヘレナ島へ流された。7月6日には再度ルイ18世がパリへ帰還し、復古王政を再開した。今回のルイ18世はオルタンスとその子供たちがパリに滞在することを許さず、7月19日に母子は国を追われ、亡命生活を送ることを余儀なくされた。兄は父のいるフィレンツェに引き取られたが、ルイ・ナポレオンは母オルタンスとともにバーデン大公カールの庇護でコンスタンツに身を隠した。オルタンスはバイエルン王女アウグステと結婚した兄ウジェーヌのおかげで金銭的には裕福であり、スイスを中心に各地を転々として暮らした。最終的にはスイスのとバイエルン王国のアウクスブルクに居を落ち着けた。ルイ・ナポレオンは母から甘やかされて育ったが、1820年6月から厳格なピューリタン・共和主義者のが家庭教師に付き、朝6時から夜9時まで続く猛勉強の生活を送るようになった。1821年夏に母がアレネンベルクへ移住したが、ル・バの提言によりルイ・ナポレオンはアウクスブルクに残って同地のギムナジウムに通う事になった。ギムナジウムでの成績は並みだった。この頃にドイツ語を身につけ、彼のフランス語は後々までドイツ語訛りになった。反ナポレオン同盟国はスイス政府に対してボナパルト一族の者を滞在させないよう圧力をかけていたが、1821年5月にナポレオンがセント・ヘレナ島で没した後には同盟国のボナパルト一族に対する警戒も弱まっていった。1827年9月にル・バが家庭教師から解任された。ルイ・ナポレオンが旅行に出たり、社交界で女性と親しくすることを許さなかったのが原因とされる。ルイ・ナポレオンは1830年6月にスイス軍の砲兵隊に入隊した。その矢先にフランスで7月革命が発生し、ブルボン家の復古王政が打倒された。ボナパルティストはナポレオン2世による帝政復古のチャンスと見て色めき立ち、ローマのボナパルト家もパリへ向かう準備をした。ルイ・ナポレオンも乗り気だったが、肝心のナポレオン2世がオーストリア宮廷に事実上幽閉されている身だった上、病を患っていたため、ボナパルト家復興の先頭に立つのは無理だった。結局アドルフ・ティエールらがブルボン家の分家であるオルレアン家のルイ・フィリップ公爵をフランス王に擁立し、ブルジョワジーが支持する7月王政を樹立したため、帝政復古はならなかった。しかもルイ・フィリップ王は9月にボナパルト一族の追放を法律で確定させ、これにはルイ・ナポレオンも落胆したという。1830年11月、母とともにローマへ移った。ここでイタリア統一、反教皇、反オーストリア、共和主義の活動をしていた秘密結社カルボナリの一団と接触した。折しも教皇ピウス8世が帰天し、また7月革命の影響でイタリア統一運動が高まりを見せていた時期だった。初代ナポレオンがイタリア統一運動に大きく貢献したことからイタリア・ナショナリストのボナパルト家に対する信頼は非常に深かった。しかしこれが原因で1831年初頭に「ナポレオン2世をイタリア王に擁立しようとした」とされて教皇の官憲からローマ追放処分を受けた。やむなくローマを出てオーストリア領のフィレンツェへ行き、同じくカルボナリの活動に関与していた兄ナポレオン・ルイと合流した。1831年2月には母や親族の反対を押して、教皇の支配に抵抗するボローニャ一揆に参加した。しかし教皇がオーストリア帝国軍に鎮圧の助力を求めたのに対抗して一揆軍側もフランス王国軍に助力を求めた結果、ルイ・ナポレオンと兄は一揆軍から除名された(ルイ・フィリップ王の機嫌を取り結ぶため)。結局一揆はオーストリア軍によって鎮圧され、ボナパルト兄弟もオーストリア官憲に追われる身となり、フォルリへ逃亡したが、そこで兄は麻疹により若くして死んだ。母がフォルリまで迎えに来て、母とともにフランス(ルイ・フィリップ王が黙認した)やイギリスを経て1831年8月にスイス・アレネンベルクに帰った。フランス滞在中に母がルイ・フィリップ王と秘密裏に会見しているが、母子のフランス永住許可は認められなかった。1832年にはスイス国籍を取得した。この時期のルイ・ナポレオンはいつの日かルイ・フィリップから王位を奪ったり、あるいはルイ・フィリップが自分を必要とするようになる光景を妄想して過ごしたという。イタリア統一運動の挫折後、文芸活動を中心とするようになり、1832年5月には『政治的夢想』(Les Rêveries politiques)を書き、その中で「自分は共和主義者だが、現在フランス人民の自由を保障できるのは人民の意思を執行する帝政のみである。皇帝となるべき人はナポレオン2世である。」と述べている。しかしそのナポレオン2世は1832年7月22日にウィーンで若くして死去した。イギリスで開催された親族会議出席のためルイ・ナポレオンも半年ほど訪英したが、親族会議で伯父ジョゼフ・ボナパルトによって「皇位継承権」をはく奪されてしまった。しかしそれでも彼は自分こそ「ナポレオン3世」と確信しており、めげることなく精力的に活動し、訪英を機にイタリアやポーランドの亡命ナショナリストたちと接触した。またイギリスの産業革命に間近に触れたことで社会問題への関心を深め、スイスへ帰国した後、兄の家庭教師だった共和主義者を通じて「空想的社会主義」のサン=シモン主義に接近した。サン=シモン主義は主権者を問わなかったが、ルイ・ナポレオンはこの頃すでに国民主権を確信していた。彼の中では帝政と国民主権は矛盾するものではなかったようである。1833年に『スイスに関する政治的・軍事的考察』(Considérations politiques et militaires sur la Suisse)を著し、その中で彼は「民衆はあらゆる党派の中で最強であり、最も正しい。民衆は隷属と過激を嫌う。民衆は籠絡できない。民衆は自らにふさわしい者を常に感じ取る」と書いている。さらにその後『砲術論』(Manuel d'Artillerie)を著したが、これはフランス軍人に名を売るのが目的だった。1835年末に熱狂的なボナパルティストであるヴィクトール・ド・ペルシニー子爵と知り合った。行動力のあるド・ペルシニーは夢想がちのルイ・ナポレオンにとって手足となる人材だった。ド・ペルシニーはすぐにもフランスの政権を手に入れるための行動を起こすようルイ・ナポレオンに求めた。二人は1836年夏までかけて蜂起計画を練りあげていった。同年、27歳のルイ・ナポレオンはジェローム・ボナパルトの長女マチルド(当時15歳)と婚約した。疎遠になりがちだったボナパルト家を結び付ける意味のある縁組であり、二人の相性も悪くはなかったが、結局ルイ・ナポレオンは結婚前に最初の反乱を起こすことになる。ルイ・ナポレオンとド・ペルシニーはボナパルティストが多いアルザスのストラスブールからパリ進撃を企てた。ド・ペルシニーがストラスブール駐屯地のフランス軍砲兵第4連隊の指揮官を引き込むなど手はずを整えたうえで、1836年10月30日に同駐屯地からルイ・フィリップの王政に対して蜂起した。だがルイ・ナポレオンはもともとの蜂起計画にあった武力による威嚇を嫌がり、途中で計画を変更した。彼は兵士や民衆が自発的に自分の大義に従ってくれると思い込んでいた。しかし賛同する軍人や部隊は少なく、司令官の確保にも失敗し、一揆は二時間ほどで鎮圧された。逮捕されたルイ・ナポレオンは11月9日までストラスブールの独房で過ごし、11日にはパリへ移送された。予審判事からの尋問に対して彼は軍事独裁政権樹立の意思を否定し、「普通選挙に基づく政権を樹立しようとした」「(政権を取ったら)国民議会を招集しようと思った。」「今回の件はすべて私が仕組んだことだ。他の者は従ったに過ぎない。最も重い罪を犯し、厳罰を受けるべきは私だ」と語ったという。ルイ・フィリップ王は一揆発生当初こそボナパルト家復活を警戒したが、一揆の惨めな失敗と世論の嘲笑を聞いて安堵し、寛大な処置をとった。ルイ・ナポレオンは裁判にかけられることなく、アメリカ合衆国に国外追放されるだけで済んだ。この一揆の失敗でマチルドとの婚約は破棄された。マチルドの父ジェロームはオルタンスに宛てて「あんなエゴイストの野心家と結婚させるぐらいなら農民と結婚させた方がマシ」と述べて怒りを露わにしている。一方ルイ・ナポレオンは「確かに私の企ては失敗に終わりましたが、それによってフランス皇室はまだ死んでいない、我らには献身的な友がいるのだ、ということを訴えることができたのです。これは私がやったことです。それでも貴方は私を批判できますか。」とジェロームに反論している。ルイ・ナポレオンは1836年11月21日に船でフランスを離れ、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロ、アメリカ・ヴァージニア州ノーフォークでの一時滞在を経て1837年4月3日にニューヨークに到着した。ニューヨークでのルイ・ナポレオンはアメリカ社交界から歓迎されたが、放蕩生活を送ったため、まもなくホテル代にも困って娼婦の所に身を寄せることになった。しかしやがて母が子宮癌で危険な状態と知り、1837年8月初めにはスイス・アレネンベルクへ帰国、10月の母の死まで側に付き添った。母の死で莫大な財産を相続したルイ・ナポレオンはロンドンの豪邸へ移住した。ド・ペルシニーも執事的存在としてルイ・ナポレオンの側近くで仕えた。ロンドンの社交界にも参加するようになり、メルバーン子爵やディズレーリらの知遇を得た。しかしロンドンでも女遊びの放蕩生活が目に余り、3年ほどで母の財産を全て使い果たしてしまった。1839年に『ナポレオン的観念』(Les Idées napoléoniennes)を著した。その中で王党派と共和派の不毛な対立を終わらせ、緊急に民衆の意思を政治に反映させてその生活を向上させる事ができる強力な指導者が必要であるとして「皇帝民主主義」の必要性を訴えた。この本は4版まで刷られ、英語、ドイツ語、イタリア語、ロシア語、スペイン語、ポルトガル語の6か国語に翻訳された。一方フランス国内でもナポレオンとボナパルティズムが人気を博していた。ナポレオン関連の書籍が次々と出版され、ナポレオンは実像よりもかなり左翼的に美化されていった。7月王政の議会の代議士の中に公式にボナパルティストであることを表明している者はいなかったが、心情的ボナパルティズムは王党派左派を含めて代議士の中にもかなり蔓延していたと見られる。1840年3月に首相職に返り咲いたアドルフ・ティエールも政権維持のためにナポレオン人気を利用しようとし、イギリスと交渉してナポレオンの遺骸の返還を実現した。ルイ・フィリップ王はナポレオンを英雄化することを危険視していたが、ティエールは民衆に選挙権はないのだからボナパルト家復活につながる心配なしと考えていた。1840年5月12日には内務大臣がナポレオンの遺骸がパリに帰還することを国民に発表し、ナポレオンを「正統なフランスの君主」と認めてその名誉を回復した。この親ナポレオン・ムードを好機としてルイ・ナポレオンはド・ペルシニーとともに再度の武装蜂起計画を企てた。1840年8月4日にルイ・ナポレオンはシャルル=トリスタン・ド・モントロン将軍以下54名の部下を率いて蒸気船で英仏海峡に面した都市ブローニュに上陸した。税関職員に正体を見破られたが、職員たちを捕虜にして市内を案内させ、第42歩兵連隊の兵舎へ向かった。そこでルイ・ナポレオンは蜂起を呼びかける演説を行ったが、前回の一揆同様に応じる将兵はなかった。今回も前回の一揆もそうであるが、ルイ・ナポレオンには知名度はほとんどなく、たとえボナパルティズムが再評価されはじめようとそれが彼と結び付く事はなかったのである。ルイ・ナポレオンは部下たちから退却を進言されても拒否し、ブローニュのナポレオン記念柱のもとで玉砕すると言い張ったが、部下たちが無理やり彼を引きずって蒸気船に連れ戻そうとした。しかし結局退却することにも失敗してルイ・ナポレオン以下一揆勢は全員憲兵隊によって逮捕された。この一揆はマスコミ各紙から否定的に捉えられた。『』紙は「このキチガイじみた行動は、もし流血沙汰になっていなければ笑い話になっていたであろう」と評し、イギリスの『タイムズ』紙も「愚かな悪党」と評した。ルイ・フィリップ王もこの一揆を馬鹿げたものと考えていたが、二度目であるから今回は重罰に処すつもりであった。ルイ・ナポレオンは1840年9月28日から10月6日まで上院の裁判にかけられた。この裁判によってルイ・ナポレオンははじめてフランス国民から注目されることとなった。9月28日の裁判でルイ・ナポレオンは「私は今ようやくフランス国民に語りかけることが許されました。(略)かつてナポレオンは『国民主権なく行われる全ての行為は非合法』と述べました。ですから私は個人的な利害によってフランスの意思に反して帝政を復古させようとしたのではありません。思い出していただきたいのは一つの原理、大義が敗北したということです。原理とは国民主権、大義とは帝国の大義、敗北とはワーテルローです。ワーテルローの敗北、貴方達もこの雪辱を期したいと考えているはずです。貴方達と私には何も不一致点はないのです。」と語りかけた。裁判官たちも多くがナポレオンに爵位や地位を与えられた者たちであったため、ルイ・ナポレオンの主張に感心した様子だった。ルイ・ナポレオンは死刑を免れ終身刑を言い渡された。1840年10月7日、パリ北方のソンム県にあるに投獄された。以降5年半にわたってここで暮らすことになる。要塞内は湿気が酷かったが、それ以外に不便な点はなく、手紙を送る事や書籍を取り寄せることも認められていた。従者を連れていくことも許され、さらに洗濯係という名目でという村娘を側に置いて性交渉することさえ許されていた。このエレオノールとの間に私生児を二人儲けている(長男と次男)。服役中ルイ・ナポレオンは読書と政治研究に明け暮れ、後世彼はこの時期を「アム大学」と称している。アダム・スミス、ジャン=バティスト・セイ、ルイ・ブランなどの著作に影響を受けた。またいくつかの著作を書き、その一つが『』(1844年)だった。その中でルイ・ナポレオンは労働者階級の保護の必要性を訴えた。都市に流入した余剰労働者を農村へ帰し、「農民コロニー」(後のソ連のコルホーズに似た制度)で働かせることなどを提言している。ただし私有財産制は否定していないため、社会主義というよりは修正資本主義的な立場だった。本格的な産業化がはじまった時代にあってボナパルティズムの教義に社会主義的な要素を加えることで装いを新たにする物であった。この本は1848年までに6版も刷られ、ボナパルティストたちによって「労働者階級は何も持たない。彼らを所有者にしよう」「身分制による支配の時代はおわった。これからの政治は大衆とともにあらねばならない」といったワンフレーズで広く流布され、一般大衆がルイ・ボナパルトを理解するきっかけとなった。オーストリア領フィレンツェにいる父ルイ・ボナパルトの死期が迫っていることを知ると、ルイ・フィリップ王に仮出獄を求めたが、認められなかった。脱走の大義名分を得たと考えたルイ・ナポレオンはかねてから計画していた脱走計画を実行に移した。まず居室の自費での改築を申請し、その許可が下りると部下たちに職人の服を用意させた。そして1846年5月25日、ルイ・ナポレオンは髭を切り落として、職人の服を着て、また顔を隠すために板を肩に担いでアム要塞から脱走した。この際に歩哨の前でパイプを落としてしまうミスがあったが、彼は慌てず自然な感じで割れたパイプを拾い集め、特に誰何されることなくそこを通過できた。この劇的な脱走劇を新聞が虚飾交じりに報じた結果、ルイ・ナポレオンの知名度は更に上がった。また父親の死に目に会うことも許さないルイ・フィリップ王の「無情」に対する批判が強まった。要塞を出た後、ベルギーのブリュッセルへ逃れ、そこからロンドンへと渡った。ロンドンのオーストリア大使館にフィレンツェへの渡航許可を求めたが、拒否されたため、結局父の最期を看取ることはできなかった。ロンドン滞在のまま、父の莫大な財産を一人で相続した。しかしルイ・ナポレオンは同志たちへの資金援助や女との交際費で激しく浪費し、あっという間に使い果たしてしまった。金銭に困るようになったルイ・ナポレオンだったが、裕福な愛人から資金援助を受けて時節到来を待った。1848年2月にフランス・パリで2月革命(1848年革命)が発生し、18年続いたルイ・フィリップの7月王政が打倒され、穏健な共和主義者らが中心となって臨時政府が樹立された。臨時政府は国立作業場の創設や男子普通選挙制度導入などの改革を行った柴田・樺山・福井(1995) 第3巻 p.83/86。チャンスの臭いをかぎつけたルイ・ナポレオンは2月27日にパリへ入り、臨時政府に対して自分の到着を知らせるとともに共和政に忠誠を誓う旨の宣言をした。しかし臨時政府外相アルフォンス・ド・ラマルティーヌからクーデターの意図を疑われ、国内が平静を取り戻すまではロンドンにいるよう要請された。刑務所から釈放されたばかりのド・ペルシニーとパリで再開し、彼から武装蜂起を求められたルイ・ナポレオンだったが、当時革命派によって唱えられた無数のユートピア思想の中にボナパルティズムを埋没させぬためにも2月革命の失敗まで待った方が良いと判断して臨時政府の勧告通りロンドンへ帰ることにした。彼はロンドンからド・ペルシニーに宛てて書いた手紙の中で「目下、武装蜂起は論外だ。一時的にパリの市庁舎を制圧できるかもしれないが、1週間も政権を維持できないだろう。秩序の代表者が登場するのは、あらゆる幻想が消え去った後でなければならない」と分析している。ついでド・ペルシニーは1848年4月の憲法制定議会議員選挙に出馬するよう進言してきたが、ルイ・ナポレオンは共和派に警戒感を持たれることを嫌がり出馬を見送った。しかし6月4日の補欠選挙には出馬し、当選を果たした。もっとも共和派にルイ・ナポレオンへの恐怖が広がったため、ただちに議員辞職している。この選挙の結果、総議席880議のうち王党派(正統王朝派およびオルレアン王朝派)が約280議席、ブルジョワ穏健共和派が約500議席、急進的共和派が100議席をそれぞれ獲得した。左翼勢力にとっては面白くない結果であり、左翼暴動が増加した。5月15日にはポーランド支援を訴える左翼たちが議会を占拠する事件が発生した。さらに6月には国立作業場の廃止決定に反発した労働者が蜂起したが、臨時政府の委任を受けたルイ=ウジェーヌ・カヴェニャック将軍率いる軍によって容赦なく鎮圧された(六月蜂起)。この事件により労働者は共和国を支配するブルジョワに強い憎しみを持つようになった。ブルジョワはいよいよ右翼を頼りにするようになり、そうした流れの中で正統王朝派やオルレアン王朝派、カトリックなどの右翼勢力が合同して「」が結成された。保守化した議会は12月の大統領選挙までの一時的政権として6月24日にカヴェニャック将軍に全権を委任、一種の軍事独裁政権を樹立した。労働者から2月革命への幻想が消え、ルイ・ナポレオンが割って入る隙が生まれたのだった。時節到来とみたルイ・ナポレオンはロンドン滞在のまま、1848年9月の憲法制定議会議員補欠選挙に出馬して当選を果たした。9月25日にフランス・パリへ戻り、議会に初登院して演説を行った。しかしドイツ語なまりのぼそぼそと聞き取りにくい声で「私を受け入れてくれた共和国に感謝する」と挨拶しただけだった。ルイ・ナポレオンの鈍重そうな顔と相まって、議場から失笑が起こった。ルイ・ナポレオンについてティエールは「ただのバカ」と一言で評した。レミュザは「鉛色の長い顔に鈍重な表情、ボアルネ家特有のだらしない口元をしている。顔が身体に比べて長すぎるし、胴も足に比べて長すぎる。動作が鈍く、鼻にかかった声でよく聞こえず、話し方も単調。」と評した。ルイ・ナポレオンの「無能さ」に安心したのか、議会は彼の追放を定めた法律を正式に破棄した。基本的に彼は討論が苦手で話が詰まることが多かった。そのためか憲法制定の論議にはほとんど発言しなかった。共和国への忠誠心を疑われた時だけ「私は共和政を愛している」と反論するのみだった。11月4日に憲法が採択され、第二共和政の政体が決められた。アメリカ合衆国の政治システムがモデルとなっており、議会(立法府)と大統領(行政府)は対等の関係であり、大統領は国民議会から独立して首相と閣僚を任免する権限を持つが、代わりに議会解散権は有さなかった(そのため大統領と議会が対立した場合には対立の解消は困難であった)。大統領・国民議会議員ともに男子普通選挙で選出されるが、大統領選挙は有効投票数の過半数かつ最低200万票の得票が必要とされ、条件を満たした候補がいない場合には上位者5名の中から国民議会が決めるという制度になっていた。大統領の任期は4年であり、連続再選はできなかった。1848年12月10日のにはカヴェニャック将軍、ラマルティーヌ、、、将軍、そしてルイ・ナポレオンが出馬した。ルイ・ナポレオンとしては国民投票である第一次選挙で当選する必要があった。共和派が牛耳る議会に持ち込まれた場合、当選の見込みがないからである。穏健共和派から支持を得るカヴェニャック将軍、急進的共和派から支持を得る臨時政府閣僚の候補二人ラマルティーヌとルドリュ=ロランは先の6月蜂起鎮圧の悪影響で得票を伸ばせなかった。そこに選挙戦中盤頃からルイ・ナポレオンが有力候補として台頭してきた。その理由は複数ある。まず右翼の秩序党が「御しやすそうな神輿」としてルイ・ナポレオンを支持していたことである。オルレアン派の重鎮ティエールも「最小の悪」としてルイ・ナポレオンを支持している。またユダヤ金融業者やミス・ハワードらの資金援助のおかげで選挙資金が豊富だったこともある。その選挙資金を利用してド・ペルシニーらが中心となって地方に「ボナパルト委員会」が次々と創設され、彼らがルイ・ナポレオンのポスターや新聞を積極的にばら撒いていた。保守派向けの『灰色のコート』、穏健共和派向けの『共和ナポレオン』、社会主義者向けの『労働組織』など個々に新聞を作ってばら撒き、あらゆる党派に対して八方美人的にルイ・ナポレオン支持を訴えた。後にナポレオン3世批判の急先鋒となる文豪ヴィクトル・ユゴーもこの選挙ではルイ・ナポレオンをナポレオンの継承者と看做して支持している(ユーゴーはナポレオンを「革命の子」として崇拝していた)。しかしなんといってもルイ・ナポレオンの最大の武器は「シャルル・ルイ・ナポレオン・ボナパルト」という名前だった。フランスにその名を知らぬ者はいなかった。選挙の結果、ルイ・ナポレオンは553万票(得票率74.2%)を獲得して圧勝した。かくして二年前には脱獄囚だった男がいまやフランス大統領となったのであった。大統領になったルイ・ナポレオンは「皇子大統領」(Prince-président、プランス・プレジダン)と呼ばれ、また彼の行く先々で兵士や民衆は「皇帝万歳」「ナポレオン万歳」などと叫んで歓迎した。だが共和主義者が牛耳る国民議会にそんな空気はなかった。ルイ・ナポレオンは1848年12月22日に国民議会で宣誓したが、共和主義者たちはルイ・ナポレオンに帝政復古を企まず、憲法と共和政を遵守することを強く求め、宣誓式でもそれを露骨に示した。議長はルイ・ナポレオンを「市民」という敬称で呼び、ルイ・ナポレオンの演説が終わると議員たちは次々と「共和政万歳」と叫びはじめたのである。第二共和政の大統領は国民議会を解散できないため、ルイ・ナポレオンとしては国民議会が自ら解散を決議するよう追い込む必要があり、そのためにも当面は秩序党との連携を目指した。最初の首相にオルレアン派のを任じた。バロー内閣は大統領の統制はほとんど受けず、秩序党に支持されて保守的な政治を行った。またバローは大統領の権力を抑え込もうとも図ったが、ルイ・ナポレオンはそれに反抗しなかった。バローに政治を任せて自らは表に出ないことに努めた。秩序党の支持のもとに国民衛兵とパリ駐在正規軍の指揮をしているパリ軍事総督シャンガルニエ将軍が1849年1月に軍事力をちらつかせて議会の共和派を脅迫することで議会解散へ誘導した。議会選挙は5月に行われ、穏健共和派が大きく議席を落とす一方、右翼の秩序党が450議席、左翼勢力(急進的共和主義者と社会主義者の合同勢力)が210議席を獲得し、左右両極化が顕著になった。フランス2月革命の影響でローマに共和政が樹立され、11月に教皇ピウス9世がローマを追われた。ルイ・ナポレオンは大統領選挙中からカトリックの票目当てに教皇のローマ帰還を支援すると公約していたため、1849年4月から秩序党の支持のもとにローマ侵攻を開始した。これにルドリュ=ロランを中心とする左翼勢力が強く反発し、1849年6月にローマ共和国支援を訴える左翼暴動が発生した。ルイ・ナポレオンはこれを左翼一掃のチャンスと見て武力鎮圧を決意した。自ら出陣してシャンガルニエ将軍とともに指揮を執り、左翼暴動を徹底的に鎮圧した(6月事件)。6月事件でルドリュ=ロラン以下左翼議員30名が国を追われ、左翼勢力は壊滅的打撃を受けた。これにより秩序党の権勢はいよいよ絶頂に達した。同時に共通の敵がいなくなったことでルイ・ナポレオンと秩序党の対立が表面化し始めた。1849年7月にフランス軍がローマを陥落させたことで、教皇はローマに帰還することができたが、帰還するや反動的な政治を開始した。それを憂慮したルイ・ナポレオンは教皇に対して「フランス共和国はイタリアの自由を圧殺するためにローマに出兵したわけではない。」と諌め、自由主義的な世俗政府の早期樹立を要求した。これに秩序党(特にカトリックの正統王朝派)はルイ・ナポレオンを裏切り者として激しく批判するようになった。ついで1849年10月にルイ・ナポレオンは今後議会多数派を考慮せずに大臣を任免していくと教書の中で宣言し、その予告通り11月1日にはバロー内閣を総辞職させて首相を置かず、事務官僚のみを集めた内閣を発足させた。行政機関の粛清人事も行っている。一方議会では秩序党のイニシアチブのもと次々と保守的な法案が可決されていった。1850年3月にはが可決され、ナポレオン時代に分離されたカトリックと教育が再び結合された。これにより教師はカトリック聖職者の管理下に置かれ、共和派の教師は続々と教職を追われた。さらに1850年5月31日には選挙法が改正され、選挙権の資格として3年以上同一住居であることが条件として加えられた。これによって季節ごとの出稼ぎ労働者など300万人が選挙権を奪われて男子普通選挙制度が骨抜きにされた。また有権者数が減ったのに大統領選挙が有効となる最低得票数200万票の規定は変更されなかったので議会が大統領を選出する可能性も増したことになる。男子普通選挙を通じての民衆との直接的な結びつきにのみ権力基盤があるルイ・ナポレオンはこの選挙法改正には反対の立場だったが、この時点の彼の権力では阻止することは不可能だった。だがルイ・ナポレオンは議会に否決されることを承知の上で選挙法改正廃止を議会に提案し、国民の議会への不信感を煽ることに利用した。また議会を人民裁判所に告発するという脅迫を行いつつ、議会に対して自分の俸給を60万フランから300万フランに増額するよう求めた。カール・マルクスはこのやり口を著書『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の中で手厳しく批判している。マルクスによれば「国民一人から選挙権を奪う金額を1フランとして合計300万フランを要求した」のだという。議会はこの要求を拒否しているが、結局今回限りの一時給与として216万フランの支給を認めるという弱腰を見せた。前述したように第二共和政の大統領の任期は4年しかなく、しかも大統領の連続再選が禁止されているため、このままでは秩序党の傀儡大統領として何もできないまま、終わってしまうことになる。ルイ・ナポレオンはかねてから連続再選禁止条項の改正を国民議会に提起していたが、議会からは否決されていた。また王党派がクーデタを起こしてルイ・ナポレオンを拘束したうえでルイ・フィリップ王の孫パリ伯爵をパリに迎えて王政復古宣言を行うという噂も流れていた。ルイ・ナポレオンはいよいよ水面下で議会に対するクーデターの準備を開始する。1850年8月の議会の夏休みを利用して積極的に遊説に出て、国民の人気取りに励みつつ、将校と下士官を次々とエリゼ宮に招いて葉巻やシャンパン、料理などを気前よく振る舞い、軍の取り込みも図った。また「議会の議長の要請があり次第、いつでも大統領をヴァンセンヌ牢獄に投獄する」と豪語して憚らないパリ軍事総督シャンガルニエ将軍を命令不服従の容疑で1851年1月3日に解任した。解任に反対するティエールに対してルイ・ナポレオンは「君は私をヴァンセンヌにぶち込んでやると公言している男を私の配下に置いておけというのか」と反論したという。シャンガルニエ将軍の解任で国民議会は丸腰状態になったが、ルイ・ナポレオンはすぐにはクーデタを起こさなかった。1851年の議会の夏休みも利用して慎重に軍隊と警察の取り込みに励んだ。ド・ペルシニーの主導で植民地駐留軍をはじめとしてシャンガルニエの息の掛かっていない将軍らの取り込みと取り立てを開始した。将軍を陸軍総司令官、将軍をパリ軍事総督に任じた。警察ではをパリ警視総監に据えた。かつて二度の一揆の計画立案をド・ペルシニーに任せたルイ・ナポレオンだが、今回は失敗は許されないだけに猪突猛進型のド・ペルシニーではなく、異父弟シャルル・ド・モルニー伯爵に計画立案を任せ、彼を内務大臣に任じた。クーデターの計画はド・モルニー内務大臣、ド・ペルシニー、陸軍総司令官ド・サン=タルノー将軍、パリ軍事総督マニャン将軍、ド・モーパ警視総監、そしてルイ・ナポレオンが中心になって練られていった。クーデタのための資金は愛人ミス・ハワード、従兄妹のマチルド、大蔵大臣として入閣していた金融業者アシーユ・フールなどの資金援助を受けて拠出した。クーデター決行日はナポレオンの戴冠式の日、またアウステルリッツの戦いの日でもある12月2日に定められた。ルイ・ナポレオンとしては「血塗られた皇帝」にならぬため、できれば無血でクーデターを成し遂げたかった。1851年12月2日早朝、ルイ・ナポレオンと内務大臣ド・モルニーの名において議会の解散と普通選挙の復活が布告されると同時に警察が大物議員たちの寝所を襲い次々と逮捕していった。ティエールやシャンガルニエ将軍、カヴェニャック将軍などが逮捕された。パリ十区の区役所では議員200人以上が立てこもったが、警察によって全員逮捕されている。議員の中にはパリ市民に決起を促す者もいたが、ほとんどの市民は関心を持たず、12月2日にはそうした決起は発生しなかった。しかし12月3日には左翼議員たちが一部の労働者を取り込むことに成功し、バリケードを築いて蜂起を開始し、その鎮圧のさなかに議員が銃殺された。さらに12月4日には発砲されたことに動揺した軍隊が民衆に向かって発砲し、数百人の死者が出る事態となった。ルイ・ナポレオンはこの惨劇を聞いて困惑し、秘密投票の復活を告知するビラ貼りを徹底させた。しかし手遅れであった。この時の虐殺は1871年の帝政崩壊までナポレオン3世に血のイメージを付きまとわせることとなった。だがそれでも1851年12月20日と21日に行われたクーデタの信任投票では743万票の賛成、64万票の反対、170万票の棄権という圧倒的信任を受けた。さらにド・モルニーは1851年末から1852年初めにかけて共和主義者の弾圧を行った。そもそもこのクーデタは12月2日に発動された直後には議会内右翼の秩序党をターゲットにした物だったはずだが、いつの間にかターゲットは左翼に転換されていった。結局「最良の帝政支持者」となるのは右翼しかいないのだから彼らに対しては牽制はしても潰してはならないのであった。実際この激しい左翼弾圧を見て秩序党もルイ・ナポレオンへの警戒を緩め、彼のクーデタを支持するようになった。右翼と左翼の対立をうまく煽ることで反クーデター派を分断したのである。このクーデタにより多くの者がフランスを追われた。2万5000人が逮捕され、約1万人がフランス植民地アルジェリアに流刑となったという。ヴィクトル・ユゴーもベルギーへ亡命していった。クーデタに成功したルイ・ナポレオンは伯父ナポレオンが制定した共和暦8年憲法をモデルにした憲法草案を作らせ、これを1851年12月21日と22日に国民投票にかけて92%の賛成票を得たうえで、1852年1月14日にとして公布した。これにより大統領の任期は10年に延ばされた。大統領には行政権全てと立法権の一部が与えられた。立法機関は法律の起草を行う国務院、国務院で起草された法案を審議する(法案修正には国務院の許可が必要)、立法院を通過した法律が憲法に適合しているかどうかチェックする(違憲と判断した場合には法律を廃止できる。また植民地に対してはここが立法院の役割を果たす)の3つに分けられた。うち男子普通選挙で選出されるのは立法院のみであり、国務院や元老院は大統領から任命を受けた者によって構成された。すなわち法律の起草と最終チェックを大統領が掌握していた。のみならずこの3機関を通過した法律であっても大統領には拒否権があった。また大統領は何の制約も受けない大統領令を自由に出すことができた。さらに大統領は立法院解散権も有するが、立法院の側には行政を制限する手段は一切なかった。また司法機関であるは「大統領と国家に対する陰謀」に対して裁判なしで刑罰を与えることができるとされていた。この憲法により大統領はほとんど絶対君主も同然の独裁権を得た。あとは任期を廃して世襲とし、職名を皇帝に変更すれば悲願が達成されることになるが、ルイ・ナポレオンはクーデタ後すぐさま帝政復古させることには慎重であり、まず世論を調整しなければならないと考えていた。一方ド・ペルシニーはルイ・ナポレオンのこうした不明瞭な態度にイライラしており、「本人が嫌だと言っても皇帝に即位させる」などと公言していた。新憲法が制定されてまもない1852年1月23日にルイ・ナポレオンは早速大統領令を出し、オルレアン家のフランス国内の財産を没収した。オルレアン派であったド・モルニーがこの大統領令に強く反発し、内務大臣辞職を申し出た。ルイ・ナポレオンはド・モルニーのせいで自分の新体制が血で汚されたと恨んでいたので慰留することなく彼の辞職を認めた。後任にはド・ペルシニーを任じた。なおオルレアン家から没収した財産は相互扶助組合や労働者住宅など労働者階級のために使用された。一方1852年2月8日の大統領令で7月王政下の制度を復活させた。これにより知事は立法院の選挙において官選候補に様々な優遇を与える一方、非官選候補には様々な妨害を加えるようになった。非官選候補者の当選は極めて困難であり、また当選したとしても立法院議員は全員大統領に忠誠宣誓することを義務付けられていたため、大統領の政策に反対する事はできなかった。続いて2月17日には新聞規制の大統領令を発令し、1848年革命で認められた報道の自由を再び制限した。これにより新聞の発刊には政府の事前許可と多額の保証金が必要となった。各紙毎号、政府のコミュニケを無償で掲載することが義務付けられ、政府から不適当な記事であると3度警告された新聞は発行停止されることになった。集会や結社も厳しく制限・監視された。こうした制度の下で1852年3月に行われた立法院選挙はボナパルティストが議席の3分の1、オルレアン派が2分の1を確保し、ルイ・ナポレオンの明確な反対派は立法院から消滅することとなった。非官選候補者は8人しか当選できず、またその中でも大統領への忠誠宣誓を拒否した者は議員辞職したからである。はじめルイ・ナポレオンは任期10年で連続再選が可能の大統領制のままで良いかのような発言をしていたが、ド・ペルシニーが訪問先で「皇帝万歳」の声が上がるよう工作し続けたこともあって徐々にルイ・ナポレオンもその気になってきた。1852年10月9日のボルドーの演説では「『帝国とは戦争だ』という人々がいますが、私はこう言いたいです。『帝国とは平和』であると。」と帝国復活に前向きな発言を行っている。1852年11月に入るとルイ・ナポレオンは皇帝即位を最終的に決断し、11月5日に元老院に対して帝国復活の検討に入るよう指示した。11月7日のによって1852年憲法の大統領に関する規定が改正され、任期10年の大統領に代わって世襲制の皇帝制が導入された。またその是非を国民投票にかけることが決議された。国民投票は11月21日と22日に行われ、782万票の賛成、25万票の反対、200万票の棄権により国民から承認された。ルイ・ナポレオンは12月1日午後8時半ににおいて元老院議員、国務院議員、立法院議員が居並ぶ中、元老院議長ビヨーよりこの国民投票の結果報告を受けた。これに対してルイ・ナポレオンは皇帝即位を受諾し、「私の治世は1815年に始まるのではない。諸君が私に国民の意思を伝えた今この瞬間から始まったのだ」と語り、国民の意思によって皇帝に即位することを強調した。ついで施政方針演説を行い「私は寛容をもって統治に臨む。誰の意見にも耳を傾け、党派には属さない。政治犯は釈放する。フランスの過去に対して連帯責任を取り、どの時代も我が国の歴史の1ページとして否定しない。(略)諸君、どうか私を助けてほしい。たび重なる革命で何度も政府が転覆したこのフランスの大地に安定した政府を樹立することに協力してほしいのだ。新政府の基礎となるのは宗教、所有権、正義、そして貧困する階級への愛である。」といつもの如くよく聞き取れない声で語った。12月2日にルイ・ナポレオンはサン=クルー城を出てパリへ入り、正式に帝政宣言を行って「ナポレオン3世」と名乗るようになった。署名する場合には「ナポレオン、神の恩寵と国民的意思によるフランス国民皇帝」と記した。大統領が世襲の皇帝になったこと以外は1852年憲法のままであった。君主は通常誰に対しても責任を負わないものだが、大統領が改組された存在であるフランス第二帝政の皇帝は国民に対して責任を負っていた(皇帝は「国民の代表」と規定されていた)。ただその責任は皇帝の側からの一方的なものであり、国民の側から責任を問う手段はなかった。立法院選挙も皇帝の政策について問う選挙ではなかった。前述したように官選候補者制度によって選挙は政府に都合のいいようにコントロールされたし、そもそも立法院議員は全員皇帝に忠誠宣誓をしなければならなかった。1858年には元老院令によって立法院議員選挙に立候補するだけでも皇帝に忠誠宣誓することが義務付けられるようになった。国民投票も結局帝政末期の1870年6月まで行われなかった(その国民投票は自由主義的な議会手続き導入の是非を問うもので70%の賛成票を得ている)。このようなナポレオン3世を歴史家は「ヨーロッパで唯一、民主主義という名の下における専制君主」と定義した。第二帝政は1850年代を「」、1860年代を「」として区分する事が多い。1850年代の「権威帝政」は完全なる専制体制・警察国家であり、反対派は徹底的に抑圧された。「権威帝政」時代の皇帝とその行政組織は議会や国民世論から何らの拘束も受けることなく自由に権力を行使できた。ナポレオン3世は国民の支持を自らの正統性としていたので男子普通選挙は維持し続けたが、前述した官選候補者制度と恣意的な選挙区割によって帝政に有利になるよう選挙は操作された。出版規制により言論の自由はなく、立法院での討論を報道することも禁止され、立法院が国民に訴えかける道も閉ざされていた。当時集会場になりやすかった酒場の閉鎖権限も知事が握っていた。しかしな
出典:wikipedia
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