ソフィア( ラテン文字表記:"Sofiya"、)は、ブルガリアの首都。ヴィトシャ山のふもとに位置し、ブルガリアの政治・経済・文化・教育の中心地である。2008年の人口は1,346,665人である。北緯42度42分、東経23度20分。ヨーロッパ最古の都市の一つであり、セルディカ (Serdica)、スレデツ (Sredets)、トリアディツァ (Triaditsa) と呼ばれた。その歴史は7千年以上に及ぶとされる。有史以前の集落跡が現在のソフィアの中心やの付近、オベリャ ()、スラティナ () などで見つかっている。トラキア人が最も重要視していた、鉱泉の周囲に町を築いた紀元前7世紀にさかのぼる城壁は良いコンディションで保存されている。鉱泉は現在も湧水がある。時代の変遷とともに幾つかの異なる名前で呼ばれてきたソフィアの数千年にわたる歴史の痕跡は、今日でもその一部を見ることができる。ソフィアの歩みは、町がバルカン半島の中心に位置していることと大きく関連している。ソフィアはブルガリアの西部にあり、ヴィトシャ山のふもと、の中にあり、周囲の全方位を山に取り囲まれている。渓谷はブルガリア全土でも最大級のものであり、面積1186平方キロメートル、平均標高は550メートルである。3つの山道が町を通っており、古代にはアドリア海、中央ヨーロッパ、黒海、エーゲ海を結ぶ重要な交易路であった。、ペルロフスカ川( / "Perlovska Reka") などの細い河川が町を通過している。イスクル川はソフィア近郊を流れている。町は多くの湧水、熱水泉で知られている。近くにはダムによる人造湖が20世紀に建造された。ソフィアは、ブルガリア第2の都市プロヴディフから北西に130キロメートルであり、ブルガスから340キロメートル、ヴァルナから380キロメートルである。ソフィアは近隣の3箇国からそれぞれ200キロメートル以内にあり、セルビアとの国境の町から55キロメートル、マケドニア共和国との国境の町ギュエシェヴォから113キロメートル、ギリシャとの国境の町クラタからは183キロメートルである。ソフィアの気候はケッペンの気候区分では湿潤大陸性気候 ("Dfa") と温暖湿潤気候 ("Cfa") が接しており、年間の平均気温は11.4℃である。寒い日には特に1月は気温が-15℃ 以下かさらに低下することもある。霧の発生は特に季節の始まりに見られる。年間平均のソフィアの降雪量は90cmで、降雪日は60日である。夏は日が良く照り、やや暑い。夏のソフィア市街は標高が高いため、他のブルガリアの地域よりもやや涼しい。しかし、ソフィアでも高温に達したり特に7月や8月には35℃ を超える熱波にさらされることもある。春や秋はソフィアでは短く、天気も不安定で変わり易い。年間平均降水量は587mmで、晩春や初夏の雷雨にピークに達する。ソフィアはかつてはトラキア人の集落であり、セルディカ ("Serdica") またはサルディカ ("Sardica") と呼ばれていた。おそらくこの呼称はトラキア人の部族セルディ (Serdi) に由来するものと考えられる。紀元前500年ごろ、別の部族オドリュシ ("Odrysi") がこの地域に居住していた。彼らは独自の王国()を持った部族として知られる。紀元前4世紀の短い間、町はピリッポス2世とその息子アレクサンドロス大王によって支配された。紀元前29年、セルディカは古代ローマによって征服された。町は地域の中核とされ、トラヤヌス帝(98年-117年)の時代にウルピア・セルディカ ("Ulpia Serdica") と改称された。セルディカについて言及した最古の文献は紀元前100年頃のクラウディオス・プトレマイオスによるものであると見られる。セルディカは拡大し、やぐら、防壁、公衆浴場、役所、礼拝所、公共のバシリカ、アンフィテアトルム、裁判所、会同、劇場などが建造された。ディオクレティアヌスがダキアをダキア・リペンシス(Dacia Ripensis、ドナウ川沿い)とに分割した際、セルディカはダキア・メディテラネアの首都とされた。町はその後1世紀半にわたって拡大を続け、政治・経済の中心地となった。町はキリスト教を公式の宗教として受け入れた最初の町の一つとなった(ガレリウス帝による)。そのため、コンスタンティヌス1世がセルディカを「我がローマ」と呼んだことはとても自然なことであろう。セルディカはそれほど大きくはなかったものの、その都市設計の計画と建築は壮麗であり、多くの娯楽と活発で社会的な生活があった。東ローマ帝国のユスティニアヌス1世の時代には繁栄を謳歌した。この時のセルディカは巨大な城壁に囲まれており、その一部は現在も見られる。町は447年にフン族によって破壊されたものの、ユスティニアヌスによって復興され、一時期トリアディツァ ("Triaditsa") と呼ばれた。ソフィアは、809年のクルム・ハーンの時代に、長期にわたるの後に初めて第一次ブルガリア帝国の一部となった。その後、町はスラヴ語でスレデツ ( / "Sredets") と呼ばれるようになった。町は重要な要塞と政治の拠点となった。ヨハネス1世ツィミスケスの時代の971年にブルガリア北東部が陥落すると、ブルガリアの大主教ダミアン (Damyan) はソフィアをその主教座とした。幾度にも及んだ攻城戦が失敗に終わると、町は1018年に東ローマ帝国の手に落ちたが、イヴァン・アセン1世の時代に再度第二次ブルガリア帝国によって再征服された。12世紀から14世紀にかけて、ソフィアは交易と工芸の拠点となった。ヴワディスワフ3世による1443年のソフィアへの進軍が終わってからは、町のキリスト教徒の指導者らは抹殺され、オスマン帝国のルメリア州の州都となり、その後4世紀以上にわたってオスマン帝国の支配が続いた。町にはトルコ人が住むようになった。16世紀にソフィアの都市設計と外観はオスマン様式となり、多くのモスク、泉、ハマムが設けられた。この間、町の人口は7千人から、17世紀中期には5万5千人に膨れ上がった。町はブルガリア人の反乱者 () によって1599年に数週間にわたって包囲された。1610年、カトリック教会はルメリアのカトリック教徒のためのソフィア管区を設置し、1715年にカトリック教徒の大半が流出するまで維持された。16世紀には126世帯のユダヤ人の世帯があり、967年からソフィアにはシナゴーグがある。ソフィアは露土戦争のさなかの1878年1月4日にロシア帝国によって征服され、1879年には新たに誕生した自治公国である大ブルガリア公国の首都となった。ソフィアはによって首都候補として提案され、1879年4月3日に認められた。解放されたときの人口は11,649人であった。町が一般的にソフィア(古代ギリシア語で知恵を意味する)と呼ばれるようになったのは、1376年に聖ソフィア聖堂が立てられた後と考えられている。しかしながら、資料によって19世紀末まで、町はソフィア、スレデツの両方の呼称で呼ばれていた。によって1382年にソフィアはオスマン帝国に包囲され、長期間にわたる攻城戦の末に町はオスマン帝国に制圧された。1878年にソフィアがオスマン帝国の支配から解放された後、ブルガリア人の革命委員会からは古い呼称であるスレデツを維持したいという強い願望が出されていたが、ロシア人の支配者は呼称をソフィアと決定した。解放後の数十年の間で、主にブルガリアの他の地域からの大規模な人口流入により、町の人口は一挙に膨れ上がった。公国は1908年にブルガリア王国となった。1925年にブルガリア共産党によって聖ネデリャ教会襲撃事件が引き起こされ、170人が死亡、500人が負傷したといわれている。第二次世界大戦の間、ソフィアはを受けた。後に町はソビエト連邦に征服された。アメリカ合衆国、イギリス、フランスの支援の下でのソ連による征服に続いて、ドイツと同盟を結んでいたブルガリアの政府は共産主義者に取って代わられた。プラハ、ワルシャワ、ブカレストなどと同様に、ソフィアは社会主義国家であるブルガリア人民共和国の首都となった。ブルガリアはこの戦争で領土を失うことは無かったが、多くの人命が失われ、また、ブルガリア国外のブルガリア人との結びつきは大きく損なわれた。この間、ソフィアの人口は急速に拡大し、工業発展が重視され、多くの新しい工場や製作所が町とその周囲に建造された。これによって郊外に多くの新しい町が生まれ、交通ネットワークが拡大した。ソフィアは28個あるブルガリアの州の内の一つである(ソフィア州とは異なる、独立した州である。ソフィア州はソフィアを取り囲むように広がっているが、ソフィアはソフィア州には含まれない)。ソフィア市街地の他に、州としてのソフィアの領域には3つの町と34の村がある。州としてのソフィアは、24の基礎自治体(ラヨン)に分けられている。それぞれの基礎自治体には選挙によって選ばれた区長と、区議会がある。州の首班は州知事である。州議会の議員は4年ごとに選挙によって選出される。1999年のデータによると、ソフィア全域の人口は1,246,651人であり、人口密度は917.8人/平方キロメートルとなっている。女性1000人に対して男性は1114人である。人口1000人あたりの年間出生率は7.9であり、民主化以降は低下を続けている。年間死亡率は12.2であり、上昇傾向にある。そのため人口は年間4.3%の自然減となる。しかし、ブルガリアの他の地域から首都への移住によって、ソフィアの人口は増加している。1000人あたり5.7人が結婚し、乳幼児死亡率は乳児出生数1000人あたり11人であり、1980年の18.9よりも減少している。2001年の国勢調査によると、ソフィアの人口のうち96%はブルガリア人であり、その他の少数民族としては、18000人(1.5%)が自らをロマと自認し、6000人がトルコ人、3000人がロシア人、1700人がアルメニア人、1200人がギリシャ人であるとしている。失業率はブルガリアの他の地域よりも明確に少なく、労働力人口のうち2.45%が1999年の時点で失業者であり、減少傾向にある。ブルガリア全土での失業率は2007年7月1日の時点で7.25%であり、これも減少傾向にある。失業者にしめる高学歴者の割合は27%であり、ブルガリア全体での割合7%よりも明確に高く、首都の傾向を表している。ソフィアが1879年に首都に指定されたとき、ソフィアはブルガリア全土ではプロヴディフ、ルセ、ヴァルナ、シュメンについで5番目の人口規模であった。1892年までプロヴディフがブルガリアで最大の人口を持っていたが、それ以降ソフィアがこれを上回った。ソフィアには多様なナイトライフの場があり、多種多様なナイトクラブ、ライブハウス、パブ、メハナ()、レストランなどがある。街では世界的に有名なスターたちのコンサートも開かれ、エルトン・ジョン、デペッシュ・モード、アイアン・メイデン、レイ・チャールズ、、メタリカ、キッス、マリリン・マンソン、エロス・ラマゾッティ、DJ Tiesto、Korn、ジューダス・プリースト、ロビン・ギブ、カイリー・ミノーグ、リアーナ、ジーマ・ビラーンらがソフィアでコンサートを開いた。ソフィアには多くの博物館があり、特に国立歴史博物館()、ブルガリア自然史博物館()、地球人類博物館()、民族博物館、軍事史博物館()、国立工芸博物館、、国立考古学博物館()などがある。それに加えて、ソフィア・シティ・アート・ギャラリー、ブルガリア国立アート・ギャラリー()、ブルガリア国立外国アート・ギャラリー()などのアート・ギャラリーもある。ソフィアには聖キリル・メトディイ国立図書館(、ブルガリア最大の蔵書を持つ)、ソフィア国家図書館、英国協会、ロシア文化協会、ポーランド文化協会、ハンガリー協会、チェコおよびスロバキア文化協会、イタリア文化協会、フランス文化協会、ゲーテ協会、セルバンテス協会などがある。子ども連れの家族はかつてソフィアランドで遊ぶことができた。ソフィアランドはソフィア動物公園(、1888年開園)に隣接した遊園地であったが、2006年に閉鎖した。ソフィアでは映画産業が活性化しており、国際的な映画プロダクションが拠点を置いている。ヴィトシャ通り( / "bulevard Vitosha"、)はヴィトシカ( / "Vitoshka")とも呼ばれ、2005年のクッシュマン・アンド・ウェイクフィールドの調査によれば世界で22番目の商業的に高級な通りにランクされ、多くのブティックや宝飾店が並び、国際的なファッションデザイナーの展示がある。ソフィアの観光のみどころには、次のようなものがある:
出典:wikipedia
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