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フアン・カルロス1世 (スペイン王)

フアン・カルロス1世(、1938年1月5日 - )は、スペイン国王(在位:1975年11月22日 - 2014年6月19日)。2002年のユーロ導入までスペインで発行されていた5000ペセタ紙幣(1982年 - 1992年)と10000ペセタ紙幣(1982年 - 2001年)に肖像が使用されていた。全名は、フアン・カルロス・アルフォンソ・ビクトル・マリーア・デ・ボルボン・イ・ボルボン=ドス・シシリアス()。父(バルセロナ伯爵フアン) 、母方の祖父(両シチリア王子カルロ)、父方の祖父(アルフォンソ13世)、父方の祖母(ビクトリア・エウヘニア)、母(マリア・デ・ラス・メルセデス)からそれぞれ名前がとられている。しばしば「カルロス国王」と略称されるが、適切な呼称とはいえない。祖父であるボルボン朝(スペイン・ブルボン朝)のスペイン国王アルフォンソ13世は、1931年の共和派政権の誕生を受けて家族とともにイタリア王国の首都であるローマへ亡命し、王政は終わりを迎えて第二共和政が成立した。その後発生したスペイン内戦を経て、フランシスコ・フランコがエル・カウディーリョ・デ・エスパーニャとして国を治めることになった。そのような状況の下、フアン・カルロスは1938年に亡命先のローマで、アルフォンソ13世の四男バルセロナ伯爵フアン・デ・ボルボン・イ・バッテンベルグ(1913年 - 1993年)と、旧両シチリア王国の王族マリア・デ・ラス・メルセデス(1910年 - 2000年)の間の長男として生まれる。フアン・カルロスは、第二次世界大戦の終結後のイタリアにおける、国民投票の結果を受けた共和制移行とそれに伴うイタリア王室の国外追放を受けて、1948年にスペインへ戻り、フランコの庇護の下、フランコ死後の指導者になるべく教育を受けた。帰国後はサン・セバスティアンで初等教育を受け、陸軍に入隊した。その後、マドリード大学で学んだ。1969年、フランコより後継者指名を受けた。1975年11月20日にフランコが死去すると、フアン・カルロスはフランコの遺言に従って同年11月22日に即位した。即位前にフランコの庇護下で帝王学の教育を受けていたこともあり、そのまま国王を筆頭とした権威主義体制を採るかと思われた。しかし即位後はフランコの権威主義体制を受け継がず、一転して他のヨーロッパの立憲君主国を模範とした政治の民主化を推し進めた。国王の姿勢は、フランコの葬儀の時に参列したチリ大統領アウグスト・ピノチェトをすぐさま追い返すなど、早くからその片鱗が現れていた。1977年には41年ぶりに総選挙が行われ、1978年に新憲法が承認されてスペインは立憲君主制に移行した。新憲法では、国王は儀礼的な役割を果たすのみとされ、スペインにおける権威主義体制の解体と民主政治確立に大きな功績を残した。1981年のアメリカ訪問では、ニューヨーク近代美術館に「貸与」していたパブロ・ピカソの『ゲルニカ』の返還を要請し、これによって『ゲルニカ』はニューヨーク近代美術館からプラド美術館を経て、ソフィア王妃芸術センターに安住の地を得ることになった。1981年2月23日、国王親政の復活を求めるアルフォンソ・アルマダ・コミン陸軍参謀次長の信任を受けた、グアルディア・シビル所属のアントニオ・テヘーロ中佐が率いる約200人の兵士により議会が占拠され、アドルフォ・スアレス首相ら閣僚と議員350人が人質に取られるクーデターが発生した(23-Fと呼ばれる)。しかし国王はこの申し出を拒否し、直ちに全軍の指揮官に対してこのクーデターに賛同しないよう呼びかけると同時に、テレビで国民に平静を呼びかけ、民主政治の維持を図った。また、翌24日には陸軍兵士らも国王の呼びかけに応じて投降したため、国民から国王への信頼は不動のものとなった。このとき、感想を問われ「自分の給料分、働いただけです」と答えた。しかしフアン・カルロス1世の非公認の「伝記」を著したパトリシア・スベルロ(Patricia Sverlo)によれば、「このクーデターは国内を政治的に安定させ、国王の人気を高めるために仕組まれたものであった可能性もある」という。ともあれ、その後も国王としてのフアン・カルロス1世の人気は絶大さを保った。2005年に保守系新聞「エル・ムンド」紙によって行われたアンケートによれば、国王に対して「良い」あるいは「非常に良い」印象を持っている国民は77.5%に達しているが、カタルーニャ州やガリシア州では、国王の肖像写真が白昼堂々と公衆の面前で燃やされるなどの事件も起きている。2007年11月10日、チリで行われていた第17回イベロアメリカ首脳会議の閉幕式で、スペイン前首相アスナールを激しく批判したベネズエラ大統領チャベスと、これを民主的に選ばれた代表に対する侮辱と受け取って強く反発したスペイン現首相サパテーロが口論となり、サパテーロの諫言を全く聞き入れず一方的に批判を続けるチャベスに対して、フアン・カルロス1世が「¿Por qué no te callas?(黙ったらどうかね?)」と一喝した。その後、国王のこの一言は携帯電話の着信メロディやTシャツなど様々な用途に商品化され、スペインでヒットした。着信メロディはおよそ50万のダウンロードにより約2億4千万円の利益を生んだ。ただし、着信メロディの声は国王のものではなく、別人によるものであるという。なお、翌年7月のチャベスによるスペイン訪問の際には、国王自らこのTシャツをプレゼントし、チャベスはこれに対して印税を話題にした冗談で応じるなど、友好ムードで会談が行われた。フアン・カルロス1世は「ぜいたく好き」とも見なされており、2007年8月29日には左派政党から公金使途詳細の公表を求められていることを受け、監査人を指名した(#人物も参照)。2011年10月のスペイン政府の調査では、フアン・カルロス1世に対する支持率は50%を割っている。2012年、非公式で訪れていたボツワナで、アフリカゾウのハンティング中に腰の骨を折る大怪我を負った。当時、スペインは経済的な苦境にあり(スペイン経済危機)、失業率が20%を超える状況にあり、国王といえど贅沢が許されるような状況になかったこと、また国王自身が世界自然保護基金の名誉総裁の職にあったにもかかわらずレッドリストに掲載されている動物を対象にスポーツハンティングを行ったことについて世界的な批判を受けることとなり、名誉総裁を解任されるに至った(ただし、同国での象狩りは違法ではない)。この事件以降、国民の支持は落ちており、スペインの新聞「エル・ムンド」の2013年の世論調査では、約45%が長男のフェリペ王太子に王位を譲るよう求めていた。中道左派系の新聞「エル・パイス」が2013年3月に行った世論調査(発表は4月)では、国王の職務遂行ぶりについて回答者の42%が「支持する」、53%が「支持しない」と答えた。2012年12月時点では「支持する」が「支持しない」を21ポイント上回っており、数ヶ月で国王の支持率が急落している。この頃には高齢なことから健康問題も抱えており、2012年11月には人工股関節を埋め込む手術を行っている。2014年6月2日午前、マリアーノ・ラホイ首相がフアン・カルロス1世の譲位の決定を発表した。ただし、この時点でスペインには国王の譲位に関する法的規定がなく、首相は新国王の即位に向けた手続きのため、特別閣議を3日に招集した後、憲法などの改正案を国会に提出した。この発表に対して、一部の左派政党により王制についての国民投票の実施を求める声明が発表された。またSNSにて反王室のデモが呼びかけられ、6月2日午後8時(現地時間)に反王室派により君主制維持の是非を問う国民投票の実施を訴える大規模なデモが、マドリードをはじめ各地で起こされた。そのような情勢の中、6月18日に上院・下院とも圧倒的多数で「国王の退位に関する法律」を可決し、国王も退位の文書に署名した。この法律が発効する19日未明に、自動的にファン・カルロスの退位と新国王フェリペ6世の即位が確定した。なお、スペイン国民は、王室の存続を問う国民投票が実施されたら、49%がフェリペ王太子の即位を支持、36%が共和制への移行に投票すると回答している。ヨットの代表選手としてオリンピックに出場したこともある(ミュンヘンオリンピックで15位になり、ジョークで「フアン・カルロス・スペイン1世・ミュンヘン15世」と呼ばれた)。また、アマチュア無線家としても知られる。コールサインはEA0JC(Juan Carlos)。フェルナンド・アロンソなどスペイン人レーシングドライバーの参戦も多いF1や、スペインで人気が高いMotoGPの大ファンであり、F1やMotoGPのスペインGPには毎年のごとく来場している。モナコのアルベール2世大公などを例外として、一国の元首クラスの要人としては異例のことである。MotoGPライダーのアンヘル・ニエトとは友人であり、1982年のスペインGP前にはニエトを当時の最高峰クラスであるGP500クラスにスポット参戦させるため、自らスペインのホンダ現地法人を通じてホンダ・レーシング(HRC)にかけ合い、ニエト用にNS500を貸し出させたというエピソードもある。2013年7月30日、モロッコ国王ムハンマド6世が、モロッコ国内で犯罪を犯し、服役していたスペイン人48人に恩赦を与え、釈放した。この中には、4歳から15歳までの11人の児童を強姦した者も含まれており、モロッコ国内では強い反対があった。モロッコ法務省は、この恩赦がフアン・カルロス1世の要請に基づくものであるとしている。一方、スペイン王室は、釈放を求めたことを否定し、モロッコで服役しているスペイン人受刑者の処遇について関心をよせたに過ぎないとしている。この恩赦は、8月4日に取り消されている。即位以前の1962年にギリシャ国王パウロス1世の王女ソフィア(1938年 - )と結婚した。1男2女がいる。その他、ソフィア妃と結婚する前に、肉体的関係を持っていた女性との間に隠し子がいるという話があり、その隠し子とされるスペインに住む男性と、ベルギーに住む女性は、何度か事実を確認するため裁判所に提訴している。スペイン憲法は国王に全面的な免責特権があると定めているため、フアン・カルロス1世の在位中は提訴が却下されていた。しかし、退位後は免責特権の及ぶ範囲が狭くなったため、2014年7月31日、スペイン最高裁は提訴を受理した。レコンキスタとスペイン統一、十字軍、スペイン継承戦争、かつてのスペイン帝国などの歴史的経緯や王室の婚姻関係などから、フアン・カルロス1世は長大な正式称号を有していた。王の称号の法的根拠は1978年憲法第56条2項であり、そこでは「スペイン国王」のみが明記されているが、同時に「国王は王位にふさわしいその他の称号を用いることができる」とも記されている。以下はの記述に基づく正式称号の抜粋である。

出典:wikipedia

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