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第2バチカン公会議

第2バチカン公会議(だい2バチカンこうかいぎ、、1962年~1965年)は、ローマ教皇ヨハネ23世のもとで開かれ、後を継いだパウロ6世によって遂行されたカトリック教会の公会議である。この会議では、公会議史上初めて世界五大陸から参加者が集まり、まさに普遍公会議というにふさわしいものとなった。教会の現代化(アジョルナメント)をテーマに多くの議論がなされ、以後の教会の刷新の原動力となるなど、第2バチカン公会議は20世紀のカトリック教会において最も重要な出来事であり、現代に至るまで大きな影響力をもっている。1869年の第1バチカン公会議では、カトリック教会がフランス革命によって生まれた近代革命世界を否定するというスタンスがとられた。1923年5月23日、教皇ピオ11世は枢機卿会議で、1870年に中断されたバチカン公会議を継続させるために公会議を召集することは適切か否かを枢機卿たちに問うた。このピオ11世の質問に対し、枢機卿たちはほぼ満場一致で公会議に反対した。特にビヨ枢機卿は、司教たちの深い見解の違いがあること、意見がまとまらない危険があること、教会に革命を起こそうとしている近代主義者たちによって公会議が操作される危険があること、伝統的なやり方よりも、民主的な慣行に適応する論争と宣伝活動が導入される危険があることを指摘した。しかし第一次世界大戦後の世界で、もはやカトリック教会だけが古色蒼然とした形をたもっていることは出来なかった。特に司牧の第一線で働く聖職者、宣教者、信徒たちの間で教会の現代化の必要性は痛感されていた。1948年、教皇ピオ12世は、ピオ11世の抱いていた公会議のアイデアを検討していた。ルフィニ枢機卿とオッタヴィアーニ枢機卿は、公会議が新しい近代主義に染まった異端神学を排斥する適切なチャンスだと考えた。そこでピオ12世は、65人の司教たちに打診したが、公会議はむしろ危険である、教会を窮地に落とすと判断し、公会議開催の考えを放棄した。1959年1月25日、教皇ヨハネ23世は門外の聖パウロの修道院をふらりと訪れ、17人のローマ枢機卿の前で突然、公会議を召集することを告げた。これは教皇自身が下したもので、この決断は長い熟考の結果ではなく「予期しないところにふと訪れた春の木々の芽生えのように生まれた。」この突然の公会議開催の発表は大きい混乱を引き起こした。多くの枢機卿らは、司教たちがマスメディアの圧力を受ける危険を指摘して、公会議招集を止めようと促した。その理由は、ヨハネ23世は、以前ブルガリアの教皇使節(在位:1925-1934)をしていたが、当時から「東方帰一教会」が正教徒らにしている帰一宣教活動に反対しており、新しいエキュメニズムを考えていたからである。神学者の間では、カール・ラーナーやイヴ・コンガールなどのように「近代社会で人類が獲得した経験知を伝統的なカトリック信仰と調和させる」ことを目指した一団と、ヨーゼフ・ラッツィンガー(後の教皇ベネディクト16世)やアンリ・ドゥ・リュバックのように「古代教会の信仰にこそ現代教会の活力の源泉が見出されるはずだ」とする一団という二つの大きなグループが生まれていた。また、第1バチカン公会議で本来話し合われるはずであった教会論の議論(これらは普仏戦争の勃発によって中断を余儀なくされた)を行うことで教会のアイデンティティーを再確認することの大切さも十分認識されていた。このような流れの中で、つなぎの老教皇とみられていたヨハネ23世が公会議の召集を発表したことは、カトリック教会と全世界にとって驚きと同時に大きな期待を持って迎えられた。会議の準備に2年が費やされた。その間、まず世界中のカトリック教会関係者から公会議の議題に関する意見書が集められ、次に教皇に任命された10の各準備委員会がそれらの意見書を検討したうえで、公会議の議題の草案を作成した。1959年5月17日、教皇ヨハネ23世は、当時国務長官であったタルディーニ枢機卿を委員長として、前準備委員会(commissio antepraeparatoria) を任命した。1960年6月5日、ヨハネ23世は、自発教令『スペルノ・デイ・ヌートゥ』(Superno Dei Nutu) によって、第2バチカン公会議の準備のための10の委員会(commissiones praeconciliares) と3つの事務局が設立された。同時に、これらの委員会の上に、120名から成り立つ「公会議中央準備委員会(Central Preparatory Commission for the Council)」を置き、翌日、日本の土井辰雄枢機卿を含める36人の中央準備委員が任命された。公会議中央準備委員会は、世界の司教たちからの提案をもとに 10の準備委員会によって起草された草案を吟味する責任があった。中央準備委員会、各委員、顧問(consultor) の数は、その後の任命によって更に拡大し、1961年2月までに710人(内訳は委員393人、顧問317人)に達していた。更に同年12月には827人となっていた。1962年6月まで中央委員会は多くの会議を開き、公会議の準備を進めていった。すでにこの中央準備委員会の内部で、対立する枢機卿たちの闘いが繰り広げられていた。つまり、検邪聖省長官代理アルフレド・オッタヴィアーニ枢機卿の神学委員会とそれに協調する「ローマ派」と、キリスト者の一致促進のための事務局事務長アウグスティノ・ベア枢機卿とその補佐ヤン・ウィレブランとそれに協調するリベラル派であった。1961年6月15日、中央準備委員会の第1回総会で、1960年6月に指名された準備委員会の顧問名簿と公会議の規定との間に矛盾があることが告発された。顧問名簿の中で、イヴ・コンガール、アンリ・ドゥ・リュバック、カール・ラーナーの少なくとも三人は、教会当局から制裁措置を受けた事があり、本来なら顧問になる資格がなかったにもかかわらず、名簿にその名前が記載されていた。しかし、オッタヴィアーニ枢機卿はこの告発を取り上げなかった。教皇がそれを望んでいたのだった。1962年1月20日、中央準備委員会の総会で、オッタヴィアーニ枢機卿は自分の草案「純粋に守るべき信仰の遺産について」を発表した。アルフリンク枢機卿は「一つの哲学派にとらわれている」と批判した。ベア枢機卿は「スコラ哲学的な言い回し」を攻撃した。そこでリエナール、フリンクス、アルフリンク、デフナー、ケーニッヒ、レジェーの進歩派とルッフィーニ、シリ、ララオナ、ブラウンの保守派とが、深刻に厳しく対立していた。同年2月23日、マルセル・ルフェーブル大司教は、これらの対立を調停するように、公会議が二つの種類の文書を作ることを提案している。一つは、保守派が使うスコラ学的かつ正確な表現で、現代の誤謬を拒否する「排斥文(canon)」付属の草案、もう一つは、進歩派が望むような司牧的で肯定的な短い文書であった。しかし、この提案は何もされず、そのままになった。3月から4月まで、中央準備委員会の総会では、典礼に関して討議された。3月27日、アンニバレ・ブニーニ神父の臨席のもと、ララオナ枢機卿はブニーニ神父草案のミサの通常文の改革計画を出席者の教父たちに説明した。ララオナ枢機卿はこの改革に抵抗を試みたが、自分の前任者であったガエタノ・チコニャーニ枢機卿が署名していたので、やむなくそうした。この草案は革新的な原則に従って、典礼全体を体系的に改革する計画であった。リベラルな教父たちは賞賛した。デフナーは「中央委員会に提出された全ての草案の中で、最も注目するに値するものの一つである」と賛美した。レルカノもこの草案に賛成した。「ローマ派」の枢機卿たちは反対した。オッタヴィアーニは「過度な革新に大きく門を開きすぎる」と批判した。ゴッドフレ枢機卿は「この改革は「キリスト教徒らに驚愕を引き起こす革命的な改革」(オッタヴィアーニ)であり、礼拝を捨て去り聖伝を蔑視するという意味で反典礼的だ」と異議を唱えた。3月30日、アガジアニアン枢機卿は、宣教国のために自国語のミサを提案した。ルフェーブル大司教は「典礼と典礼様式に関して、司教評議会が法規を制定することができる、という原則が受け入れられると、それがたとえ教皇の承認をもってはじめて許可されるとしても、民族的典礼と国民典礼様式とに回帰してしまう、典礼の一致のための過去の二世紀のすべての努力が無駄になってしまう、芸術とグレゴリオ音楽は没落する、無秩序状態になる危険がある」と指摘した。ヨハネ23世は、スーネンスを中央準備委員会員に指名したが、準備作業に全く指針を提供しなかったヨハネ23世にとって、73と多すぎる草案を縮小することを秘密裏にスーネンスに任せた。スーネンスは、予備草案を全て二つの枠組みで作り直そうとした。教会内部に向けての発言と、教会外部に向けての発言という二つの領域である。このスーネンス計画は、第2バチカン公会議開始前の1962年4月の終わりには準備完了され、5月中旬には、教皇の命令でこの計画が、少数の有力な枢機卿たちに伝達された。デフナー、モンティーニ、シリ、リエナール、レルカノなどの枢機卿らであった。これは予備草案を廃案にすることであった。準備委員会には仕事を続けさせながら、同時にその廃案を他の委員会に任せていた。「キリスト教一致促進事務局」は、10の下部の委員会に属している専門家らに対して、他の委員会で取り扱っていた議題に関する提案や草案の下書きを、エキュメニズムの観点で作成させていた。同時に、特別草案として、エキュメニズム、信教の自由及びユダヤ人問題に関する草案も準備させた。キリスト教一致促進事務局は、この3つの特別草案をオッタヴィアーニの神学委員会に送ったが、神学委員会は無視した。1962年2月1日、ヨハネ23世は、対立関係にある草案が、オッタヴィアーニ枢機卿の神学委員会およびその他の委員会を通さないで直接中央準備委員会に上がるように定めた。この一つが、信教の自由に関する草案だった。1962年6月18日、最終総会である中央準備委員会の第7回総会が開かれた。最終会議の2日前、中央準備委員会は対立関係にある二つの草案を討論することになっていた。一つは、オッタヴィアーニ枢機卿が直接作成した神学委員会の「教会と国家との関係と宗教的寛容」に関する草案である。もう一つは、ベア枢機卿のキリスト教一致のための事務局が草稿した「信教の自由」という草案である。枢機卿たちは二つの陣営に分かれて激論をした。オッタヴィアーニ枢機卿の草案の中心になる関心事は、カトリック信仰の保護であり、真の宗教における市民全員の一致に基礎をおいた世俗の共通善の保全であった。自由とは、真理と善徳のためであって、誤りや悪のためにあるのではない。ベア枢機卿の草案は、すべての場合とすべての人々に信教の自由が適用される、とした。イタリア系、スペイン系、ラテン・アメリカ系の教父らは、オッタヴィアーニの草案に賛成し、アメリカ、イギリス、ドイツ、オランダ、フランスの教父たちは、ベアの草案を支持して、真っ二つに対立していた。この準備委員会はほとんどが教皇庁のスタッフによって編成されていたが、彼らによって73にのぼる公会議文書の草案が完成した。委員会は多くの草案を変更し、採用されなかった草案もあった。教会法改訂委員会に送り返されたり、他の草案と合体した草案もあった。草案の数は圧縮され縮小され 73から 20に減った。7月13日、草案の内、公会議で討議されるべき7つの草案が将来の公会議教父たちに送付された。スキレベークス神父はこの草案を厳しく批判しドイツ語圏の司教たちに広く配布された。これは各国語に訳されて広く読まれた。7月20日、中央準備委員会の職務は終了した。公会議には枢機卿団、司教団や修道会の長上、顧問神学者団以外にも歴史上初めてオブザーバーとしてプロテスタント諸教会や東方正教会の代表者たちへの参加が要請された。実際にそれらの代表団がバチカンに到着したことで、議題の一つであった教会の一致(エキュメニズム)へ向けての機運も高まっていった。前述の人々を含んだ会議の参加者は史上空前の規模であった。予定参加者は実に2,908名に及んだ。実際に第1会期の初めに参加できたのは2,540人であり、全会期を通じて参加者は2,100人から2,300人程度になったが、それ以外にも投票権を持つ参加者(公会議教父)が私的な顧問として招聘していた神学者たちやスタッフを含めるとそれは膨大な数に上っていた。教会憲章『フマネ・サルーティス』(Constitutio Apostolica "Humanae Salutis"、1961年12月25日)により、第2バチカン公会議は1962年に開催されることとされ、自発教令『コンシリウム・ディウ』(Motu proprio "Consilium Diu"、1962年2月2日)により、開催の日は10月11日と定められた。1962年10月11日、教皇を中心とした2500人の参加者たちは会場であるサン・ピエトロ大聖堂に集まり、ヴィエンヌ公会議以来の伝統的なスタイルの儀式によって公会議を開始した。そこには世界86カ国の政府から派遣された使節も参加していた。荘厳な開会式において教皇ヨハネ23世は、第2バチカン公会議の目的として、教会の信仰の遺産を現代の状況に適合した形で表現し、信徒の一致・キリスト者の一致・世界と教会の一致をはかることだとしつつ「世界の誤謬を糾弾するものではなく、慈悲をもって世界の問題に対処する態度を追求する」公会議とすることを説いた。ヨハネ23世は、公会議開会演説でその公会議の開催の理由と自分の楽観主義、公会議の方針をこう説明した。第1会期(Sessio Prima:1962年10月11日 - 12月8日)は、10月13日の第1回総会(prima congregatio generalis) と共に開かれた。第1回総会は、委員会の委員の選挙が行われるはずだった。10の委員会はそれぞれ25人の委員を持ち、それぞれの委員長は教皇によって、さらに残る各委員会24人の内の8人は教皇によって選ばれ、のこる16人の委員は公会議が選出することになっていた。従って、公会議は計160人の委員を選ぶ予定であった。世界中至る所から来て初めて顔を合わせる司教たちの大半は、お互いを知らず、知っていてもわずかであった。従って、お互いに知らない司教2400人のために、特別専門委員会の委員として誰が適任なのか、教皇庁は司教たちに提案した。フェリチ枢機卿は参列している各司教たちに対し、選ぶ完全な自由を残しながら、第2バチカン公会議準備委員会の委員の名前のリストを配布した。その理由は、彼らは既に第2バチカン公会議の準備に携わっていたから経験を積んだ専門家だったからであり、自由に適任者を選ぶ助けになったからであった。教皇庁が選んだ彼らが教父たちによってそのまま選択されることは望ましいことだった。事務総長のフェリチ大司教は、委員たちの選挙に直ぐ入るように教父たちに指示した。しかし教皇庁によって予期されていなかった出来事が起きた。公会議はその初日から、公会議教父たちの大部分は、何か異常なことが起きていると感じた。教皇庁のスタッフになる準備委員会によって提案された議事運営方法にリールの司教リエナール枢機卿が異議を唱えたからだ。リエナール枢機卿は、マイクを取ろうとすると、議長であったティスラン枢機卿は形だけの抵抗をした。リエナール枢機卿はマイクを取り大きな声で抗議し、フェリチ枢機卿のリストは司教らの自由を奪う教皇庁からの圧迫であると非難した。リエナール枢機卿は拍手喝采を受けた。公会議事務総長フェリチ大司教はこれに反対の考えだったが、ケルンのフリンクス大司教が次に演説し、リエナール枢機卿を支持して更なる拍手喝采を受けた。最初の議長のティスラン枢機卿は10月16日まで選挙を延期することを宣言した。この「クーデター」を計画していた枢機卿たちは、既にライン川周辺の中部ヨーロッパ作成のリストを準備していた。それは、リベラル派のリストであった。こうして第1回総会は、わずか20分で議事を終了し閉会した。オランダの或る司教は、公会議会場から退場しつつ友人の司祭に「私たちの最初の勝利だった!」と叫んだ。10月16日、第2回総会で委員会委員の投票が行われた。しかし投票に付しても、このリストは公会議の規則によって要求されていた投票数の3分の2を得なかった。そこで、リベラルな枢機卿たちは、教皇ヨハネ23世に規則の例外を認めさせるように圧力をかけた。投票総数の半分以上を獲得している、これは明らかに公会議の大多数の意志である、と。ヨハネ23世は公会議の規定を無視してこのリストを受け入れ、公会議の諸々の委員会のすべての委員はリベラル派から選ばれた。この結果、自分たちの立てた109人の候補者のうち79人が当選し「ヨーロッパ同盟」は座席の49%を得た。教皇による指名により、更に8人がヨーロッパ同盟の委員が成立した。典礼・教育・宣教・修道生活の専門として見なされていた修道会総長評議会が立てた候補者は誰一人として当選しなかった。既製のリストによれば委員の100人はイタリア人司教が予定されていたが、イタリア人は20名に留まった。その結果、委員会は、3分の2が進歩派に属していた。冒頭の選挙において教皇庁を抑えて自己主張した司教らは、公会議の指導権をますます握っていった。このことは「ライン河はティベル河に流れはじめた」と論評された。以降、公会議では単に教皇庁準備委員会の提示したものに参加者が賛成するのではなく、参加者たちがグループをつくって議論を繰り返しながら主体的に話し合いをすすめていくというスタイルがつくられていく。10月15日、委員選挙と平行し、フリンクスは、リエナール、アルフリンクの進歩派は、公会議の最初の議題は最も進歩的な内容、すなわち典礼について討論されるべきだと主張し、議長団の10人はヨハネ23世にそれを要求しに謁見していた。10月16日、第2回総会で、公会議の最初の議題として最も進歩的な草案が討議されることが発表された。つまり「典礼について」であった。こうして、検邪聖省を中心とする「教皇庁的考え方は予想以上の抵抗にあって自由な前進を阻まれたのである。しかも抵抗する司教団に支持を与えたのは教皇自身であった。」1962年10月22日、第3回総会が開かれ「典礼について」の草案をめぐっての議論が開始した。これによって保守派と進歩派の対立が明らかにされた。「保守派」と言われたのは、事務総長のフェリチ枢機卿、ルッフィーニ枢機卿、オッタヴィアーニ枢機卿、シリ枢機卿など教皇庁系のイタリア人枢機卿ら、アイルランドのブラウン枢機卿、スペイン系、北米、南米の教父たちであった。ローマのラテラン大学も同意見であった。「進歩派」と言われたのは、ベルギーのスーネンス枢機卿、オランダのアルフリンク枢機卿、フランスのリエナール枢機卿、ドイツのフリンクス枢機卿やデフナー枢機卿、ベア枢機卿などの中央ヨーロッパ系(「ヨーロッパ同盟」と呼ばれていた)や少数の北イタリアの教父たちであった。その他、オランダのスキレベークス神父やフランスのコンガール神父、ドイツのラーナー神父などもいた。ローマのグレゴリオ大学も同意見であった。10月22日から11月13日まで、典礼に関する草案について討論が行われた。進歩派のレジェ、アルフリンク、エルヒンガーなどの教父は、共同司式ミサや、パンとぶどう酒の両形色の聖体拝領を主張した。10月30日の総会で、保守派のオッタヴィアーニ枢機卿はそれに反論したが、割り当てられた10分間にまだ話を終えていなかったにもかかわらず、議長であった進歩派のアルフリンク枢機卿は、規定の時間を超えるとオッタヴィアーニ枢機卿のマイクのスイッチを突然切ってしまった。屈辱を受けたオッタヴィアーニ枢機卿は黙って自分の席に戻ったが、多数の教父は嘲笑と拍手で議長を支持した。11月14日から同22日まで、「啓示の諸源泉について」の草案について討論が行われた。あらかじめ作成されていたこの草案は、カトリックの教義を明確に出し過ぎておりエキュメニカルな観点から望ましくないと非難され、初日からリエナール、フリンクス、レジェ、ケーニッヒ、リッターなどの進歩派の教父が反対した。11月17日にはデフナー枢機卿も加わり、進歩派は準備委員会によって作られた草案全体を却下し、その代わりに、既にラーナー神父によって準備されていた草案を支持した。11月20日、議長であった進歩派のフリンクス枢機卿は「啓示の諸源泉について」の草案討議の中断を公会議の投票に付した。投票の結果、賛成は1386票、不賛成は822票であり、賛成投票は3分の2の多数には及ばなかった。事務総長のフェリチ枢機卿は、討議は続行すると宣言した。しかし、教皇ヨハネ23世は、ベア枢機卿とレジェ枢機卿の要求に屈服し、公会議の規定を無視して、この草案は破棄となった。12月1日から同7日までは、「教会について」の草案に関する討論が行われた。この草案は、初日からリエナール(この草案は「キリストの神秘体をローマ教会と同一視している」)、フリンクス(「ギリシア・ラテンの教父思想の発露がない」)、デフナー(「神の民と司教団についての説明がない」)、ド・スメット(「勝利主義的法律的傾向が強い」)、レルカノ(「貧者の教会の思想がほしい」)、モンティーニ(「キリストと教会との関係の説明が不十分」)、マクシモス(「エキュメニカルな配慮が足りない」)などの進歩派の教父が反対した。この草案は、教皇の判断と決定によって、票決されることなく廃案となった。そのほか、11月23日から同26日まで「マスコミについて」の草案に関する討論が行われた。また11月26日から同30日まで、「東方教会との一致について」、「聖母マリアについて」、「エキュメニズムについて」の3草案に関する討論が行われた。12月5日、教皇ヨハネ23世は、準備委員会の作成した草案を、司牧的なもの(ad intra, すなわち教会内部に向けての信徒らへの発言)、世界的に意味があるもの(ad extra, すなわち教会外部の世界に向けての発言)という観点から、再検討することを要求し、調整委員会を設置した。キコニアーニを委員長とし、リエナール、ウルバーニ、スペルマン、コンフェロニエーリ、デフナー、スーネンスから成ったこの委員会は殆どが進歩派で占められた。第2バチカン公会議開会の前、すでに1962年 3月に、ヨハネ23世は、秘密裏にスーネンスに多すぎる草案を掃除することを任せていたが、スーネンス計画が実行され、公会議開会の60日後には、準備されていた73の草案はすべてが否決されて捨て去られることになった。第1会期では、典礼の諸問題、東方典礼の問題などが扱われた。同時に話し合われた啓示についての討論では、草案が棄却され、書き直しが求められた。第1会期は結局満足のいく成果をみることができなかったが、以後の会期の運営のあり方が確立された。第1会期では予め準備されていたいかなる草案も承認されなかったという事実が、ラッツィンガー神父によれば「第1会期の偉大な、驚くべき、正真正銘の肯定的結果」だった。これは「準備作業の背後にあった精神に反対する強い反動」の証拠で「公会議の第一会期のエポック・メイキングな特徴である」と呼んでいる。第1会期終了後、次の会期に向けて草案の見直しや議論の整理が行われていたが、ガンを患っていた教皇ヨハネ23世は1963年6月3日、会議の終結を見ることなくこの世を去った。6月21日、後継の教皇にパウロ6世が選出され、翌6月22日のラジオ・メッセージで公会議の継続を宣言した。教皇が第2バチカン公会議の第2会期を1963年9月29日に開会すると予告すると、世界中で公会議教父たちは様々な草案の研究を再び開始し出した。8月26日から同29日まで、ヨーロッパ同盟の司教たちのイニシアティヴで、第2会期をどのように持って行くかを準備する会合がドイツのフルダで開かれた(フルダ会議 Fulda Conference)。1963年9月12日付けのティスラン枢機卿への手紙により、第2バチカン公会議の第2会期開会に先立ち、教皇パウロ6世は、次のことを定めた。などであった。指名された4名の運営委員は、進歩派のデフナー、スーネンス、レルカノ、中道派のアガジャニアンであった。こうして自由主義者が公会議主導の覇権を握った。この運営委員会は、教皇庁からの介入の余地を少なくするものであった。。9月29日の第2会期(Sessio Secunda 1963年9月29日 - 12月4日)の初頭、教皇パウロ6世は、議題が多すぎて収拾がつかなかった第1会期の結果を踏まえて、公会議の優先議題を明示した。それは以下の四つである。第2会期においては、司教権あるいは司教団の性格、教会における聖母マリアの地位が、保守派と進歩派との論争点となった。9月30日、教会論の草案をめぐって討論が開始した。元来、聖母マリアに関する草案(De Beata Maria Virgine, Matre Dei et Matre hominum) は、独立した文書だった。オッタヴィアーニ枢機卿はこれを独立した決議文として成立させようとしていた。しかし、第2会期が始まる前、フルダ会議で、カール・ラーナーは「エキュメニカルな観点から見て、悪い結果をもたらす」ので「分裂の原因となることを避ける平和的な妥協」を求めていた。ラッツィンガー、グリルマイアー、ゼンメルロートも同様であった。9月30日、第2会期が始まるやいなや、フリンクス枢機卿は、マリアに関する草案を「過度なマリア信心」と批判し、教会論の一部として短縮し編入すべきという意見を出した。10月2日には、シルバ枢機卿もマリア論を教会論の一部とするべきと主張した。10月3日、デ・アリッバ枢機卿は、60人の司教の名前で、マリア論を独立した草案とすべきだと要求し、約600人の司教の陳情書が提出された。10月24日、サントス枢機卿は、独立した聖母草案を求める代表として審議報告を行い、他方でケーニヒ枢機卿は編入を求める代表として報告を行った。10月29日、独立草案か編入かを問う投票で、賛成 1114 対 反対 1074 で、教会論への編入を要望する意見がわずかの差で多数を占めた。第2会期の間、「教会について」神学委員会が準備した草案が廃案となった後、新しい第2次草案が激しく討論された。10月4日から同16日まで、教会の最高教導機関としての司教団(ordo episcoporum, collegium episcoporum) を認めるか否かが討論されて、127人の教父が発言した。教父たちは、3つの派に分かれた。この問題の討議は、意見が明確に対立したまま打ち切られ、次の議題に移された。10月14日、運営委員会のスーネンス枢機卿は、司教団の問題に関して4点についての試験的投票を10月17日に行うと発表した。しかしフェリチ事務総長、議長団、調整委員会の保守派はそのような票決に反対した。このような投票を運営委員会が行うことは、調整委員会に対する越権行為であると考えられていた。反対のために10月17日の投票は行われなかった。10月29日、運営委員会は、投票の問題点を4つではなく次の5点として発表し、翌日に投票が実施された。10月30日、試験的投票の結果、5点のいずれも3分の2以上の大多数を得た。オッタヴィアーニ枢機卿とブラウン枢機卿は、この試験的投票は神学委員会を拘束する力がない、司教団に関する教えも確立されていないと反論した。11月21日、教皇パウロ6世は、委員会の25名を30名に拡大すると決定した。同28日、5人の増員の選挙が行われ、5人とも世界同盟(進歩派のヨーロッパ同盟の拡大版)の進歩派から選ばれた。「この拡大によって司教団の意見がよりよく会議の草案に反映されるようになった。」さまざまな議題について議論はつきなかったが、この会期の中で『典礼憲章』(Sacrosanctum Concilium) と『広報機関に関する教令』の二つが一応の成立を見たことで、このまま議論だけで終わるのではないかという参加者自身の不安が取り除かれた。1964年初頭、教皇パウロ6世は、コンスタンティノープル総主教アテナゴラス1世を訪問した。同年1月15日、調整委員会の会合で、進歩派のデフナー枢機卿は、リベラル派にとって重要な問題のみを取り上げ、重要性の少ない細かい問題については、「指針」(propositiones) という形で簡単にまとめ、公会議のスピードをアップさせることを提案し採決された(デフナー計画 Döpfner plan)。翌年おこなわれた第3会期(Sessio Tertia 1964年9月14日 - 11月21日)では、信徒のオブザーバーたちもが招聘されて、多くの草案が精力的に検討された。特に教皇の首位権に関する第1バチカン公会議の決議を尊重しつつ、司教団の団体性指導原理を強調するという方法に関しての議論が白熱した。1964年9月15日、第3会期の最初、スタッファ大司教は公会議の議会則第6節第57条に基づき、70人の教父たちを代表して発言許可を求めた。しかしその願いは拒否された。9月21日から9月29日まで、本文は一句節ずつ表決に付された。最終的には、1624票の賛成と、572票の条件付き賛成(placet juxta modum)、42票の反対となった。11月7日、スタッファ大司教はパウロ6世に手紙を書いて、司教団体主義の命題という「極端な形式」の利益のためにローマ・カトリック系神学を沈黙させようとする手続上の妨害(9月15日に発言許可が与えられなかったこと)を告発した。(スタッファ作戦 Operation Staffa)その間に、35人の枢機卿と大修道会の5人の総長らは、パウロ6世に10月18日付きのメモを書き、革新的な教えに関する彼らの「憂慮」を表明し、草案が曖昧で多義性を持ち、公会議後に極めてリベラルな意味に解釈される危険性があると指摘し、また考察のための休憩時間と熟考の期間を要請した。パウロ6世は、草案の多義性が持つ危険性があると信じることが出来ず、何も行動を取らなかったが、スタッファ枢機卿と同調する神学者たちの名前を列挙することを求めた。スタッファが3人の名前を挙げるとパウロ6世が高く評価する人々であり彼はうろたえた。その時、極端にリベラルな教父が曖昧な文章は公会議後にどのように解釈されるかを文章にした。この書面がパウロ6世に提出され、自分が欺されたと気づき涙を流した。そこでパウロ6世は国務長官に命じて、オッタヴィアーニ枢機卿に司教団体主義に関する草案の諸点の表現をもっと正確に述べるように求めた。これが「予備解説的注釈」(Nota explicativa praevia) である。11月14日、予備解説的注釈が教父らに示された。この注釈が草案に含まれている内容の意味を変えるか変えないかで議論が起こった。11月16日第123回総会で、リベラルな教父たちが「暗黒の一週間 (Black Week)」と呼ぶ週が始まった。同日の告知で、公会議事務総長ペリクレ・フェリチ(Pericle Felici) 大司教は、論争を終らせるために「『教会について』の草案第3章に出された修正意見に、あらかじめつけられた次の解説的注釈が、最高権威(教皇のこと)によって教父たちに伝えられた 。第3章に書かれている教えはこの注釈の意向と意味にしたがって 説明され理解されなければならない」と発表があり、この注釈は『教会憲章』の一部となった。9月30日、リベラル派の起草した「現代世界における教会について」の草案に追加が現れた。10月20日の上程予定日に、「現代世界における教会について」の草案(草案第13と呼ばれた)検討が上程されなかった。10月20日から11月10日まで、現代世界における教会についての教令が討論された。超自然の要素がないと批判されたが、差し戻しにはならなかった。これが後に『現代世界憲章』となる。1964年7月15日付けで、13名の教父たちは、請願書(postulatum) を教皇パウロ6世に提出して、次のことを懇願した。第3会期では、9月16日から翌日まで、聖母マリアの称号について議論された。11月18日、聖母マリアに関する草案の票決。第3会期で提示された文章では、前会期の終了時にパウロ6世が表明した希望にもかかわらず、「教会の母」という称号は削除されていた。カスタン・ラコマ司教は 80人の教父を代表してこの称号を再挿入することを要求した。しかし、これは無視された。11月21日、総会最後の日、パウロ6世は「教会の母(Mater Ecclesiae)」という称号を聖母マリアに与えると、自発教令で発表した。会期が進んでもなかなか教令が形にならないことで参加者たちもあせり始めたが、最終的に『東方カトリック諸教会に関する教令』、『エキュメニズムに関する教令』、『教会憲章』(Lumen Gentium) を成立させることができた。『司祭の役務と生活に関する教令』などの草案はいまだに不十分であるとして差し戻された。公会議は1965年にいよいよ予定された最終第4会期(Sessio Quarta 1965年9月14日 - 12月8日)を迎えたが、依然として11の草案が決議に至らずに残されていた。特に「草案13」と呼ばれた現代世界と教会のありかたに関する文章は重要案件であり、何度も修正が重ねられていたが、いまだにまとまるめどがたたなかった。『信教の自由に関する宣言』の草稿も議論が繰り返されたが、なかなか多数に受け入れられるものになっていなかった。この会期の初頭で教皇パウロ6世が、司教会議(シノドス)を立ち上げることを宣言したことが大きなニュースとなった。シノドスは9月15日に創設され、実際に公会後終了後に各地で行われることになり、現代に至っている。最終的に啓示の扱いについて紛糾した『神の啓示に関する教義憲章』(啓示憲章 Dei Verbum)が参加者の賛成多数によって成立に至ったことで、すでに議論が重ねられていた草案も続々と成立していった。それらは『教会における司教の司牧任務に関する教令』、『修道生活の刷新・適応に関する教令』、『司祭の養成に関する教令』、『信徒使徒職に関する教令』、『教会の宣教活動に関する教令』、『司祭の役務と生活に関する教令』および『キリスト教的教育に関する宣言』、『キリスト教以外の諸宗教に関する教会の態度についての宣言』、『信教の自由に関する宣言』といったものであった。もっとも難産となった憲章、現代世界とのかかわりについて何をどこまで踏み込んで表現するかが議論となった『現代世界憲章』(Gaudium et Spes)は12月になってようやく成立し、参加者一同が胸をなでおろした。12月7日、カトリック教会と正教会による1054年の相互破門が相互に解除された。同日、教皇パウロ6世は公会議閉会演説において公会議の意義を宣言した。翌12月8日、教皇はサン・ピエトロ広場で公会議の終了を宣言し、世界のあらゆる人々にむけたメッセージを発表。ここに4年にわたった第2バチカン公会議の幕が下ろされた。公会議が取り扱った内容を見る前に、公会議をどのように解釈するかという問題に触れなければならない。その理由は、公会議をどのように解釈するかに、その内容も委ねられているからである。第2バチカン公会議の第一にめざすべき目標として教会の教えが現代人にも理解できるように「現代の要求する方法で探求され、説明され」ること、現代人によく伝わるように新しい言い方を用いて「司牧的な性格を持つ教会の教導の任務にもっともよく合致する表現法」による説明をめざした。しかし、理解しやすい説明をしたはずだった公会議は、その正しい理解の仕方と解釈が問題とされている。公会議の20周年にあたる1985年、ラッツィンガー枢機卿(後の教皇ベネディクト16世)は、第2バチカン公会議は正しく理解されていないと訴えてこう発言している。公会議が閉会して40年が経過した後でさえ、ベネディクト16世は第2バチカン公会議の真正な理解と解釈について問題にした。ベネディクト16世によれば、最初の解釈法は、「不連続と断絶による解釈法」である。もう一つの解釈法は「改革による解釈法」である。「不連続による解釈法は、あえて公会議前の教会と公会議後の教会の断絶を帰結させ」る革命的な見解を取る。この見解によれば、「公会議を、旧憲法を廃止して、新憲法を制定するための憲法制定議会のようなものと考え」、これによって全ては新しくなった。公会議は「新しい聖霊降臨」の機会であって、教会は自分の醜くさせているまた自らの使命を果たすことが妨げる全ての汚れを取り払った。「不連続による解釈法が説得力を持つように思わせる……特別な理由」は、パウロ6世の公会議閉会演説である。人間に関して激しい議論が行われてきたことが、近代の特徴であり、公会議は特別な意味で人間論というテーマを取り上げた。これらすべての問題から、ある種の不連続が生じる可能性があった。実際に、ある意味では不連続が現れた。パウロ6世の言うように「人々に対する限りない愛が公会議全体を侵略した」限り、現代の人々と現代世界に合わせて、新しい教会論にそって、教会を新しく作り直すべきである。教皇首位権、司教の権能、司祭職と独身制度、信教の自由、エキュメニズム、神の民の役割、結婚と性道徳、典礼など。「このような革新のみが、公会議の真の精神を表すものであり、この革新から、またこの革新に従うならば、前進することが可能となると、彼らは考え」ている。「この解釈法は、公会議文書そのものは公会議の真の精神をまだ表現していないといい」、「第2バチカン公会議文書は妥協の産物」であると主張する。例えばマルティニ枢機卿や濱尾文郎枢機卿がそう主張する。改革による解釈法を最初に示したのは、教皇ヨハネ23世による1962年10月11日の公会議開会演説であった。後にこの解釈法は、教皇パウロ6世が1965年12月7日に行った公会議閉会演説でも示された。ベネディクト16世は、ヨハネ23世を引用してこう言う。公会議のテーマは多岐にわたっているが、ここでは主なものをあげる。公会議の目に見える形でのもっとも大きな成果となったのが、中世以来の懸案であった教会論の確立である。これは『教会憲章』にみることができる。第1章「教会の秘儀について」では、カトリック教会が唯一にして聖であり、普遍的なものであること、イエスがペトロに与えた権能を引き継ぐ教皇と司教たちによって治められる組織であるといいつつ、カトリック教会以外にも聖化と真理の要素が数多く見出されると補足する事で独善的傾向を避けている。第2章「神の民について」では、神が個人でなく人々のグループを聖性に招いていること、その祖形がユダヤ民族に見られることを示す。また、カトリック教会に属さないキリスト教徒たち、ユダヤ教徒、イスラム教徒たちも唯一の神において互いに結ばれていると言明される。第3章「教会の聖職位階制度、特に司教職について」では、第1バチカン公会議の議論を補完する形で教皇職の意味と司教団の団体制原理が示される。以下、第4章「信徒について」、第5章「教会における聖性への普遍的召命について」、第6章「修道者について」、第7章「旅する教会の終末的性格および天上の教会との一致について」、第8章「キリストと教会の秘儀との中における神の母、処女聖マリアについて」と続くが、特にその中でそれまで聖職者・司祭は信徒より聖性のレベルが高いとみなしてきた教会が「すべての人が聖性に招かれている」という表現をしたことが革新的であるといえる。特にキリスト教の2000年の歴史の中で初めて、信徒が公式文書の中で言及されたことは特筆に価する。また、第8章のマリア論に関する部分は元来独立した文章になる予定であったが、エキュメニズム的観点とカトリック以外のキリスト教に対して攻撃的になってはならないという配慮からこの中に組み込まれた。この公会議の後、外見的な部分で教会が変わったと人々を実感させたのは典礼の改革であった。この精神は『典礼憲章』にくわしい。教会は典礼においてすべての人が積極的にこれにかかわることが求められるとして、多くの改革を実行した。たとえばそれまでほとんどラテン語で行われていたミサおよび典礼の諸儀式が各国語で行われることになった。また司教の判断のもとに(全世界一様でなく)その地域文化に根ざした典礼のあり方が模索されることになった。(典礼の見直しにともなって、レクイエム・ミサにおける続唱(「怒りの日」など)も廃止された。歌詞の内容があまりにも最後の審判への不安や恐怖を強調しすぎており、本来のキリスト教の精神から遠いというのが理由であった。)カトリック教会は古代以来一貫して重要視してきた「聖書と聖伝(聖なる伝承)」を保持しつつも、その現代世界への適応を目指した。具体的には聖書の各国語訳のさらなる研究が推奨された。そして聖職者と信徒にとっての聖書研究の重要性が改めて認識された。それまでのカトリック教会は聖書の研究は聖職者がすることであるとみなし、信徒がすすんで研究することはあまり推奨していなかったのである。教会における司教の位置づけも新しい観点によって照らしなおされた。特に司教の団体制という考え方がこの公会議の精神の特徴になっている。これは教皇と司教団がペトロと使徒たちのように1つとなって教会を司牧していくという考え方である。また、公会議以降それぞれの地域で司教たちが集まって会議を開くようになった。これがシノドスである。ただ、シノドスでの議決については3分の2以上の賛成と教皇庁の認可によって初めて有効性を持つということが定められている。アジョルナメント(現代化)をテーマに行われた公会議は、教会の現代世界への適応にかける強い意気込みを示すことになった。この会議での決定事項は以降、パウロ6世によって実施が推進され、ヨハネ・パウロ1世からヨハネ・パウロ2世へと公会議理念の実践がすすめられていくことになる。http://www.vatican.va/archive/hist_councils/ii_vatican_council/index.htm

出典:wikipedia

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