田中 健二郎(たなか けんじろう、1934年1月3日 - 2007年12月29日)は、日本の元オートレース選手、レーシングライダー、レーシングドライバー。福岡県出身。1950年代よりオートレース選手として活躍。「逆ハンの健二郎」の異名を取る人気ライダーだった。しかし1957年9月26日に川口オートレース場で発生した騒擾事件を発端とする八百長事件に関与していたとされ、オートレース界から事実上追放された。オートレース選手時代の主な獲得タイトルは、川口オートレース場における1956年の4周年、同1957年の4周年記念にあたる開設記念グランプリ、1957年の浜松オートレース場開場1周年記念・ゴールデンレースがある(いずれも現在、オートレースの格付けではGIの開催)。その後ホンダのワークス・チームに加入。浅間火山レースなどで活躍する。1960年にホンダワークスライダーとしてロードレース世界選手権(世界GP)にデビュー。西ドイツGP(ゾリチュード)250ccクラスに出場し、世界GP初出場で3位に入賞した。日本人として初、ホンダとしても初の世界GP表彰台(3位以内入賞)だった。田中の直弟子と言える高橋国光は、「自分は世界の舞台でどう走っていいか分からず茫然自失の状態だった。海外のチャンピオンに混じって3位に入った健二郎さんは天才」と絶賛している。しかし西ドイツGPの直後のアルスターGPで転倒し、足に重傷を負い長期療養を余儀なくされる。結果として、これがきっかけでレーシングライダーとしては引退することになった。自著「走り屋一代」によれば、アルスターGPでの事故はマシントラブル(ミッション焼き付き)が原因だという。脚を切断する寸前まで追い詰められ、身体障害者にさせられたとして、同書の中で田中はホンダの責任を明確に指摘している。ただしレーサー名義の書籍によくあるように、同書は出版元である八重洲出版の記者・橋本茂春がゴーストライターを務めたらしい。同書の中に、アルスターの事故で入院中、青い目の看護婦が病床の田中を性的に慰める場面が登場するが、それは橋本によるフィクションのようだ。とはいえ田中の破天荒で痛快な生き方や、人間としての本音、メーカーや選手達への苦言などが率直かつ赤裸々につづられており、日本のモータースポーツ関係の書籍で同書を超えるものは未だに登場していないと言えるかも知れない。アルスターGPの事故の影響で主戦ライダーを引退した後は、ホンダのワークスライダーのコーチ役を務める。これは「健二郎学校」と呼ばれ、生沢徹などの名レーサーを産むことになった。1960年代のホンダ系ライダーのほとんどは「健二郎学校」出身であるため、2輪レース界の多くの人材は、彼の直接もしくは間接の弟子と表現することも可能だと言っていい。ホンダに在籍中の1964年、日産自動車のブルーバードで第2回日本グランプリに出場し、クラス優勝。1965年に日産の開発部門のワークスチーム(いわゆる追浜ワークス)へ移籍して、本格的に4輪のレースへ転向。その際、ホンダの後輩である高橋国光と北野元も、田中に誘われる形で日産へ移籍している。その後にフリーになりタキ・レーシングなどに所属したり、自己のチームを主宰したりする。主に日本グランプリを始めとする国内レースで活躍。1973年に、加齢による視力の衰えなどを自覚して現役を引退。ただし引退表明後も何度かスポット的にレースに出場している。ドライバーを引退後はレース解説者に転身。テレビ中継や雑誌記事などで、辛口の批評を展開する。高橋国光、北野元、黒澤元治など当時の主だったドライバーはほぼ全て弟子筋であるため、歯に衣着せぬ本音を言えるのが田中ならではの魅力だった。1974年に発生し、風戸裕、鈴木誠一の二人のドライバーが落命した富士グランチャンピオンレースでの大事故も、関わったドライバーの心理的背景にまで踏み込んだ解析を行っている。辛口批評はレース主催者や、その上のレース統括団体にまで及び、ドライバーの権利や安全についての直言も多かった。1980年代以降はテレビ解説に登場する機会も減り、埼玉県所沢市で板金業を営んでいたが、晩年は健康を害したため、妻の実家のある静岡県沼津市に移り静養していた。日本モータースポーツ史上最大の奇書「走り屋一代」も含め、日本レース界を語る上で忘れてはいけない人物である。2007年12月29日死去。
出典:wikipedia
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