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醍醐寺

醍醐寺(だいごじ)は、京都府京都市伏見区醍醐東大路町にある、真言宗醍醐派総本山の寺院。山号を醍醐山(深雪山とも)と称する。本尊は薬師如来、開基(創立者)は理源大師聖宝である。古都京都の文化財として世界遺産に登録されている。伏見区東方に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内をもつ寺院である。豊臣秀吉による「醍醐の花見」の行われた地としても知られている。 醍醐寺の創建は貞観16年(874年)、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が准胝観音並びに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯(上醍醐)を中心に、多くの修験者の霊場として発展した後、醍醐天皇は醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を掛け、その圧倒的な財力によって醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が発展することになる。その後、応仁の乱など戦乱で下醍醐は荒廃し、五重塔のみが残された。しかし豊臣秀吉による「醍醐の花見」をきっかけに、紀州などから寺院建築が移築されたり三宝院が建設されたりなどし、今日の姿となった。上醍醐と下醍醐は険しい山道で隔てられ、徒歩で1時間は要する。本尊薬師如来を安置する「金堂」「三宝院」などを中心に、上醍醐とは対照的に絢爛な大伽藍が広がる。応仁の乱でほぼ全焼し、その後も焼失・再建を繰り返しているが、護摩道場前に建つ五重塔は創建当時のまま現在に残る。また五重塔内部の壁画も国宝に指定されており、壁画中の空海像は同人の肖像として現存最古のものである。西国三十三所第11番札所であり、西国一険しい札所として知られる。上り口にはかつて女人結界があったことから、女人堂がおかれ、そこから険しい山あいに、平安時代のままに残る国宝の薬師堂、醍醐寺の鎮守神である清瀧権現拝殿(国宝)、准胝堂(現存せず)、五大堂などが立ち並ぶ。上醍醐には有名な「醍醐水」が今も湧き出ているほか、醍醐山頂(標高450m)には、如意輪堂(重文)と開山堂(重文)と白山大権現が並ぶ。山頂から笠取山に向かう途中に奥の院がある。醍醐寺の主な行事としては、醍醐派が本家である壮大な屋外大護摩柴燈護摩(さいとうごま)を中心とした施餓鬼法要が8月に厳修されるほか、2月には同様に柴燈護摩を炊き上げて五大明王の功徳を讚える「五大力尊仁王会」(ごだいりきそんにんのうえ)が厳修され併せて150キロ近い巨大な鏡餅を持ち上げる力比べが行われることで有名。また豊臣秀吉の「醍醐の花見」にちなんで現在も4月に全山を揚げての花見会が開催される。典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。※三宝院唐門、三宝院表書院、三宝院殿堂、三宝院宝篋印塔、三宝院障壁画の国宝2件、重要文化財3件は宗教法人三宝院の所有であり、宗教法人醍醐寺が文化財保護法に基づく管理団体に指定されている。醍醐寺は密教(真言宗)系新宗教の多くと影響関係を持っている。特に戦後、真言宗醍醐派から独立した真如苑、解脱会との関係が密接であり、宗教学者島田裕巳は、醍醐寺と真如苑、解脱会の密接関係を「かつての日蓮正宗と創価学会に近い関係」としている。近年は、元解脱会幹部・北川慈敬(フォークディオ「ゆず」のメンバー北川悠仁の母)が興した新宗教「かむながらのみち」とも交流を深めている。解脱会の創始者・岡野聖憲は1931年、醍醐寺三宝院にて出家得度。死後、1948年に醍醐寺から「解脱金剛」の諡号と権大僧正位(1954年、大僧正位を贈補)が贈られている。解脱会は伊勢神宮、橿原神宮、泉涌寺を三聖地としているが、醍醐寺にも集団参拝を行う。
「かむながらのみち」の北川大成理事長(北川悠仁の兄)は、真言宗醍醐派金剛山成就院(横浜市磯子区)の住職も兼務しており、同院は北川慈敬が教主を務める「かむながらのみち」と同じ所在地にある。「かむながらのみち」は2009年10月に行われた醍醐寺の開祖・聖宝理源大師1100年遠忌法要に500万円の寄進を行ったほか、2012年3月には、信者120人が醍醐寺を参拝し、仲田順和管長(醍醐寺座主)の下、護摩焚きを行った。また、信者が醍醐寺を月例参拝している。真如苑の開祖・伊藤真乗は、醍醐寺で1939年に恵印灌頂、1943年に伝法灌頂を畢めており、1966年には大僧正位が贈られている。1992年、真乗の跡を継いだ伊藤真聰に対しても大僧正位が贈られた。醍醐寺は1997年、真乗の興した密教法流「真如三昧耶流」を顕彰する「真如三昧耶堂」を境内に建立した。真如苑の法要には、仲田管長をはじめ、醍醐寺の僧侶が招待されることがある。また、真如苑幹部信者は毎月醍醐寺を訪問し、仲田管長と面談している。真如苑は、醍醐寺で法要を行うこともあり、2009年10月に行われた聖宝理源大師1100年遠忌の中日法要を主宰し、法要には信者5000人が参加し、法要の前後には合わせて1400人の信者が境内の清掃作業を行った。
真如苑から醍醐寺への寄付金の行方については不透明性が指摘されている。1987年3月、醍醐派宗会で、宗会議員が真如苑から醍醐寺に渡った1億円を超える寄付金の行方について追及した。この時、宗教専門紙「中外日報(1987/3/25付)」が、「寄付金、一億どこへ消えた」と書き、仲田順和宗務総長(当時)の責任を紙面で糺した。また、2008年8月、上醍醐の准胝堂が落雷により焼失した際に、醍醐寺は檀信徒から寄付を募ったが、すでに真如苑から再建費用として4億円の寄付金が醍醐寺に渡っている疑惑を指摘する声が、宗会議員や檀信徒から上がった。4億円の寄付金問題を醍醐寺が認めたのは、2009年10月に真如苑主宰による聖宝理源大師1100年遠忌の中日法要が行われた翌年、2010年3月の定期宗会であり、仲田宗務総長は、真如苑から遠忌勧進募金1億円、准胝堂再建勧募として2億円の寄付金があったことを、初めて宗会に報告した。遠忌勧進募金1億円については、「遠忌勧進募金事業計算書」に計上されたものの、准胝堂再建勧募2億円については、十一年度の醍醐派宗務本庁歳入歳出予算書には、記載されていないなど、醍醐寺の経理の透明性に疑問が持たれている。

出典:wikipedia

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