東急6000系電車(とうきゅう6000けいでんしゃ)は、1960年から1989年まで東京急行電鉄で運用されていた通勤形電車である。4両編成5本(20両)が東急車輛製造で製作された。本項では弘南鉄道へ譲渡された後の同社6000系電車についても記述する。東急では1954年から5000系の増備を進め、保守面の事情から同一形式を大量製造する方針を採っていたため、100両あまりを製造して東横線で運用するに至った。加えて、1958年に営業運転を開始した5200系がステンレス製車体で登場したほか、電装品などの技術に大きな進歩がみられていたことから、5000系を基にしつつ新技術を盛り込んだ車両を新たに6000系として登場させるに至った。編成については、当時の東横線の運転時分などを満たす性能を確保するため、全電動車方式とすることとなった。しかし2両ユニットで考えたときにMTユニットの車両よりも製造費用が高くなってしまうため、台車1つあたりのモーターを2つではなく1つとする、1台車・1モーター装備・2軸駆動を採用した。これにより、2軸駆動であるために車輪が空転しにくくなる効果を得つつ、モーター数を半減することで製造費の低減が図られた。1台車1モーター2軸駆動を具体化するにあたり、東急では最初に4両固定編成を2本製造した。この2本は車体は同一であるが、電装品の違いによりA編成・B編成と呼ばれていた。両者を比較検討した結果、A編成の方式の方が優れているという結論に達したため、A編成の仕様を踏襲しつつ主電動機の出力をアップしたC編成と称するタイプが量産された。各編成の特徴は以下の通りである。詳細については後述「車両概説」の項も参照。1台車1モーター2軸駆動方式を採用したことで製造費の縮減には成功したほか、空気バネ台車や回生ブレーキを初めて導入するなど、その後の東急の車両に広く使用される技術の多くを初めて盛り込んだ車両でもあった。一方、台車の構造が複雑になったことや、騒音や振動が目立つなどの欠点が浮き彫りにもなった。また、本格的な増備が1962年にオールステンレス車体で登場した7000系に替わられたことで総計20両の増備にとどまったことも、保守管理上の悩みの種となった。5200系で採用されたセミステンレス構造を引き続き採用し、骨組みは普通鋼でその上から厚さ0.8 mmのステンレス板を張り付けるというものだった。5200系との相違点は、側面には客用扉にまでビードが入っているのに対し、先頭部にはビードが入っていない点である。その外観から「湯たんぽ」の愛称を付けられていた。先頭部は5000系、5200系の非貫通スタイルから一転して、中央に貫通扉が設置された。これは将来6両編成で運転するにあたり、その過渡期には4両と2両の分割併合を行う機会があると予想されたためであった。客用扉は同社では初めて両開き(幅1,300mm)のものが1両あたり3カ所設置され、編成を組んだ際に扉間隔がおおむね6 mになるよう配慮して側面のレイアウトが決定された。車両番号は5200系と同じく、前面向かって右上と、側面のビードの間に紺色の小さな文字で印字する方式とされた。また、18 m3ドア・側扉間隔6 mという仕様は営団地下鉄日比谷線(当時は2号線と呼称されていた)乗り入れ規格に準拠したものであったが、これについて当時東急の車両部長を務めていた白石安之は「当社がこの2号線に乗入運転をするようになるのはまだ3~4年先のことであるから,この6000形を使用するかどうかは別として,この規格による電車を新製し,すべての点からこれを検討しておくためである」と述べている。結局本形式による乗り入れは行われず、2年後に登場する7000系が乗り入れ運用に投じられることになった。なお、7000系では床面高さが規格に準拠した1,125 mm(軌条面基準)となっているのに対し、本系列ではそれより高い1,150 mmとなっており、本系列での直通運転は不可能であった。1台車・1モーター装備・2軸駆動という、日本の電車としては非常に珍しい特徴を持つ。ほぼ同時期に電気機関車においても日本国有鉄道(国鉄)EF80形などに1台車1主電動機方式が採用されたが、主電動機個数を減らして得られる、空転防止、軽量化、電動機の保守軽減などの効果より、機械的な特殊さ、複雑さによる欠点の方が大きく、特に日本国内の高速鉄道ではその後しばらくの間、採用されることがなかった。本形式ではいずれも台車中央にモーターを1個置くが、A・C編成は枕木方向の片軸モーターに複数の平歯車と撓み継手を組み合わせた方式で、モーター軸→第1段ギヤボックス→カルダン軸→第2段ギヤ装置の順に駆動力が伝わる。ギヤの数が多かったため、共鳴音の音程は非常に高く、同時にやかましいものだったという。A編成の台車はTS-311形で、固定軸距は2,000 mmであった。C編成ではTS-311形を改良したTS-315形となり、軸バネ部分にコイルバネが追加された。なお、台車中央枕木方向に主電動機軸を置く方式は、電車用としては日本国外においても類例を見ない方式である。一方のB編成はレール方向に設置された両軸モーターを使用した直角カルダン駆動方式で、スパイラルギヤ→ベベルギヤの順に駆動力が伝わる。これは5000系でも採用されていた方式であり、ギヤの数が少ないこともあって走行音は非常に静かだったという。台車はTS-312形で、モーターが線路方向に配置されている関係上、固定軸距は2,400 mmと少々長めになった。なお、1台車1主電動機全軸駆動の実例として、B編成に見られるレール方向に主電動機軸を置くものは、連接車やトレーラーを牽引するために、路面電車でも1台車2電動機が一般的だったヨーロッパでは、ドイツのデュワグカーなどで広く使用された。日本では、「軽快電車」として開発された広島電鉄3500形や長崎電気軌道2000形、熊本市交通局8200形まで、この方式の採用例はない。台車はいずれも東急では初となる空気バネ付き台車であった。基礎ブレーキは、A・B両編成では構造が簡素なため保守管理の手間を省くことができるという予測からドラムブレーキが採用されたが、C編成では踏面両抱き式のものを当初から装着していた。当時のドラムブレーキは鉄道車両に採用するには構造的に丈夫でなかったため、A編成・B編成もそれぞれ1962年・1963年に同じ方式に改造された。当初は全ての編成が回生ブレーキを搭載していたが、B編成の回生ブレーキは保守合理化のため1969年に撤去され、電磁直通ブレーキのみとされた。電動空気圧縮機はA・C編成がC-1000形を、B編成ではRCP-40B形を採用していたが、B編成のものは後にC-1000形に交換された。車内は5200系に準じた仕様とされた。蛍光灯は40 W・カバー付きで、中央にはファンデリアが1両あたり6台設置された。客室窓は上下2段で、先の5200系や後の7000系初期車と同様、2枚のガラスがワイヤーで連動するつるべ式であった。1970年から客用扉がコルゲートの入っていないものに交換され、翌1971年からは車内ファンデリアを扇風機に取り替える工事が施工された。また、後述する更新工事の施工までに、客室の蛍光灯カバーも撤去された。そして1976年3月から1978年12月まで、より大がかりな更新工事が施工された。主な内容は以下の通りである。1983年には、前照灯がシールドビーム2灯に取り替えられた。1984年6月、最初にB編成の先頭車デハ6202がVVVFインバータ制御へ改造され、制御装置は日立製作所製のもの(誘導電動機は165kW)に、台車は東急車輌のTS-1003形へとそれぞれ交換された。この際、デハ6202とユニットを組むデハ6201は制御付随車代用として使用され、デハ6202の回生ブレーキと連動し、常用制動で空気ブレーキを停止寸前まで使用しない“遅れ込め制御”に対応する改造がなされた。東横・田園都市・目蒲(当時)の各線で試運転を行った後、1984年(昭和59年)7月25日から9月18日まで大井町線で営業運転が行われた。これは直流1,500V区間の高速電車としては日本初の営業運転であった。当時、4,500V耐圧のGTO素子は未だ開発途上であり、2,500V耐圧のものを2個直列に使用し理論上の定格電圧を5000Vまで上げるなど、未だ開発途上を伺わせる機器構成である。まだ安定性を欠くシステムゆえ、営業運転時は乗務員とは別に技術者が添乗したり、期間中不具合により長期に渡って営業を離脱したこともあった。1985年3月にはデハ6302に東芝製(2,500V耐圧×2)の、6002号には東洋製(4,500V耐圧)の制御器が搭載され、同時に6202のGTO素子も4,500V耐圧のものに交換されている。なお、この際交換された6302と6002の台車は8000系用のTS-807形であり、ボルスタレス台車ではない。また、いずれもユニットを組む6301と6001は6201同様付随車扱いとされ、ブレーキ遅れ込め制御も同様に対応する仕様となった。この現車試験中に6000系VVVFインバータ制御車は営業運転にも用いられており、度重なる編成変更を経て全車両をVVVFインバータ制御とした編成に組み直され、同年7月1日から11月頃まで再び大井町線で営業運転が実施された。この現車試験結果は早速新製車9000系(日立製主制御器)や改造車7600系・7700系(ともに東洋製主制御器)に反映され、以後の新規製造車は8590系や8500系の増備車など一部を除きすべてVVVFインバータ制御・交流モーター車となった。ただし、東芝製の制御装置は、この時点では採用されず、東急においては1999年(平成11年)に落成した新3000系偶数編成以降で本格採用が開始された。これらは、試験終了後の1986年(昭和61年)1月頃に休車となり、8090系後期型の投入の影響により玉突きで東横線から大井町線に転属された7000系に置き換えられてそのまま廃車された。当初は20両全てが東横線で運用されていた。その後1964年には2編成が田園都市線に転属し、東横線に残った12両は6連2本に組み替えられた。同年7月までには東横線の12両も田園都市線に転属し、全編成が同線で運用されるようになる。1967年4月までにC編成12両が目蒲線に転属するが、1970年8月に1本が、1972年11月に2本がそれぞれ田園都市線に戻されている。1979年には全車が東横線に復帰し、1981年に大井町線に18両(6連3本)が、こどもの国線の予備車として2両が転属するまでは8連で急行運用に充当されることもあった。この8連は当初A編成とB編成を併結したものであったが、半年ほどでC編成による4+4の8連に置き換えられている。なお、東横線での急行運用時には先頭車の前面に(方向幕とは別に)7000系・7200系・8000系と同様に「急行」の種別札を装着していた。1986年6月7日にデハ6001・6002号が廃車された。その後他の車両も順次廃車が進行し、1989年11月21日にデハ6007・6008およびデハ6105~6108の計6両が廃車されたのをもって東急線からは全車が廃車された。VVVFインバータ制御の実用試験車のB編成の車体は、大手ホームセンター企業であるジョイフル本田の茨城県下の店舗を通じて一般に売却された。2004年7月時点では、4両全てが県内で倉庫や会議室などとして利用されている。一方、C編成12両は全車が日立製作所または弘南鉄道に譲渡された。日立製作所の4両は同社水戸工場で試験用と通勤客車として使用された後に廃車された。弘南鉄道では8両中先頭車4両が大鰐線で運用され、2006年(平成18年)10月31日の快速列車廃止に伴い運用から離脱し、波動用として在籍している。2008年3月6日にはさよなら運転も実施されたが、その後も運用に入り、検査も施された。残る中間車4両は津軽大沢駅(大鰐線)と平賀駅(弘南線)の車庫で倉庫として使用されている。
出典:wikipedia
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