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煬帝

煬帝(ようだい、ようてい)は、隋朝の第2代皇帝(在位:604年8月21日 - 618年4月11日)。煬帝は唐王朝による追謚である。中国史を代表する暴君といわれる。後に煬帝となる楊広は、文帝楊堅の次子として生まれる。文帝により隋が建国されると晋王となり北方の守りに就き、南朝の陳の討伐が行われた際には、討伐軍の総帥として活躍した。この時、初めて華やかな南朝の文化に触れ、当地の仏教界の高僧達と出会ったことが後の煬帝の政治に大きな影響を与えたようである。591年には、天台智顗より菩薩戒と「總持」の法名(居士号)を授かり、智顗に対しては「智者」の号を下賜している。楊広の生母の独孤伽羅は一夫一妻意識が強い匈奴出身であったため、「自分以外の女とは関係しない」と文帝に誓わせている。また文帝自身は質素倹約を是としていた。ところが、楊広の兄で皇太子の楊勇は派手好みで愛妾を求め、正妃を疎かにしたため、特に皇后に嫌われた。この状況を楊広が利用して自らの質素を宣伝すると共に、腹心の楊素と張衡らによる文帝への讒言を行って楊勇を廃させ、皇太子の地位をいとめた。604年に文帝の崩御に伴い即位したが、崩御直前の文帝が楊広を廃嫡しようとして逆に暗殺された、とする話が根強く流布した(『隋書』「后妃伝」でも言及している)。即位した煬帝はそれまでの倹約生活から豹変し奢侈を好む生活を送った。また廃止されていた残酷な刑を復活させ、謀反を企てた楊玄感(煬帝を擁立した楊素の息子)は九族に至るまで処刑されている。洛陽を東都に定めた他、文帝が着手していた国都大興城(長安)の建設を推進し、また100万人の民衆を動員し大運河を建設、華北と江南を連結させ、これを使い江南からの物資の輸送を行うことが出来るようになった。対外的には煬帝は国外遠征を積極的に実施し、高昌に朝貢を求め、吐谷渾、林邑、流求(現在の沖縄)などに出兵し版図を拡大した。さらにに612年には煬帝は高句麗遠征を実施する。高句麗遠征は3度実施されたが失敗に終わり、高句麗に離反して送還された斛斯政を射殺に処するなど、これにより隋の権威は失墜した。また国庫に負担を与える遠征は民衆の反発を買い、第2次遠征途中の楊玄感の反乱など各地で反乱が発生、隋国内は大いに乱れた。各地で李密、李淵ら群雄が割拠する中、煬帝は難を避けて江都に逃れた。煬帝は反乱の鎮圧に努める中で次第に現実から逃避して酒色にふける生活を送り、皇帝としての統治能力は失われた。ある日、煬帝は眠れなかったので天を仰ぐと、帝星が勢いを失い傍らにあった大星が妖しげな光を放っているのを見て、不吉なものを感じて天文官に聞いてみると、「近頃、賊星が帝星の座をおかしています。また日光は四散してあたかも流血のごとき模様を描いております。このまま時が過ぎますと、恐らくは近々に不測の禍が起こりましょうから、陛下には直ちに徳をおさめられてこの凶兆を払う事が肝要と存じます」と述べた。この日から煬帝は国事の奏上を受け付けなくなり、奏上する者は斬罪に処すという命令を出した。618年、江都で煬帝は故郷への帰還を望む近衛兵を率いた宇文化及・宇文智及兄弟や裴虔通らによって、末子の趙王楊杲(13歳)と共に50歳にして殺害された。煬帝は暴君として描写され、その業績は否定的に評価される傾向にある。大運河に関しては女性までも動員した急工事でこれを開鑿し、開通のデモンストレーションとして自ら龍船に乗って行幸したために、「自らの奢侈のために多数の人民を徴発した」などと後世に評されることになる。しかし大運河の建設は長期間分裂していた中国を統一するための大事業でもあった。また共に次子でありクーデターによって帝位に就くなど、環境や行動に類似点の多い唐太宗の正統性を主張するため、煬帝(ようだい)と言う貶字を謚号に用い、『隋書』にも暴君であるように編纂したとする意見もある。煬帝個人に関する研究は多いとは言えないが、その中で宮崎市定・布目潮渢・アーサー・F・ライトが挙げられ、いずれも煬帝の暴君像は後世に(その程度がどれほどであったかは別として)誇張されたとする点では共通している。2013年3月、中国江蘇省揚州市の工事現場で古代遺跡が発見された。2013年11月16日、この遺跡が煬帝の墓であることが発表された。煬帝は統治者としては結果として国を滅ぼした失格者であったが、一面では隋代を代表する文人・詩人でもあった。治世中各地に巡幸した際などしばしば詩作を行なったといわれる。治世後半には自らの没落を予見したのか、寂寥感を湛える抒情詩を数多く残した。煬帝の作品は文学史上からも高い評価を受けている。倭国が第2回遣隋使(607年)を遣ったのがこの煬帝の治世で、「」(日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無しや)の有名な書き出しで始まる国書が倭王から送られている。東夷の島国の王が「天子」を称するのは固より剰え対等な関係を求め、字面では「没落の途にある皇帝」を意味する「日没處天子(倭で日没は方位を表す程度の表現であった)」という語句に煬帝はいたく立腹したが、当時隋は高句麗遠征を控えて外交上倭国との友好関係は必要と判断し、裴清を倭国へ派遣した。煬帝在位中に遣隋使はこの第2回を含めて計4回も派遣されている。

出典:wikipedia

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