『平成教育委員会』(へいせいきょういくいいんかい、英字表記:"HEI!SAY!A BOARD OF EDUCATION")は、1991年10月19日から1997年9月27日まではレギュラー番組として、2000年1月3日からは年数回の特別番組としてフジテレビ系列で放送されている、教育クイズバラエティ番組である。略称は一定しないが「平成教育」とする場合が多い。番組開始から1994年9月までの正式タイトルは『たけし・逸見の平成教育委員会』(たけし・いつみの -)であり、ビートたけし(番組では本名である“北野武”名義)と逸見政孝の冠番組であったが、その後は逸見の死去、そしてたけしの交通事故による休養により、1994年10月より『平成教育委員会』が正式タイトルとなった。のちに兄弟番組として『平成教育予備校』および『熱血!平成教育学院』がレギュラー放送となった(後述)。小中学生の勉強する内容を大人達が悪戦苦闘しながら解き、マルチビジョンを用いて答え合わせを行なう。理科の授業では直前に実験を行なうことも多い。オープニングは国語、オーラスの問題は特別授業か算数(文章題1問)が多い。その日の番組終了時には最優秀生徒を決定し表彰する、というのが番組開始時から続く基本的なスタイル。レギュラーとしては全220回放送され、平均視聴率は16.2%を記録。問題作成協力には学習塾の日能研などが関わっていた。レギュラー放送では、当初ツムラが前半30分程度に限り一社提供を務めていたが、その後同社を含めた複数社提供となった。ちなみに1994年4月からレギュラー回での最終回までは、セールス上によりスポンサーが大幅増大したため、ツムラを含めた複数社の提供となっていた。北野がフライデー襲撃事件で半ば謹慎状態となっていた時期、娘の教科書を拾い読みし、教育番組を見て教育としての学業に無味乾燥なものを感じ取る。北野はここで「基礎から勉強し直そう」と思い立ち、小・中学生が解くようなドリルを使って勉強。そこで、北野は大人・芸人としての知識や常識と、義務教育で習得し、その後もどこかで有用であるはずの「一般常識の基礎」とのギャップに気づいた。事務所やテレビ局に各科目の問題集を持ち込んでスタッフらに設問や解を解かせ、北野が採点すると腹を抱えて笑う解答が続出。これを番組原案として出したところ、面白がられて番組が誕生した、というものである。日本PTA全国協議会による、2006年度「子供とメディアに関する意識調査」によると、「親が子どもに見せたい番組」第9位、2007年度では第4位に上昇している。ここで記述する「生徒」はスペシャル版以降も出演しており、後述の卒業生はレギュラー版終了時の最終回に出席した生徒及び以降の出演の無い生徒を示す。生徒は、学級委員を含め、男女を問わず全て「○○君」と呼ばれる。SPではその時期に放送されるフジテレビの連続ドラマの出演者が、番組の宣伝を兼ねて出演している。磯野貴理子に対し番組中でカンニング疑惑が浮上したため、全席にカンニング防止のフィルターが貼られることになった。以下、五十音順に列挙している。ラサール石井・辰巳琢郎・田中康夫は正解率が高く、とくに辰巳琢郎はパーフェクトを達成することもあった。逆に渡嘉敷勝男と岡本夏生は珍解答を続出していた。レギュラー時代末期は寿美花代・ラサール石井・田代まさしの3人が班長を務めるグループ戦になった。特筆すべき点として、助手が解答者と一緒に解答する点が特徴的である。当時は、「教師」役である司会の北野武と、「学級委員長」役で助手の逸見政孝が番組を仕切っており、「学級委員長」役の逸見も問題に解答者として参加していた。各教科の例題などでは、逸見は北野と共に例題問題解説などの進行を務め、本問に移ると自席に戻り、自席にある「ただいま考え中」の札を上げて他の生徒と共に解答に専念するという、他のクイズ番組では例のない役割を担っていた。各時間の授業で優秀生徒になると「たけしおとし」という、天神様(菅原道真)を模した北野の人形を、ダルマ落としのように横に輪切りしたパーツを下部より獲得。このパーツを下より重ね、10個すべて集めて人形を完成させると(最終的には扇子に「あんたはえらい!」と書かれる)、世界一周留学旅行を獲得することができた。全教科の解答を終えて、その日の成績がトップの生徒もしくは先生の裁量で「最優秀生徒」として認められた場合、番組オリジナルブレザーが授与された。初の優等生は藤原弘達であった(北野曰く「早めにあげておかないと、あげられなくなっちゃうかもしれないから」)。出題内容は、実際に使用された国・公・私立中学校入試問題から一般企業入社試験、公務員試験、番組オリジナルの問題まで多岐に亘っていた。後に放送されることになる特別番組や兄弟番組『教育学院』よりも、「国語・算数(数学ではない)・理科・社会」といった、「国・公・私立中学校入試問題」「小学校の実力テスト」レベルの、義務教育で当然教わっているような問題が重点的に出題されていた。また、解答できないことによるジレンマ、先生・学級委員長と生徒とのギャグの応酬も特徴だった。時折、本問の前に過去の珍解答が引き合いに出されることもあった。番組開始からしばらくは前述のような科目だったが、1992年の「学問の秋スペシャル」から、私立幼稚園の入試問題や○×問題が5問連続で出題される「○×テスト」が実施されるようになった(後述のリニューアルまで)。開始当初は、フジテレビ系列で独占中継している『バレーボールワールドカップ』中継に伴い、1991年11月 - 12月に番組休止が相次いだこともあった。しかし、1992年と1993年のFNSの日は平成教育委員会メインとして『平成教育テレビ』が放送され、1995年まで平成教育委員会の雰囲気を残し制作された。当時のフジテレビの番組対抗特番だった『FNS番組対抗!なるほど!ザ・春秋の祭典スペシャル』のBブロックの全問題の出題を、1992年春から1994年春まで担当した。1996年春・秋に放送された『FNS超テレビの祭典』もこの番組をメインとして放送された。なお当時の特番では、授業の合い間の「給食」で立食パーティー風の軽食をとる形式をとっていた。国語を得手とする逸見が国語の問題で不正解であると、生徒である高田文夫・渡嘉敷勝男・太平サブローなどに突っ込まれると言う「図式」で、笑いを誘い番組を盛り上げていた。逸見は国語と社会を得手とする一方で、算数を相当苦手としていた。逆に北野は国語を苦手としており、うっかり大ヒントを口走ってしまったり、正解ではないと思ってオープンした解答が、実は正解であったと言うケースが多々あった。国語の授業で、「『くさい』の反対語を答えなさい」(正解:かぐわしい、など)に対して、ラサール石井が「くさくない」と解答。以降、この類いの問題では北野が予め「言っときますけど、『○○らしくない』『○○ない』とか言う答えは駄目ですよ。早めに青少年の非行の芽を摘み取っておかないと」などと、ギャグにすることが恒例化した。「『水』を使った慣用句を答えなさい」との設問で、うっかり逸見が次の問題の解答を言ってしまったことがある。北野が言うには「理科や算数の問題は、答えが1つしかないんですから。あれこれ後から言われても、駄目なものは駄目です!」と、生徒達が答えの導き方や正解を説明されても合点がいかずに駄々をこねる場合に言っている。設問では「理由も併せて答えなさい」と言う例はほとんどないと言ってもよく、たけしもその点を考慮して「答えがあっていればいい」「あてずっぽうでもいいんですよ」とも発言している。前記の様な例を逆手にとり、国語や社会であれこれ言ってくる生徒が多い時には「もうこれからは1時間目から算数の授業にしましょうか」「算数の授業4連発なんかいいですね。ああだこうだ言っていたのが、急におとなしくなりますからね」と、北野が冗談半分で生徒に釘をさす場面もみられた。不正解の解答のレベルや解答した生徒によっては、「ここは笑点やお笑いマンガ道場じゃあないんですから。ウケりゃあいいっていうものじゃないから」と、北野が他テレビ局の番組タイトルを引き合いに出し、嘆くフリをする事があった。視聴者から「シンキングタイムは実際にはオンエアより長いのでは?」と、局に問い合わせがくると言う事があった。それに対して逸見が「実際にオンエアとほぼ同じ時間です。ただし、スタジオ内が一瞬静まりかえる事があります」との裏話をしていた。北野が言うには「算数の解答時間は、逸見君の解答時間が標準です」との事で、逸見が問題を解き終えるかサジを投げた時点で解答時間終了となっていた。1993年3月末にて、「第1期」卒業生を北野と逸見が送り出すことになる。卒業証書授与にて、久々に藤原弘達も登場。卒業生が退席した後、北野と逸見はたそがれる教室でそれまでの労を互いにねぎらい、4月からも頑張りましょうと語り合った。たけし・逸見時代の番組内での面白かった会話などは1994年12月30日に放送された特別番組『たけし大全集'94 〜たけしが愛した101人〜』の中で「たけしの一言」としてダイジェスト紹介されていた。1993年10月に逸見政孝が癌治療のために降板し、しばらくは北野が単独で司会を担当する。その後同年12月より当時同局アナウンサーだった中井美穂が「学級委員長代理」として出演する。しかし復帰の願いも空しく、逸見は同年12月25日に死去。当日19時からは追悼特番が放送された。ちなみに当日は、奇しくも放送日である土曜日であった。当初、この日は当番組を予定したが、1994年1月15日に一部再編集して放送した。逸見死後の最初の放送は、1994年1月8日の「入試直前スペシャル」(19:00〜20:54)。こちらも一部再編集された。逸見の後任として翌1994年1月より中井が正式に「学級委員」に抜擢され、「学級委員長」は逸見のみの永久欠番となった。逸見亡き後も番組タイトルは、しばらくの間『たけし・逸見の平成教育委員会』のままであった。なお、CM入りの際のタイトルテロップからは『たけし・逸見の』という文字は外されていた。1994年8月に北野が交通事故で入院して一時降板したことにより、同年10月から翌1995年2月まで『平成教育委員会 毎回がスペシャル』というタイトルで放送された。北野の代役として、明石家さんま(本名の「杉本高文」名義で出演)、所ジョージ、大橋巨泉などが週替わりで「特別講師」として担当した。また「教育実習生」として、福井謙二や川端健嗣(ともにフジテレビアナウンサー)がサポートするスタイルとなった。また授業も国語や算数といったものではなく、ゼミやコースなど大学のような授業タイトルとなった。このころは、統計の上位数項目を当てる「統計テスト」、幾つかの項目を指定された順番に並べ替える「選択テスト」、表に並べられた文字を拾って指定された言葉を作る「単語テスト」、国語の問題で一部分だけ表示されている状態から四文字熟語を当てる形式の問題等、徐々にクイズ形式の問題が増加していった。また教科ごとの成績優秀者などに与えられるものがたけしおとしから番組特製の懐中時計に代わり、これを10個集めれば海外留学ということになっていたが、この間は出なかった。また、問題ごとの点数は1点から最大10点になった。特別講師が趣味・得意としている分野を題材にしたクイズコーナー『○○ゼミ』(○の部分に講師の苗字が入る)が設けられ、雑学をベースにした問題が出題された。この間の『平成教育委員会』としては、1994年12月17日に生放送『全国○×王決定戦』(「FNSの日」と「平成教育テレビ」で定期的に行なわれていた企画、司会は所が担当)も行なわれた。また翌年の1995年1月7日には杉本が担当した『平成教育委員会 今回が本当のスペシャル』と称したスペシャル版(これまでのスペシャル版同様の2時間編成であるため)、その翌週の1月14日には大橋巨泉が担当した中学受験を間近に控えた小学生向けの2時間スペシャルがそれぞれ放送された。また巨泉が担当したこの回は2部構成になっており、1部は巨泉が担当、2部がラサール石井の進行担当となった。1995年3月4日の放送から北野が復帰し、タイトルが正式に『平成教育委員会』となった。この回の視聴率は35.6%(ビデオリサーチ 関東地区調べ)で、ビデオリサーチ「クイズ・ゲーム」部門の史上高視聴率番組・第6位に記録し、1990年代以降のクイズ番組では最高視聴率である。北野が復帰したこの回は番組開始からすぐにの登場ではなく、所ジョージが進行の下で進められ、番組後半部分に差し掛かったころに北野が笑いをとるための扮装した姿で登場するという形であった、その翌週も所ジョージが進行で北野は解答者として参加する形式で、同年3月18日に晴れて先生へ復帰を果たした(同時に班別コース以外での成績優秀者などに与えられるものとして、たけしおとしが復活)。その翌週放送の春のスペシャルからは、のちの特番でも恒例の「給食」の時間が始まった。北野復帰後も1994年秋以降の構成が継続された。1995年秋頃から1997年1月までは独創力テスト、ひらめきパズル等、クイズ形式のコーナーがメインになっていた。同時に「たけしおとし」は消滅した。主なコーナーは、早抜け形式の頭の体操「IQ早押し(後に回転力テストに変更)」、従来通り授業形式で行われる「北野ゼミ」、答えが複数ある問題が出題されて他の人(北野も含む)と被らない答えを書いていく「独創力テスト」、提示されたテーマに当てはまらない言葉が読み上げられたら目の前のえんぴつのオブジェを素早く奪取する「瞬間判断力テスト」(このコーナーは後に『ロンQ!ハイランド』でリメイクされた)、チームメイトがカズーで吹いた曲を当てる「音楽リレーテスト」、二つの値を3秒以内に比較する「等号・不等号テスト」、漢字のブロックを並べ替えて二文字熟語のしりとりを完成させる「漢字しりとり」、早書きクイズの「ひらめきパズル」などがある。また最大10点から200点(1996年4月の放送時間拡大時には400点)までに変更された(また逆に200点減点の大目玉を食らう生徒もいた。この体制はレギュラー終了まで続いた)。ラサール石井はオープニングに登場せず、10点の問題に正解したものの200点減点の大目玉を食らった。本人によると、本番前に「トイレの大きい方」に行っていて、ラサール不在のままオープニングが始まったという。一時期、ハンデ制が導入され(この時期は得点制だったため)、過去の成績などを元にハンデを設定していた。そのため渡嘉敷は常に500点からのスタートだったが、優勝できなかった。この頃は、本編とは別にエンディングで早抜け方式の問題が1問出題されて、時間内に抜けられなかった生徒は放課後残されるという演出があった。まれに北野も解答に参加することがあり、「瞬間判断力テスト」で優勝したために、最終的に優勝してしまったことも一度あった。1996年10月に3チームの対抗戦(田代班・席は青、ラサール班・席は緑、寿美班・席は赤)になり、10月 - 12月は生徒が12人から9人に減らされた。これに伴い、中井美穂は司会兼業から解答者専任となった。この頃は、レギュラー放送でも「給食」が実施されるようになったが、パズルを解くのではなく、制限時間以内に指定されたテーマの言葉やしりとりを5つ答えていくクイズ形式になっていた(正解したらダッシュして、ベルトコンベアで流されていくプレートを取る。取ったプレートに書かれている人前分の料理が食べられる)。1997年1月に、新たに助手役として小島奈津子(当時フジテレビアナウンサー)が登場。授業も国語や算数といったものに戻され、初期に近い形となる。しかし、以前からのマンネリ化や、裏番組の『筋肉番付』が人気を上げていき、もちろん、『スーパースペシャル』にも負けて、視聴率は低迷していったため、1997年9月に終了することになった。1997年9月27日の最終回では、ラサール石井や清水圭などの優秀な生徒32人が総出演(この時の解答席は青・緑・赤に橙の4色だった)。これまで出題した難問を総復習し、優等生と成績最不良の生徒を決定した。最後に生徒代表として田代まさしとラサール石井が謝辞を読み上げ、出演生徒全員が一人づつ北野に薔薇の花を渡した。北野もこの番組に対して想いが深かったこともあって、感極まり涙を見せた。と見せかけておどけて締めくくった。エンディングでは第1回放送の放課後の映像が流れ、北野と逸見が語り合い、お互いに肩を組んで教室を去っていくシーンで番組を締めくくった。こうして1997年9月にレギュラー放送は終了し、いったん幕を下ろすこととなる。なおこの当時は番組をスペシャル版で継続することまで視野に入れていなかった。レギュラー最終回時点での歴代優等生ベスト5北野も「優秀先生」として一度だけ(無理矢理に)優勝している(その時の生徒トップは奥山佳恵の610点。たけしは1000点)。レギュラー最終回時点での出席回数ベスト5レギュラー最終回時点での正解率ベスト5(最終回出演者のみ)レギュラー最終回時点での正解率ワースト5(最終回出演者のみ)2000年1月3日、主に毎年1月2日に放送された『オールスター爆笑ものまね紅白歌合戦!!』を年末特番に切り替え、代わって視聴者の復活の要望が大きかった『平成教育委員会』が特番として復活。2000年を記念して再び開講された。これが20%近い視聴率だったことから、以降毎年1月3日前後には特別番組が放送された。復活当初の何回かは考え中の音楽、CMアイキャッチ音、エンディング曲などは各時間ごとに「初期→中期→後期」と順番に再現する趣向が行われていたが、やがて全時間、初期のものに統一された。唯一オープニングのみ別のものとなっている。2003年からは夏休み期間中にあたる8月最終日曜日にも、2004年からは5月のゴールデンウィークと11月3日前後にも放送されるようになった。レギュラー番組の『予備校』『学院』とも連動する形での季節ごとの特番として放送されている。なお、助手役はレギュラー放送時代から引き続き小島が担当していたが、2003年8月の夏休みスペシャルからは高島彩(当時フジテレビアナウンサー、2011年1月のフリー転向後も出演を継続)が担当している。さらに小島とは異なり、高島の就任後は助手風の衣装での出演になっている。放送開始から長きに渡ってモノラル放送(モノステレオ放送)の状態であったが、2011年10月のスペシャルよりステレオ放送を実施している。基本的には入試問題から出題するものの、番組オリジナル問題も多い。改編期特別番組では、国語→理科→給食→社会の順に行われることが多い。1時間目は国語であることが恒例となっている。問題は漢字や慣用句に関するものが多い。理科の授業は、物理学の分野から問題が出題されることが多く、化学や生物学や地学の分野が問題になることは少ない。科学的論拠がなくても結果的に正解であればよいので、偶然当たるということも多い。中学程度の物理知識がないと解けない問題もある。5時間目に算数が行われることがあるが、1問しか出題されないため、北野の独断で優等生を決定することが多い。その際、論拠の正確さはあまり考慮されていない。2005年からは通常の書き問題の他にも、国語で早押し形式の問題、社会で3つのヒントから連想される人物や場所を当てる問題といった特殊な問題が出題されることが多くなった(『予備校』『学院』の方でも同様の問題が出題がある)。お正月スペシャルの社会の時間は去年を振り返る「○○年重大ニュース」が恒例となっている。2004年正月スペシャルまでと2005年正月スペシャルには実力テストという筆記試験が行われていた(2009年5月の特番にて復活)。生徒の実力を示すテストであり、本授業の成績には影響しないが、後述の「給食・団体戦」でのスタッフによるチーム編成の資料となる。この結果を基に各チームの力が公平になるように編成された。なお、このテストは問題作成者以外のスタッフも受験しており、最後のエンドロールで点数が発表された。夏休みスペシャルは、北野と高島が課外授業を行うコーナーが毎年恒例となっている。北野扮するおじさんの家に小学生役の高島が遊びに行くというコント仕立てだが、必ず北野が高島に「風呂入ろう」と誘うものの逃げられてしまうというオチがついている。近年は、ロケーション撮影が行われていない。復活以降は各授業の優秀生徒(成績トップになった生徒、複数いる場合は基本的にジャンケンで決定されるが、北野の独断によって決定されることもある)になると、豪華商品(授業にちなんだものであることが多い)が与えられるようになった。また温泉などの旅行がどれか一つの授業に入っていた。しかし、2008年以降に優等生制度が廃止された。さらに最優秀生徒(総合成績でトップになった生徒)には賞状などが贈呈される。副賞は海外旅行だが、2009年5月-2010年10月は以下のとおりになっていた。なお、複数いる場合は優等生の場合に準じる。2012年からは、早押しや筆記式など様々な趣向のテストで生徒(チーム)の数を絞っていき、最後に最優秀生徒を決めるサバイバル方式に内容が改められた。助手の高島が出産による産休に入った2014年は放送がなかったが、産休から復帰後の2015年5月に久しぶりに放送され、その後も2015年10月・2016年1月に放送された。形式も初期のものに近い形式に戻された。正解しないと高級料理が食べられない「給食」も恒例企画となっている。個人戦方式とと4人1班で4班に分かれての判別対抗戦方式の2タイプあり、どちらも早抜け制となっている。個人戦は正解した生徒が過半数の8人正解、班別対抗戦は3班が正解した時点で終了となる。正解できないと“おあずけ”になる。知識を問う問題は少なく、パズル的な問題が多い。2005年正月スペシャル以降は、4班による判別対抗が中心となり、パズル問題に加え以下の企画が行われている。2009年5月のスペシャルでは今までの方針から一変し、全教科終了後に成績順に発表された上位8名のみが獲得できる方式に変更された。一方、敗者は3択クイズに挑戦して正解すれば一品ではあるが食べられるようになっていたが、最終的には不正解だった人も食べることができていた。ただし、不正解者向けには高級食材は使用されていなかった。2010年8月のスペシャルでも全教科終了後に成績順に発表される方式が取られた。全員が獲得できたがA-Fにランク分けされ、ランクごとにグレードが違っていた。2010年11月のスペシャルでは、事前に行われたテストの成績別に料理の質が変わる。また、一問多答問題に正解すれば、成績に関係なく料理を食べることができた。2011年10月のスペシャルでは、恒例企画の「給食」は行われなかった。2012年9月のスペシャル以降は、一次テストと連動しており、勝ち抜けた生徒から給食を配っている別スタジオに移動、順次給食を食べられるシステムになっている。また一次テスト敗者も、給食スタジオに移動して、敗者復活戦を実施(ここで復活した生徒も給食を食べられる)。2013年9月のスペシャルでは、3人一組10チームで各ラウンド毎に脱落チームが発生し、四次ラウンドで3組までに絞った(この時、脱落ルームで勝手に寿司を食べていた生徒がいた。)。給食に登場する店については、番組内で北野が、「美川憲一・うつみ宮土理らと、“おいしいものを食べよう会”という会を作って、そのメンバーで行ったお店だ」と語ったことがある。2005年1月3日のスペシャルの放送の際、北野が「あまりに生徒(解答者)の成績の出来が悪いので、いっそのこと予備校を設立して、そこで優秀な生徒に委員会に出席してもらいたい」ということから、2005年1月16日から『平成教育2005予備校』をスタートさせ、専任講師(司会)としてユースケ・サンタマリアを招くこととなった。2006年10月から『熱血!平成教育学院』に改題、1時間番組に拡大され、2011年4月から9月までは『1年1組 平成教育学院』として再リニューアルを行った。当初は「『予備校』もしくは『学院』での成績優秀者は『教育委員会』の出演を果たし、逆に『教育委員会』で成績の芳しくないものは『予備校』『学院』に送られる」というシステムだったが、次第にそれらの設定は無くなっていった。しかし、『予備校』『学院』の生徒が『教育委員会』に毎回出演しており、出演への足掛かりという点では維持されていた。2016年4月8日深夜未明25時25分〜26時25分には、2016年4月10日に放送される春のSPの前座と称し、『お笑い平成教育委員会 夜間部』が放送された。内容は普通の『平成教育委員会』ではまず出題されないであろう、とてもくだらない問題に芸人達が体を張って解答する。尚セットは通常の『教育委員会』と全く同じ物を二次利用してるが、予算の関係上、映像を見る巨大モニターがセットの葉っぱで隠されている、ネームプレートや出題パネルが手書きのフリップ、解答モニターがスケッチブックに変更されたりと、上記のことを踏まえた形でたけしが「予算がない」等と自虐ネタにしていた。解答者はダンカン、ラッシャー板前、ダチョウ倶楽部(上島竜兵・肥後克広・寺門ジモン)、小峠英二(バイきんぐ)、飯尾和樹(ずん)、永野、平井“ファラオ”光(馬鹿よ貴方は)の9名。助手として山崎夕貴アナウンサーが出演。この番組をきっかけに、司会を務めた北野武と逸見政孝は唯一無二の親友として交友を深め、家族ぐるみでの交流をもっていた。逸見に癌が見つかった際には、北野は全快を祈って酒断ち(逸見の告別式の日まで続いた)をし、お祓いを受けたパジャマを逸見にプレゼントしていた。ワイドショーのインタビューにも北野は「気持ちは直接伝えてある。テレビを通じて気持ちを伝えるほど離れた仲じゃない」とだけ答え、これを聞いた逸見は感激していたという。また逸見が亡くなる直前に家族以外で面会を許された数少ない人物の1人が北野であったという。面会の際の逸見の変わり果てた姿にショックを受けた北野は、それ以降逸見の告別式の日まで仕事をすべてキャンセルしたという。番組最終回の直後の記者会見で北野は、逸見の名を出し「最後まで逸見さんと一緒にやりたかったなぁ…それが心残りです」という言葉で締めくくっている。なお、北野と逸見はこれ以前にも、「オレたちひょうきん族」などでも、何度か共演している。テーマ音楽やCM入りジングル、シンキングタイム(考え中)の楽曲は大島ミチルによるオリジナル。『パロディウスだ!』や『スーパーマリオブラザーズ』、『スーパーマリオワールド』、『熱血硬派くにおくん』、『ウィザードリィ』などレトロゲームのBGMや効果音の使用が多い。2006、2007年に発売されたニンテンドーDSのゲームソフトでも『スーパーマリオブラザーズ3(ファミコン版)』の効果音をほぼそのまま使用している。番組開始時から登場している、番組のマスコットは勉強小僧(べんきょうこぞう)と呼ばれる学生服にメガネ姿の少年を模したキャラクターである。勉強小僧は様々な語彙をもって番組の進行をフォローする。セリフにはいろいろなパターンがあるため、独立項目として列挙する。なお、勉強小僧は発音がはっきりしており、たとえば「必要」の「う」は、通常では「0(オ)」に近い音になるが、「U(ウ)」と発音する。北野は編集後のビデオや放送をあまり見ていなかったため、番組開始から暫くの間、勉強小僧の存在を知らなかった。放映開始から半年以上経過した時に「こないだビデオを観ていて、こいつが勉強小僧か、と知りましたよ」と発言。それまでは「勉強小僧が…」と出席生徒たちが話しているのを聞き、北野が「勉強小僧って何ですか?」と問い返す場面(1992年6月27日放送)があった。レギュラー終了後の特番「2000年正月スペシャル」の際、実際に勉強小僧の姿をした少年が登場、時間ごとの優等生及び最優秀優等生に目録を手渡す役目を担った。勉強小僧のナレーションの中でも、「正解は、CMの後で」というCM予告は、『たけし・逸見』時代によく使用されていたが、同時期の土曜日のクイズ番組である『世界・ふしぎ発見!』(TBS系列)でも同様の台詞が使用されていた(こちらは現在も放送中で、CM予告も従来通り)。視聴者プレゼント用の問題が番組ラストで「宿題」として出題され、また最初期の内容は主に理数系の問題や公務員試験に出されるような問題が多かった。はじめは逸見が前回の宿題の解説及びその回の宿題の出題をしていたが、その解説は「おぼろげながら」と北野が指摘するように、いつもの逸見らしからぬ言動で、解説文を時に大汗をかきながら行うものだった。プロのアナウンサーで「平成教育委員会の学級委員長」を務め、模範的キャラクターとされた逸見が、違った一面をのぞかせるエピソードであった。1992年「学問の秋スペシャル」より、難解な説明を要する宿題の解説にはCGで作成された図や表入り画面とともに、逸見に似せたキャラクターが登場。勉強小僧の「解説政孝く〜ん」の掛け声と共にCGに切り換わって解説するケースがあった。実際の逸見のように解説に詰まる演出も見られた。※現在特番でも流れている「こども天国」以外は全てレギュラー放送時代のみ。※1994年10月~1995年9月まではエンディングテーマを設けなかった。系列は当番組終了時(1997年9月)のもの。
出典:wikipedia
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