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高句麗

高句麗(こうくり、ハングル: 고구려; 朝鮮語発音: Goguryeo [koɡuɾjʌ]: コグリョ、高句麗語:高句麗、紀元前37年 - 668年)は、いまの中国東北部の南部から朝鮮半島北中部にあったツングース系民族による国家。最盛期は満洲南部から朝鮮半島の大部分を領土とした。隋、唐を始めとする中国からの侵攻を度々撃退したが、最終的には唐・新羅の遠征軍により滅ぼされた。高句麗という固有名詞の起源は、漢が設置した玄菟郡の高句驪県に由来する。後漢書高句麗伝には「高句麗侯」があらわれるが、玄菟郡の縮小移転に伴いいくつもの県が放棄された際、現地の土豪を県侯に任じたと推測されている。高句麗は別名を貊(はく)と言う。小河に住んでいるために小水貊と呼ばれる別種が居る。良い弓を産出する。いわゆる「貊弓」である。3世紀における「高句麗・夫余」の2国と沃沮・東濊の2部族は、すべて前漢代の「濊貊」の後裔である。日本では「高麗」と書いても「貊(狛)」と書いても「こま」と読む。日本語での「高句麗」の読みについては現在では高麗との区別による理由から「こうくり」と読む慣習が一般化しているが、本来、百済・新羅の「くだら」・「しらぎ」に対応する日本語での古名は「こま」である。紀元前1世紀中頃から漢の玄菟郡・高句麗県に付属していた支配地域は出費が嵩むため放棄され始め、替わって濊貊系に属する濊族の夫余や貊族の高句麗などを冊封する間接支配へ切り替えられた。高句麗を形成した濊貊系民族とは、中朝国境をはさむ山岳地帯で農耕を主とし、その他に狩猟・牧畜を生業としていた民族とみられる。『魏書』と『三国史記』によれば、高句麗は紀元前37年に夫余の王族である朱蒙(チュモン)により建てられたという。朱蒙の母は東扶余王の金蛙と出会った際に、黄河の神の娘を自称し遊びに出た先で天の子と出会い軟禁されていたと訴えたが、信用されず東扶余王の元に連れて行かれた。やがて娘は太陽の光を浴びて身篭り、卵を産んだ。金蛙は卵を動物に食べさせたり踏ませたりしようとしたが動物や鳥は卵を守ったため卵を母親へ返し、暖めていると朱蒙が産まれた。朱蒙は子供の頃から非常に弓が上手く(朱蒙は弓の名手の意味)、これを危険視した夫余の人々は朱蒙を殺すよう勧めるが王は拒んだ。その後、馬飼いをしていたが策略によって王を駄馬に乗せ自らは駿馬を手に入れると、夫余の人々は再び朱蒙の殺害を企てるが、危険を察知した母の助言により友と共に脱出して卒本へ至って建国したという。卒本は現在の遼寧省本渓市桓仁満族自治県(吉林省との省境近くの鴨緑江の少し北)で、都城の卒本城は五女山山城に比定されている。後漢書高句麗伝によると32年に高句麗は後漢の光武帝に朝貢した際に、光武帝より高句麗王に冊封された。高句麗は次第に四方に勢力を伸ばし特に東南方面へ拡張したが、第8代の伯固(新大王)の時代には遼東へも数度寇掠を働いている。しかし、それにより遼東で割拠していた公孫氏の不興を買い侵攻を招くことになる。197年に第9代の故国川王が死んだ後、王位継承をめぐって発岐と延優(後の10代山上王)との間に争いが起こり、卒本に拠った発岐は公孫度を頼って延優と対立したが、丸都城に拠った延優が王となって発岐の勢力を併呑した。219年、高句麗の政情不安に付け込んだ遼東太守の公孫康が高句麗へ侵攻し、高句麗は敗退して村々が焼かれたほか、伯固の長子拔奇,涓奴加ほか各将が下戸3万余人を引き連れ公孫氏へ降った。高句麗は以前から魏に朝貢を行って臣属しており、司馬懿による公孫氏の平定にも兵数千人を遣わしていたが、魏が公孫氏を平定して国境を接すると、242年に西安平で寇掠を働き魏の将軍による侵攻を招いた。244年に1回目の侵攻が行われ、東川王(位宮)は2万の兵を率いて迎え撃ったが連戦連敗し、丸都城を落とされ千人が斬首された。毌は将兵の墳墓破壊を禁じ捕虜と首都を返還したが高句麗は服属せず、翌245年に再び魏軍の侵攻を招いた。魏軍は南北の2方向から侵攻して高句麗を大いに打ち破り全土の村々を落とすと、東川王は南沃租へ逃げたが更に追撃を受け北方にある粛慎との境いまで逃れた。この戦いにより3千人が捕えられて斬首され、従属させていた東濊も高句麗を離れ魏に服属した。東川王が魏軍が引き上げた後に築城された都を平壌城というが、丸都城の別名または集安市付近の域名であり、後の平壌城とは別のものである。その後も遼東半島への進出を目指し、西晋の八王の乱・五胡の進入などの混乱に乗じて312年に楽浪郡を占拠し、この地にいた漢人を登用することで技術的、制度的な発展も遂げた。しかし、遼西に前燕を建国した鮮卑慕容部のに都を落され、臣従した。355年には前燕から〈征東将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王〉に冊封されている。前燕が前秦に滅ぼされると引き続いて前秦に臣従し、372年には僧侶・仏典・仏像などが伝わった。この間、371年には百済の攻撃に王が戦死する危機に直面する。391年に即位した19代好太王は後燕と戦って遼東に勢力を伸ばし、南に百済を討って一時は首都漢城(現ソウル特別市)のすぐ傍まで迫り、百済王を臣従させた。4世紀末になると倭が朝鮮半島へ進出を始め、391年に倭が百済□□新羅を破り臣民とした。393年に倭が新羅の都を包囲したのをはじめ、たびたび倭が新羅に攻め込む様子が記録されている。百済はいったん高句麗に従属したが、397年、阿シン王の王子腆支を人質として倭に送って国交を結び、399年に倭に服属した。倭の攻撃を受けた新羅は高句麗に救援を求めると、好太王は新羅救援軍の派遣を決定、400年に高句麗軍が新羅へ軍を進めると新羅の都にいた倭軍は任那・加羅へ退き、高句麗軍はこれを追撃した。これにより新羅は朝貢国となった。402年、新羅もまた倭に奈忽王の子未斯欣を人質に送って属国となった。404年、高句麗領帯方界まで攻め込んだ倭軍を高句麗軍が撃退した。405年、倭の人質となっていた百済王子の腆支が、倭の護衛により帰国し百済王に即位した。5世紀、長寿王の時代には朝鮮半島の大部分から遼河以東まで勢力圏を拡大し、当初高句麗系の高雲を天王に戴く北燕と親善関係を結んだ。この時代には領域を南方にも拡げ、平壌城に遷都した。遷都直後は大城山城を拠点としたが、後に平壌城に居城を構えた。長寿王は西へ進出して遼河以東を勢力下に収め、475年には百済の首都を陥落させて百済王を殺害、百済は南に遷都した。この時期は満洲南部、遼東半島、朝鮮半島の大部分を支配するに至った。しかし5世紀末になると百済と新羅が強くなり、百済と新羅の連合により南部の領土を奪われている。危機感を覚えた高句麗は百済に接近し、中国には南北朝の両方に朝貢を行って友好を保ち、新羅との対立を深めていく。高句麗が最も危惧していたのは北朝の勢力であり、その牽制のために南朝や突厥などとも手を結ぶ戦略を採った。中国で北朝系の隋が陳を滅ぼして全土を平定すると、高句麗は隋に対抗するため突厥と結ぶ。このため隋から4次にわたる侵攻を受けたが、乙支文徳の活躍もあってこれらすべて撃退した。隋が滅びて唐が興ると、今度は唐が高句麗遠征を行った。これに備えて淵蓋蘇文はクーデターを起こして宝蔵王を擁立し、軍事政権によって唐の進出に対抗した。高句麗は緒戦で善戦し、唐の太宗が親征した第1次侵攻を撃退、百済と結んで新羅を攻めた。新羅の宗主国である唐はこれを受けて新羅を全面支援した結果、660年には百済が滅亡、663年の白村江の戦いで百済の残存勢力も一掃されたため、高句麗は孤立した。さらに高宗の時代になって唐が戦略を持久戦に転換した結果、高句麗の国力消耗は著しくなり、その上に淵蓋蘇文の死後子の間で内紛が生じると、これを機に唐・新羅連合軍は第3次侵攻を起こして王都平壌を攻め、668年に宝蔵王は投降。ここに高句麗は滅亡した。北部の高句麗遺民は唐によって営州(現在の遼寧省朝陽市)へ強制移住させられた。剣牟岑など高句麗の末裔による数度にわたる再興は全て失敗したが、一部の遺民は、粟末靺鞨の建国した渤海国に参加している。旧領に残った者は、後に勃興した女真の金に取り込まれていき、歴史から姿を消した。一部の遺民は宝蔵王の庶子(あるいは淵蓋蘇文の甥ともいう)の安勝を担いで新羅に入り、新羅から高句麗王(後に報徳王)として冊封され、新羅内で684年まで命脈を保った。また、遺民の一部には倭へ逃れた者もいる。例えば『続日本紀』によれば、武蔵国高麗郡(現在の埼玉県日高市・飯能市)は高句麗の遺民たちを移して設置したとされており。高麗神社・高麗川・日高市高麗本郷などの名にその名残を留めている。朝鮮半島では10世紀初め、新羅の王族の弓裔が高句麗の後継を目指して後高句麗を名乗って挙兵し、新羅北部の大半を占領して独立した。その後、王建が後高句麗(当時は泰封と号していた)を乗っ取り、同じく高句麗の再興を意識した高麗が生まれる。「高麗」は高句麗の時代に実際に用いられていた国号という。日野開三郎は、弓裔の立てた後高句麗国とは別に、唐が現在の遼東半島一帯に旧高句麗王族を擁立して成立させた傀儡政権としての後高句麗国が存在しており、契丹の遼東占領時に滅亡したとする説を唱えている。中国や朝鮮の史書では夫余と同じ民族と記され、その起源伝説の類似点からも、夫余と同じ民族と見られることが多い。史上でも扶余の流民を受け容れていることが記されている。墓制に関しては扶余と高句麗の違いは歴然としているものの、『魏書』百済伝の百済王蓋鹵王の上表文には、「臣と高句麗は源は夫余より出る」(臣與高句麗源出夫餘)とあり、当時の百済人は高句麗人を夫余の同種とみていたことが判る。なお、夫余は他に、沃沮(東沃沮・北沃沮)・濊・百済(王族)など満州南部に広く分布していた。ただし、田中俊明は「高句麗は、みずから扶余の同系と主張しているが、そのまま受け取るのは単純にすぎる。」と述べている。中国の史書によると、高句麗の言語は夫余と同じといい、沃沮と濊もほぼ同じという。夫余・高句麗語が現在のどの系統に属すのかについては古くから論争があり現在に至ってもよく解っていないが、そのいずれであっても現在の朝鮮半島で使われている朝鮮語とは系統が異なっている。 石で築かれた墓(積石塚)と石で築かれた山城が代表的である。高句麗山城は近年、中国や北朝鮮で大量に発見されており、韓国でも高句麗の勢力が及んでいた地域で高句麗式山城がいくつか発見されている。積石塚は高句麗前期の墓制で、後期には土塚即ち横穴式石室をもつ封土墳に移行した。高句麗墓の特徴として華麗な古墳壁画が挙げられる。起源は中国の古墳壁画に求められうるが、すでに前期古墳にもみられるものであり、高句麗独自の風俗や文化を後世に伝えるものとして重要視されている。前期古墳では中国吉林省集安市付近のものが「高句麗前期の都城と古墳」として、後期古墳では朝鮮民主主義人民共和国平壌市・南浦特級市付近のものが「高句麗の古墳遺跡」として、それぞれ世界遺産に登録されている。『三国遺事』『三国史記』によると、仏教は胡人の僧侶の手により高句麗と新羅にもたらされた。372年(前秦・建元7)、前秦の苻堅が高句麗に仏像や経文を送り、高句麗は官史養成のために太学創立、朝鮮半島を支配下に置いていた国家では最も早く仏教を受容した。また『三国史記』高句麗本紀によると、小獣林王の5年(375年)に肖門寺・伊弗蘭寺を創建して順道・阿道らの僧を配したことが朝鮮半島での仏教の始まりと考えられている。既に東晋の僧・支遁(366年没)が高句麗僧に書を送ったことが伝えられており、小獣林王の主導した仏教受容は国家的な取り組みであったことと見られる。5世紀初頭の広開土王の時代には平壌に9ヶ寺の建立が進められた。。神仙信仰はその後、6世紀頃からは道教として支配者層に広まっていったことが、古墳壁画に仙人・天女の描かれることからも窺える。栄留王の7年(624年)には唐に願い出て、『道徳経』などを下賜されるとともに道士の派遣を要請し、高句麗の国内で道教の講義を開いてもいる。また仏教寺院を道観に転じることもあった。高句麗は鴨緑江中流域の中国郡県内に建国し、漢人地域に対する掠奪や侵略で強大化したため、当初から漢文化の影響が強く、匈奴や柔然との関係はそれほど強くはなかった。4世紀、中国が五胡十六国時代に入ると、遼西に興起した鮮卑慕容部が前燕を建国し、高句麗はその攻撃を受けて丸都城を落とされ、臣従するようになった。だが華北に進出した前燕は前秦によって滅ぼされ、。この頃、高句麗はシラムレン河流域の契丹や北部満洲の黒水靺鞨にも勢力を延ばしている。また北燕の天王には養子となった高句麗人が擁立されたこともあった。5世紀初頭から中国の北魏に貢女していた。6世紀に入ってモンゴル高原に突厥が興起すると対立関係が生じた。『三国史記』には突厥が高句麗の新城を攻撃した記事が見え、突厥の「ビルゲ可汗碑」にも初代突厥可汗が東方のボクリ可汗を攻撃した記事がみえる。しかし隋が中国を統一すると巧妙な外交で突厥を分裂させ、一部の契丹や靺鞨が隋に帰付するようになると、高句麗と隋の関係が緊張し、高句麗嬰陽王が隋の営州を攻撃して戦争に発展した。やがて突厥が復興の兆しを見せると、高句麗は対隋戦略の必要から突厥に接近した。だが高句麗と突厥の通好は隋の疑心を招き、煬帝の大遠征に発展した。隋は高句麗を征服することができず、かえって国内の叛乱によって滅ぶ。突厥はこの機会に乗じて再び勢いを盛り返した。その後、高句麗が唐に滅ぼされると、突厥に亡命した高句麗人もいた。長野県には大室古墳群や針塚古墳に代表されるように、5世紀から6世紀にかけての高句麗式積石塚が分布し、東京都狛江市の亀塚古墳も高句麗式とみなされる(しかし、亀塚古墳は渡来系による造営ではないことが証明されている)。また狛、巨麻の古代地名は以下の例のように近畿、関東に分布する。4世紀末から5世紀にかけて、高句麗は倭(日本)と敵対関係にあったので、当時の高句麗人が自発的に移住してきたのか戦争捕虜であったのかは不明である。この時期の高句麗が倭と敵対したことを示すものとして、宋の順帝に対して、478年に倭王武が上表した「而句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大舉奄喪父兄使垂成之功不獲一簣居在諒闇不動兵甲是以偃息未捷至」との文言点からも裏付けられる。6世紀になって百済と高句麗の関係が改善するにつれて倭と高句麗との関係も友好的なものとなり、相互の通好も行われた。570年に北陸に漂流した高句麗人が「烏羽之表」を携えており、これが正式な国書であると王辰爾によって解読され、初めて国交が開かれたと伝えられる。7世紀前半までの高句麗と倭との国交は文化的な交流に限定されており、特に仏僧の活躍が目立つ。595年に来朝し、後に聖徳太子の師となった恵慈、610年に来朝した碾磑(みずうす)を製法を伝えたという曇徴は有名である。7世紀後半には文化交流に留まらず、伊梨柯須弥(イリ・カスミ、通常淵蓋蘇文と表記)のクーデターを伝えてもおり、政治的な関わりをもつようになった。668年に高句麗が滅亡すると倭に亡命してきた高句麗人もあり、716年には武蔵国に高麗郡が建郡された。高麗郡大領となる高麗若光には705年に王(こきし)の姓が贈られており、高句麗王族だと推測される。高麗郡高麗郷の地である埼玉県日高市にはこの高麗王若光を祭る高麗神社が今も鎮座する。ほかにも『新撰姓氏録』には以下のような高句麗系氏族が見られる。『宋書』夷蛮伝、『隋書』東夷伝、三国史記高句麗本紀では、高句麗の王族の姓を「高」(こう/カウ)としている。高句麗の王は中国史書には長らく名だけで現われており、「高」姓とともに記録に残ったのは『宋書』における長寿王が最初である。長寿王以後は「高句麗王・高璉」というように中国式の姓名表記がなされるようになり、それ以前にはおそらく姓は無かった。三国史記では建国当初は高姓ではなく、5代慕本王までは夫余の氏族名である「解」(かい/ケ)を本姓としている。高姓の由来としては、早くから中華文明に接触していた高句麗が高陽氏の苗裔として高氏とする付会を行なったとする見解や、元は高姓であった北燕王慕容雲との同族関係の確認によるものとする意見がある。『後漢書』高句麗伝によると、高句麗には五族(消奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部)と呼ばれる有力な地縁的集団があった。王は消奴部(後に桂婁部)から立てられ、王妃は絶奴部から出されていた。 。2世紀末、故国川王の死後の発岐・延優(後の山上王)の兄弟争いに公孫氏が介入したことにより、高句麗の本拠地が丸都城(集安市)に移ると、基盤となる地域からの移動のために五族の力が薄れていく契機となった。3世紀前半の東川王の時代には魏の攻撃を受けて逃亡した王を支えたのは直属の五部であり、王都を回復した後の褒賞は五族には与えられず、五部にのみ与えられることとなった。平壌に遷都した後は五族は内・東・西・南・北(或いは黄・前・後・左・右)の五部に改称された。 。この後に五部は高句麗の王都付近及び地方の軍政・行政のための区画となった。高句麗の滅亡時点では五部の下に176城があったといい、部の長官を褥薩、部の配下にある城主を道使といった。これらの王都の区画の制度は高麗の五部坊里、李氏朝鮮の五部へと受け継がれた。『三国史記』によれば、古くは左輔・右輔の官名が最高位のもので、百済でも同様に左輔・右輔が最高位の官名だった。高句麗では第8代新大王のときにその上に国相という官を新設し、王の即位に功績のあった明臨答夫が初めてその位についた。『三国志』や『後漢書』などの表記・序列に異同はあるものの、3世紀には次の10階の官制が整っていたものと考えられている。ただし相加・対盧・沛者・古鄒加は五族の有力者が称したものであり、必ずしも王権の下に一元化された官制だったわけではないと考えられている。『隋書』や『新唐書』に見られる官位名も異同が著しいが、いずれも12階となっている。第15代の美川王(在位:300年-331年)の時代になって、次のような王権の下に一元下された13階の官制に整備されたと考えられている。高句麗の末期に大対盧の位にあった淵蓋蘇文はクーデターを起こし、莫離支(ばくりし)の位に就いて専権を振るった。莫離支そのものの名称は『三国史記』職官志では『新唐書』を引いて12階のうちの最下位の古雛大加の別名としている(ただし『新唐書』高麗伝にはそのような記載はない)。高句麗は、様々な異種族や亡命中国人集団などを含む複雑な社会であったが、中国と韓国との間で高句麗はどちらの歴史に帰属するかについての論争が起きている(北朝鮮も参加しているが韓国ほどには積極的でない)。1980年代に中国における高句麗の研究が積極的になり、高句麗を中国史の一部とみなす見解が増え始め、首都が国内城から平壌に移った427年を境に、それ以前を中国史、以後を朝鮮史とする「一史両用論」が学会では主流となった。その後、中国での研究が進み、90年代中頃になると「一史両用論」から、「高句麗を全面的に中国史の一部」との見解が優勢となり、2002年には中国社会科学院による中国東北部の歴史研究プロジェクト「東北工程」が本格的に開始され、2003年末頃に「高句麗は古代中国にいた少数民族である夫余人の一部が興した政権」であり、「高句麗は中国の一部であり自国の地方政権である」との見解が中国国外に知れ渡ることになった。高句麗人はツングースに属するとみられ、韓系である新羅人とは別系統の言語を話した。一般的に現在の朝鮮語の祖語は新羅語と考えられている。このことから言語をもって民族の基準とすると、朝鮮民族を形成していった主流は新羅人であると考えられ、現代の韓国・北朝鮮の祖とみなされる新羅と高句麗とでは民族的・言語的に隔たりがあり(金芳漢著・大林直樹訳『韓国語の系統』)、高句麗を現在の韓国・北朝鮮へ連続する国家と見なす充分な根拠がない。矢木毅は、朝鮮北西部の箕子朝鮮・衛氏朝鮮などが楽浪郡の支配を受け、箕子の末裔意識を有したまま漢人との同化が進む一方、北から高句麗が朝鮮に勢力を伸ばし、313年に楽浪郡を滅ぼして朝鮮北部を領有してさらに南下の構えを示すと、南の韓族もそれに対抗して国家形成を進めたが、それが新羅と百済であり、百済は高句麗に対抗するために高句麗の建国説話に百済の建国説話をつなぎ合わせ、高句麗と同様に自らを扶余の系統に位置づけた。最終的に新羅が朝鮮初の統一国家となり、「朝鮮民族の歴史的・民族的な枠組みを定めた真に画期的な出来事であり、それによって今日につながる韓国・朝鮮の人々の『民族』としての枠組みがはじめて確立したといっても、決して過言ではないであろう。」と述べる。朝鮮を一つのまとまりとする国家や社会が成立したのは新羅の統一以後であり、朝鮮史は南の韓族による北進の歴史であり、現在の韓国の歴史学界が自明視する韓民族(朝鮮民族)という概念は、新羅の統一以後に段階的に形成されていった歴史的産物であり、高句麗にそのまま適用できない。それゆえ高句麗は「中国史」か「朝鮮史」かという二者択一は、「近代国家成立以前の領域に近代国家の領域観を押し付ける、極めて不毛な論争」と断じる。不毛な論争を止揚するために、民族意識・領域意識が不変のものではなく、変わり行くものであり、一国史的観点からの脱却を唱える。高麗を建国した王建は、朝鮮の統一を進めるために女真人から安定的に馬を入手する必要があり、女真人の馬の貢納を促すために自ら高句麗の継承者を標榜し、高句麗にならって国号を高麗とし、北進政策を推進する。しかし、高句麗・高句麗人継承意識は高麗だけでなく渤海人や女真人にも受け継がれていた。「国初以来の『北進政策』によって、高麗の領域はひとまず鴨緑江下流域にまで北上したが、それは当時の渤海人・女真人の目からみれば、あくまでも『新羅』が高句麗の旧領を侵蝕していく過程にすぎなかったのである。」と述べる。19世紀後半になると朝鮮人が間島や沿海州などに移り住むようになり、朝鮮が清に対して間島の領有権を主張する。1885年と1887年に朝鮮は清と国境画定の談判を行うが、領有権主張は受け入れられなかった。大韓帝国は、再び間島の領有を目指すが、日本による外交権接収によってその計画は頓挫した。1909年の日清間における間島協約や1962年の中朝間における中朝辺界条約においても間島に対する領有権主張は受け入れられず、これに対する不満は、国境画定に直接関与できなかった南側の韓国で顕著であり、このような不満が中国と韓国による高句麗論争の素地になった。金光林や井上直樹は両国の論争について、一国史的観点から脱却して東アジア史として捉えていく必要性があると述べている。また金は、高句麗は複数の民族・種族から構成された多民族国家であり、高句麗の故地の大半は唐が支配し、一部を新羅が支配した。高句麗人は唐によって中国内地へ移住させられ唐に吸収されたが、一部は新羅に吸収された。しかし、多くの高句麗人が故地に残り渤海・遼・金などの諸王朝に吸収され高句麗人を継承した。中国の研究者が高句麗の「中国史」への編入を強調するのは、高句麗の故地が現代の中国に存在しており、高句麗人の多くが中国の民族に吸収されたこと、韓国・北朝鮮の学界が古朝鮮の領域を中国東北にまで拡大していることからくる中国東北に領土的野心を持っているという警戒感、現代の領土を統合する中国の多民族一体論が挙げられる。一方、韓国と北朝鮮にも過剰な民族主義史学観、単一民族国家観が存在しており、韓国と北朝鮮において高句麗を中国との独立性を強調するあまり高句麗が中国の歴代王朝と密接に交流していた事実を軽視するのも問題とする。田中俊明によると、3世紀朝鮮半島の高句麗・沃沮・濊・韓の諸民族が併存しているの様相だけでも、朝鮮半島内の民族が同一民族とは考えられず、そのような意識も存在しなかったという。特に高句麗と韓は、およそ同種とは考えにくく、百済には、始祖が高句麗王から分派した、高句麗と同じ扶余から出た、という百済・高句麗の同源・同族意識を主張しているが、それを歴史的事実とする必要はなく、百済は韓族であり、高句麗とは異民族であり、例えば、広開土王碑には、百済から獲得した領土や人民を「新来の韓濊」と記述しており、高句麗は百済を韓族と認識していた。高句麗による民族識別は晋代にも残り、中国からの「晋率善濊伯長印」「晋率善高句麗仟長印」の印面を拒否しなかったこと、高句麗が扶余を領土を奪取した際に、「北扶余守事」を派遣したことから、高句麗による扶余支配は異民族統治であったという。また、中原高句麗碑には、新羅を東夷と表現しており、新羅王は寐錦の王号で称され、百済王は主と称されており、広開土王が自らの陵を韓・濊から徴発して守らせるように遺言しており、高句麗王の世界観では、新羅・百済を同族と意識することはなかったという。一方、広開土王碑には、百済・新羅・伽耶・東扶余と倭・稗麗が区別されていることを以て、高句麗と百済・新羅・伽耶・東扶余を同族と認識していたという主張があるが、区別自体が明確ではなく、それが同族認識とどのように関連するのか分からず、分かるのは高句麗が百済を異民族の韓族と認識して属民とみなす認識だけであるという。外山軍治と礪波護は、高句麗は満州東部から朝鮮半島北東部に移動した貊族の一種であり、その貊族はツングースであるため「半島の南西部を領した百済、東南部を領した新羅と半島を三分しているが、高句麗は他の二国のように朝鮮民族の国ではない。」と述べている。そして、先住地はもっと西南方であり、その住地の関係から「蒙古系遊牧民の混血」が生じたとしている。室谷克実は、中国の史書は「春秋の筆法」が基本で当たり前のことは書いていないため、「(中国の史書には)高句麗などのツングース系民族と韓族との間には、比較の記述がない。(民族が)違うことが大前提であり、わざわざ違うとは書いていない」と述べている。東京大学社会科学研究所のグレゴリー・ノーブル教授は、「中国が高句麗を歴史的に中国の一部としたことに韓国が猛反発したものだが、高句麗が中国の文明との深い交流のなかから生まれてきたことを考えると、中国側の見方に根拠がないわけではない」と述べている。黄文雄は著書で、「満州族の先祖が築いた高句麗と渤海」との見出しで、「高句麗の主要民族は満州族の一種(中略)現在の中国の少数民族の一つ、満州族の祖先である」としている。黄は、「ひるがえって、満州史の立場から見れば、3世紀から10世紀にかけて東満州から沿海州、朝鮮半島北部に建てられた独自の国家が高句麗(?~668年)と、その高句麗を再興した渤海(698~926年)である」と高句麗を満州史としている。武光誠は、「高句麗は騎馬民族の流れをひく国である。かれらは中央アジアと共通の文化をもっており、高句麗の支配層は満州族であった。のちに清朝を立てる人びとと高句麗とは系譜的につながっている。満州族は、あるときは中国の支配下におかれ、あるときは渤海、遼などの独自の王朝のもとにまとまり、近代にいたった。」と記述している。松本雅明は、「満州族(夫餘の一派)が独立して、高句麗を建国した。」「その王族は夫餘高句麗と同じく満州族」「北部から北朝鮮にかけて、満州族の高句麗がおこり」と記述している。奈良本辰也編集『日本歴史大辞典 第19巻』河出書房、40頁、1959年には、「北方鴨緑江流域から南下しきた高句麗(満州族)のために滅ぼされた。」との記述がある。藤田亮策は、「満州族たる高句麗人の馳駆する」「其文化は漢、晋、六朝の夫れをうけ高句麗は満州人によって建てられた最初の大国である。」と記述している。夏川賀央は、「中国国東北部に住んでいた女真族は、朝鮮半島の高句麗や、満州の渤海、華北に進出した金など、たびたび国家を建国してきました。」と記述している。倉山満は、「満州で建国した古朝鮮を受け継いだ高句麗と渤海は満州を支配した東アジア最大の国家だった(申瀅植『梨花女子大学コリア文化叢書 韓国史入門』p4)」とお国自慢をしているが、現在の北朝鮮の領域の先祖であるかつての朝鮮北部と満州を支配した民族がKorea民族なのかは疑問であり、高句麗は朝鮮北部と満州を領域としており、満・韓・漢のどの民族であるかなど完全に区切ることはできず、「韓国人は平気で、高句麗や渤海を朝鮮民族に分類し、日本人も言われるままに信じています。しかし、高句麗も渤海も満州人です。より正確に言えば、満州から現在の極東ロシアや北朝鮮までに広がって混住・混在・混血している人たちです。少なくとも純粋Korea人でないことだけは確かです。中韓の間で、高句麗は中国か朝鮮かという歴史論争がありますが、どちらでもないが正解です。今我々が住んでいるところに昔住んでいた人たちの領土は、我々のものだという思想を、ナチズムと言います。現在の国境からさかのぼって過去の歴史を考えてはなりません。」と記述している。中国の主張韓国の主張北朝鮮は2000年頃から、平壌市と南浦市に所在する高句麗後期の遺跡の世界遺産登録を働きかけていた(高句麗古墳群)。2003年には登録される見込みであったが、中国も吉林省集安市を中心に分布する高句麗前期の遺跡の登録申請を行った(高句麗前期の都城と古墳)。この経緯によって、両遺跡は2004年に同時登録という形で決着をみた。

出典:wikipedia

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