雍仁親王妃勢津子(やすひとしんのうひ せつこ、1909年(明治42年)9月9日 - 1995年(平成7年)8月25日)は、日本の皇族で、秩父宮雍仁親王の妃。旧名は松平節子(まつだいら せつこ)。身位は親王妃。お印は菊(きく)。成婚に際し、雍仁親王の実母である貞明皇后の名「節子(さだこ)」の同字を避け(避諱)、皇室ゆかりの伊勢と会津松平家ゆかりの会津から一字ずつ取り、同音異字の勢津子に改めた。旧会津藩主・松平容保の六男で外交官の松平恆雄の長女。母は鍋島直大(侯爵、佐賀藩11代藩主)の娘・信子。父の任地イギリスのロンドンで生まれる。生後数か月で帰国し、その後北京、天津、ワシントンの領事館・大使館で少女期を過ごす。1928年、米国ワシントンD.C.のフレンドスクール(現シドウェル・フレンズ・スクール)を卒業する。いわゆる帰国子女で、英語に堪能なだけでなく、外国人を前にした英語のスピーチはお手のものだったという。女子学習院初等科3年の時、伯爵・樺山愛輔の次女・正子と同級生となり、以後2人は生涯の友となった。 正子によれば、勢津子は物事に寛容で、勉学に励む人であったという。 両家は仲が良く、愛輔はのちに貞明皇后の内意を受けて、雍仁親王と勢津子の婚姻を取り持った。1928年(昭和3年)9月28日、昭和天皇の皇弟・秩父宮雍仁親王との婚儀が行われる。当時の皇室典範では、皇族の妃は皇族もしくは華族である必要があったが、勢津子妃の父・恆雄の身分は平民であった。父の族籍のままでは皇族へ嫁ぐことができなかったため、一旦叔父・松平保男(子爵、海軍少将)の養女となり、華族としての身分を得てから婚儀に臨んだ。「逆賊」「朝敵」の領袖である松平容保の孫にあたる勢津子妃の皇室への入輿は、旧会津藩の士族の徹底的な復権に繋がり、当然会津人の感激は並ならぬものであったという。大正天皇の4皇子(昭和天皇・雍仁親王・高松宮宣仁親王・三笠宮崇仁親王)のうち、三笠宮妃百合子を除く3親王妃(香淳皇后・勢津子・高松宮妃喜久子)は、いずれも大物佐幕派(久邇宮朝彦親王・松平容保・徳川慶喜)の孫であり、本人たちもそれを笑い話にしていたと言われる。婚姻には、皇太后(貞明皇后)の意向が大きかったとされる。1939年(昭和14年)に香淳皇后の令旨により、勢津子妃を総裁とする結核予防会が設立される。しかし皮肉にも翌年、雍仁親王が結核を発病する。総裁就任にあたり結核について学び、雍仁親王の様子が結核の初期症状に似ていることに気づくが、医師の診断でもなかなか断定は出来ず、発見が遅れた。翌1941年(昭和16年)より雍仁親王の療養のため御殿場で生活を送り、ここで終戦を迎える。夫・雍仁親王の代わりに公務を務めたり、看病をするも、雍仁親王が1953年(昭和28年)1月4日に肺結核で薨去する。残された勢津子は、結核予防会総裁を長年にわたり務め、1957年(昭和32年)には秩父宮記念診療所を開設した。その後も一人で宮家を守り続けるが、1995年(平成7年)8月25日に85歳で薨去した。豊島岡墓地の雍仁親王と同じ墓所に葬られた。秩父宮は勢津子の薨去により絶家となった。遺言により、1996年(平成8年)に御殿場別邸が御殿場市へ遺贈され、整備されて2003年(平成15年)に秩父宮記念公園として開園した。また、秩父宮家の遺品の多くは、皇居内にある三の丸尚蔵館に寄贈されている。東京銀行会長の任にあった実兄・松平一郎は、徳川宗家第17代当主・家正の娘・豊子を妻に迎えた。実子の一人が、徳川宗家第18代当主・徳川恒孝である。義姉妹の高松宮妃喜久子とは、四従姉妹でもある(勢津子の祖父・松平容保と喜久子の祖父・徳川慶喜が又従兄弟同士であるため。容保の祖父・松平義和と慶喜の祖父・徳川治紀が兄弟)。
出典:wikipedia
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