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楳図かずお

楳図 かずお(うめず かずお、本名:楳図一雄、1936年9月3日 - )は、日本の漫画家・タレント・作詞家。和歌山県伊都郡高野町に生まれ、奈良県五條市に育つ。血液型はO型。初期には山路 一雄やウメヅ カズヲの名義による作品もある。1955年に貸本漫画家としてデビュー、『週刊少年サンデー』などに作品を発表。代表作に『漂流教室』『まことちゃん』『わたしは真悟』など。作品は恐怖ものからSF、ギャグもの、時代劇まで、少年もの、少女もの、青年ものを問わず幅広いが、一般にはホラー漫画の第一人者として知られる。1995年以降、腱鞘炎などといった理由で漫画は休筆中で、現在はタレント活動を精力的に行っている。東京都武蔵野市吉祥寺南町に住居兼オフィスを構える。1936年9月3日、和歌山県伊都郡高野町に生まれる。戸籍上では9月25日生まれだが、これは母・市恵の誕生日4月25日(1907年)の日に合わせて登録したものだという。本籍地は奈良県五條市だが、父方は一族全部が教員という家系であり、父・公雄も小学校教員をしていたため、幼少期は奈良県の山間部の僻村を転々とした。高野町で生まれたのは、出産の便宜のため。なお、父は囲碁が好きで囲碁大会に奈良県代表としてしばしば出場し、高島忠夫の父とは囲碁友達だった。尚、楳図家の祖先については、(かずおの)曽祖父より前の世代の親族が奈良県外から来たらしいということしか分かっていない。3歳から6歳までは奈良県宇陀郡曽爾村で過ごし、父から地元の伝説や民話を聞かされて育つ。6歳からは五條市に住し、東京に出る27歳(1963年)までそこで過ごす。ちなみに、五條市に隣接する和歌山県橋本市は、楳図青年の散歩コースでもあり、橋本市の広報誌に4コママンガ『オテンバ日記』を載せたり(1956年)、橋本駅前に『まことちゃん』の像が建てられたり(2002年)と、縁がある。1947年、小学5年生の時、手塚治虫の『新宝島』を読み、漫画家になることを決意する。初めは手塚を模倣して描いていたが、プロを意識しはじめた中学生時代に手塚調を廃し、初山滋や武井武雄など童画家の影響による作風で漫画を描きはじめ、神戸の「改漫クラブ」、青森の「少年少女漫画ルーム」など複数の同人サークルで積極的に活動する。中学時代は『漫画少年』にたびたび投稿していたがなかなか採用されず、往復マンガが一度載ったのを最後に同誌への投稿をやめ、『譚海』や『漫画と読物』などに作品を発表していた。奈良県立五條高等学校在学中は音楽と美術以外に好きな学科は全くなく、授業中には漫画を描いていた。1955年、五條高校卒業。親の言いつけで奈良学芸大学(現・奈良教育大学)を受験したが失敗。同年、『森の兄妹』(6月刊。山路一雄名義)、『別世界』(9月刊。共にトモブック社)でプロデビュー。前者は「改漫クラブ」の文通相手だった水谷武子との共作で『ヘンゼルとグレーテル』の漫画化、後者は太古の地球に舞台を取った壮大な叙事詩的SF作品。以後、貸本漫画を多く発表し人気作家となる。1961年、貸本短編誌『虹』29号に発表した「口が耳までさける時」において「恐怖マンガ」という言葉を作った。1963年8月、同じ大阪貸本漫画家の先輩である佐藤まさあきに誘われて上京。池袋にある佐藤の事務所に居候として3年間住む。以後、目白、高田馬場を経て、吉祥寺(現在)に住す。このころ本格的に俳優を志し、年齢を下に詐称して劇団ひまわりの青年部に入り、『兵隊やくざ』(大映、1965年)や太田博之の映画やNHKの朝の連続ドラマに出演したこともあるが、劇団の上層部の人間から宗教への入信を勧められたのに嫌気が差して退団した。また、当時俳優志望だった久保新二と同居して毎晩ひとつの布団で寝ていたこともある。ただし久保によると「といっても、乳くり合ってたワケじゃないぞ。オレはもちろん、その頃からナヨナヨして奇抜な服着てた楳図もホモじゃねえから」という。1966年、講談社の少女漫画誌『週刊少女フレンド』に連載した「ねこ目の少女」「へび少女」等がヒットし、恐怖マンガ家として全国的に知られるようになる。この後、『週刊少年マガジン』(講談社)、『週刊少年キング』(少年画報社)等などでは少年向けのSF作品、「猫目小僧」など恐怖ものを連載。最も多忙な時期で月刊誌・週刊誌あわせて5本の連載作品を持っていた。1971年、主たる作品発表の場を、『週刊少年サンデー』(小学館)にしぼる。1975年、『漂流教室』ほか一連の作品で第20回小学館漫画賞受賞。同年、自作自演のLP『闇のアルバム』(CBSソニー)を発表。また、この後、ギャグ作品「まことちゃん」の連載とあいまって、バンド活動を展開する。作詞家として、郷ひろみや近田春夫の楽曲の作詞を手がけたこともある。1982年、「わたしは真悟」を小学館『ビッグコミックスピリッツ』に連載開始。これに伴い、主たる作品発表の場を同誌に移す。1995年に完結した『14歳』以後、漫画は休筆中。理由には長年の執筆による腱鞘炎が悪化したことと、「14歳」連載時、新任編集者に、ゲンコツを描いた紙を持ってこられ「手はこう描くんですよ」と言われたとされることから始まる小学館との関係の悪化が挙げられる。小学館との関係は、その後、かつてスピリッツでの担当編集者であった江上英樹が編集長である『月刊IKKI』等が代表作を復刻刊行する等にとどまっている。休筆以降、現在まで、テレビ・雑誌等で活発なタレント活動を行っており、その明るくサービス精神にあふれたキャラクターを元気一杯に披露している。20代前半の頃より好んで着ている赤白のボーダー柄の服がトレードマークである。2005年の映画『楳図かずお恐怖劇場』シリーズの公開に伴い、絶版作品の復刻もあいまって、若い女性ファンを中心に現在もファンを増やし続けている。2014年9月17日公開の長編ホラー映画「マザー」は、楳図初の監督作品となる。脚本も楳図で出演もしている。自叙伝の出版が決まった楳図と編集者の周辺に怪奇現象が続出するが、亡き母の怨念がそこにあったことを知るというストーリーで、片岡愛之助が楳図を演じる。母親役の真行寺君枝、編集者役に舞羽美海なども出演。映画の完成披露会見では、前年の2013年に転倒して頭部を打ったことから慢性硬膜下血腫で8月と9月の2回にわたり手術を受け、右頭部で190cc、左頭部で250ccの血を抜き、その直後に撮影をしたことなどを明らかにした。クリエーターや芸能人にも数多くの信奉者、フォロワーが存在する。推理小説作家の綾辻行人は楳図を「神」と称して尊敬し、『わたしは真悟』は1頁目から泣いて読むと言う。漫画家の山咲トオルやタレントの中川翔子など、そのイラストにおいて楳図の作風に影響を受けたものが多数ある(中川翔子は『ダウンタウンDX』で楳図と共演した際、前述のように「神のような存在」と発言した)。また、漫画家児嶋都は楳図タッチでのギャグ・ホラー漫画を描いている。シンガーソングライターのルルティアは2005年公開の映画『楳図かずお恐怖劇場』の音楽を担当し、そのサウンドトラックアルバム『楳図かずお恐怖劇場 ルルティア・トラックス』を発表した。同じくシンガーソングライターの柴田淳も2008年公開の映画『おろち』の主題歌「愛をする人」を担当した。また、コメディ・ギャグ要素を含む漫画やアニメにおいて、恐怖に戦慄する登場人物の表情が、突然その作品本来の絵柄から逸脱して楳図調のタッチになってしまうというパロディは非常に広範に用いられており、近年では『妖怪ウォッチ』でネタにされている。また、漫画そのものがネタにされることもあり、『ドラえもん』の『主役はめこみ機』のエピソードではまことちゃんの顔が野比のび太に変わるという設定が使われた。なお、『妖怪伝 猫目小僧』(静止画アニメ)はテレビドラマ化作品に記述ほか多数

出典:wikipedia

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