中野(なかの)は、東京都中野区の町名。現行行政地名は中野一丁目から六丁目。中野駅前を中心に繁華街・オフィス街が形成され、秋葉原に次ぐオタク・アイドルの聖地として知られる一方、閑静な住宅地も広がる。現在、駅周辺では大規模な再開発が進められており、2012年には中野四季の都市が街開きしている。中野区中央部に位置する。中野区役所・サンプラザ・サンモール・中野ブロードウェイ・中野駅前の繁華街などがある。東部は中野区東中野、南部は大久保通りを境に中央になる。北部は早稲田通りを境に新井・野方・上高田と接し、西部は杉並区高円寺南・高円寺北に接する。中野駅はJR中央線快速、中央・総武緩行線、東京メトロ東西線が乗り入れるターミナルで、2014年度の一日乗車人員は140,587人と、JR東日本の管轄内で19番目に多い。中野駅前を中野通りが縦貫し、沿道に中高層建築が立ち並ぶ一方、駅周辺以外は住宅街となっている。いわゆる木賃ベルト地帯の一角であり、木造の賃貸物件で一人暮らしをしている若年層の住民も見られる。なお、駅北口および警察大学校跡地を中心に大規模な再開発事業が行われており、一部が2012年に中野四季の都市(なかのしきのまち)としてオープンした。駅南口でも2011年には丸井中野本店がリニューアル、2012年には中野ツインマークタワーが竣工するなど、街並みが変貌しつつある。中野駅周辺の昼間人口は再開発前より約2万人増加した。これにより2013年度の駅利用者数は前年より10.8%増加した。2015年1月1日の公示地価によれば、住宅地の地価は中野3-23-46の地点(中野駅から約500m離れた「中規模以上の住宅の多い閑静な住宅地域」)で665,000(円/m²)である。なお、鑑定評価書によれば、当該地域は、「利便性の高さも兼ね備える高級住宅エリアで、区画整然と邸宅が建ち並び、優良な住環境を形成している」地域であるとされる。また、2014年7月1日の都道府県地価調査によれば、商業地の地価は中野5-64-9の地点(中野駅から約70m)で3,000,000(円/m²)である。上記をはじめとする商業ランドマークが存在するほか、中野駅徒歩数分程度の狭い範囲に多数の商店街が集中している。特に駅北口東側は城西地域・中央線沿線屈指の繁華街であり、駅周辺の半径500mに小売事業所数304件、飲食店事業所数220件が集積する。中野ブロードウェイをはじめサブカル関連産業の集積が顕著であり、また、声優やももいろクローバーZなどのアイドルグループが中野サンプラザなどでイベントを開催することからオタク・アイドルの「聖地」として高名であり、「西の秋葉原」の異名を持つ。駅近辺ではアニメやコスプレ関連のイベントが頻繁に開かれている。2007年の中野駅から半径1km圏内の小売業年間商品販売額は1188億0905万円である。このうち「中野駅南口」は「ファッション関係の店舗の年間商品販売額の割合が高い商業集積地区」の中で、285億300万円の年間商品販売額(都内12位)を誇り、「中野駅北口」は秋葉原と同じ「何にも特化し難い商業集積地区」で505億3600万円(同9位)を記録している一方で性風俗産業などの集積は同規模の商業地である錦糸町、五反田などと比較してほとんど進んでおらず、ほぼ純粋な飲食店街を形成している。主な商店街駅北口南口駅周辺は商業地が中心だが、少し離れると閑静な住宅地である。住宅地の少ない中野四丁目を除けば人口密度は高いが、新宿まで一駅と都心にもほど近く、閑静で犯罪発生率も低いため人気のある住宅地となっており、「住みたい街ランキング」、「住んでよかった街ランキング」で共に1位を付けている。現在の中野区一帯は武蔵野の中央に位置することから「中野」と呼ばれるようになった。こうして誕生した中野村に1889年に中野駅(当時の甲武鉄道)が開業したことから「中野駅前」という町丁が誕生、住居表示の際、周辺とともに「中野」に改められた。徳川綱吉が発布した生類憐れみの令に関連して、1695年、囲町地区(現・中野四丁目)などに、野犬を収容し世話するための大規模な犬屋敷が設置された。医者や役人が配備された計5つの囲いの中に、最盛期には10~30万頭がいたとされ、当地に集落が形成され、「囲町」の名前の由来となった(当時の中野村の中心地は青梅街道に面した現在の本町にあたる地域だった。)。また、徳川吉宗の時代には旧・桃園町域(現・中野三丁目)に桃の花の名所が作られ、地名の由来となった。江戸後期には一般庶民も花見に訪れるようになり、隅田川や飛鳥山の桜と併せて現代の花見のルーツとされる。その他の地域では畑作と、製粉、味噌・醤油醸造などの食品工業が整備された。特にそば粉の生産は有名であり、江戸で消費されるそば粉のほとんどが「中野そば」だったとされる。明治時代に甲武鉄道が開通すると、当時は駅前だった桃園通りから市街化が進んだ。次いで囲町集落の住民や新井薬師や堀ノ内妙法寺への参拝客の利用が増加し、参道商店街が作られるなど急速に都市化したが、明治後期でも駅周辺には麦畑が残っていた。
1896年には陸軍電信隊・鉄道隊・気球隊の施設が、次いで陸軍憲兵学校が現在の区役所付近に作られた。日露戦争後に御茶ノ水 - 中野間の運転間隔が10分になるなど甲武鉄道の輸送改善が進むと都市化が本格化し、陸軍施設の関係者が住む街である一方で高所得者の別荘がある郊外住宅<地としての環境が整った。大正に入ると駅の乗降客数も増加し、中野は都心部へ通勤する人々のベッドタウンとして成長を遂げ、現在のサンモール周辺にも商店ができ始めた。関東大震災後には、甚大な被害を受けた下町から膨大な人口が流入したことで宅地開発に拍車がかかり、早稲田通りから現在の中野ブロードウェイの一部にかけて模範市場が作られるなど、商業の集積が顕著になった。1929年、中野通りを陸橋化し、中央線と立体交差させる計画が発表されたが、当時の道路状況では粉塵が橋下の商店に飛散する恐れがあり、駅北側の商店主が反対した。その結果、駅は現在地に移り北口が新設され、中野通りは線路の下を通すこととなった。この時、上記の商店主らを中心に駅北口周辺一帯の地盤を現在と同じ高さにまで掘り下げる工事を自ら行った。1931年には中野初のデパート丸井が開店し、城西地域を代表する広域商圏を持つ商業地に成長した。1937年には現在の三番街までだった「仲通り」商店街(現在の中野サンモール)が現在のブロードウェイの入口地点まで延伸された。当時は年中無休で23時頃まで営業していたという。同1937年には陸軍中野学校が囲町に作られ、1945年5月25日の山の手空襲では中野区一体も標的となったが、駅周辺は焼失を免れ、終戦後には陸軍の土地に米軍が駐屯し駅前は米軍の物資の横流しもあり闇市が発達、当時は中央線沿線で最も発展した闇市と称された。復興の過程で闇市は商店街へと姿を変え、1948年には「仲通り」は「中野北口美観商店会」に改称した。1958年にはアーケードを建設し、現在の中野駅前の繁華街の基礎を作った。1966年には営団地下鉄東西線が開業、中野駅は名実ともにターミナル駅となった。同年には中野ブロードウェイが開業、東洋一のショッピングセンターとして約400店が軒を連ねた。 一時は店舗の陳腐化や撤退のため200店前後にまで落ち込んだが、1980年のまんだらけが開業、同様の業者を呼び寄せたり、サブカルチャーが脚光を浴びて同社の店舗数が増えるにつれ、おたく文化の発信拠点となった。また、1970年には日本初の会員制総合スポーツクラブとして東京アスレチッククラブがこの地に開業、1973年には最高級のコンサートホールや結婚式場、ホテルを擁する中野サンプラザが竣工、さらには、1975年に中野北口美観商店街が中野サンモールになるなど、現在の街並みやランドマークがほぼ完成した。現在では、2012年に「中野四季の都市」が街開きするなど中野駅周辺で大規模な再開発が行われ、街並みが大きく変貌しつつある。中野は1966年(昭和41年)10月1日に住居表示を実施。旧町名は町内会や公園の名前などに残るのみとなった。1~3丁目がJR中央線の高架より南側、4~6丁目が北側である。駅に近い西側は繁華街、東側は住宅街になっている。主に住宅地となっている。町内の鉄道駅は中野駅のみであるが、東部では東中野駅・中野坂上駅・落合駅、北部では新井薬師前駅、南部では新中野駅も利用可能である。駅北口(ガード下・サンプラザ前)・南口双方に大規模なバスターミナルと、北口に関東バス案内所、南口に京王バス案内所がある。中野駅から区内各所・新宿・池袋・渋谷や近隣の区を結ぶ路線の他、銀座や羽田空港と結ぶ中距離路線、長距離の観光バスが発着する。
出典:wikipedia
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