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ヨーゼフ・ゲッベルス

パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス( 、1897年10月29日 - 1945年5月1日)は、ドイツの政治家。国家社会主義ドイツ労働者党第3代宣伝全国指導者、初代国民啓蒙・宣伝大臣。「プロパガンダの天才」「小さなドクトル」と称され、アドルフ・ヒトラーの政権掌握とナチス党政権下のドイツの体制維持に辣腕を発揮した。敗戦の直前、ヒトラーの遺書によってドイツ国首相に任命されるが、直後に家族とともに自殺した。パウル・ヨーゼフ・ゲッベルスは、1897年10月29日、ドイツ帝国プロイセン王国に属する人口3万人の小都市で生まれた。ライトはミュンヘン=グラートバッハ(現在のメンヒェングラートバッハ)と川を挟んで隣り合う双子都市で、主要産業はミュンヘングラートバッハと同じく織物だった。宗教はローマ・カトリックが支配的であり、ゲッベルスの両親も敬虔なカトリックであった。父のフリードリヒ・ゲッベルス (Friedrich Goebbels) は、貧しい職工の家に生まれ、工場の事務職を経て業務支配人まで出世した人物であった。ゲッベルス家は2階建ての持ち家を持っていたが、父の給料は一般の職工とそれほど変わりがなく、家計はどちらかといえば貧しかった。母のマリア・カタリナ(Maria Katharina, 旧姓オーデンハウゼン (Odenhausen))はオランダ人鍛冶屋の娘でフリードリヒとの結婚前にドイツ国籍を取得した女性であった。ゲッベルスは常に母カタリナを尊敬していたが、彼女が元オランダ人である事実はひた隠しにしていた。ゲッベルスは夫妻の三男であり、兄にハンス (Hans) とコンラート (Konrad) がいた。加えて姉にエリーザベト (Elisabeth)、妹にマリア (Maria) がいる。両親は貧しいが敬虔なカトリック教徒であり、ゲッベルスは司祭になるよう望まれていた。ゲッベルスは、4歳の時に右下腿部に小児麻痺を患い、手術することとなった。そのためヨーゼフの発育は著しく遅れ、左右で足の長さが異なり、歩行がやや不自由な身体障害者となった。ゲッベルスは生涯にわたって整形医療具に萎えた足を包み、それを後ろに引きずるように歩くことを余儀なくされた。他の子供らが興じていたダンス・スポーツ・遊びにも少年ゲッベルスは一切参加できなかった。このことは、成人してからも身長がドイツ人としては小柄な165cmしかなかったこととともに、ゲッベルスの決定的なコンプレックスとなり、彼の人格形成に大きな影響を与えた。後にゲッベルスは自作の小説『ミヒャエル』の中で自らを投影した主人公ミヒャエル・フォーアマンを通じてこの時の心情をこう告白している。「他の少年たちが走ったり、はしゃいだり、飛び跳ねたりするのを見るたび、彼は自分にこんな仕打ちをした神を恨んだ。それから自分と同じではない他の子供たちを憎んだ。さらにこんな不具合者をなおも愛そうとしてくれる自分の母を嘲笑した」友達と遊ぶことのできないゲッベルスは学校から帰ると屋根裏の自分の部屋に閉じこもって読書ばかりするようになった。特に縮刷廉価版のを愛読して、幅広い知識を身につけたという。ゲッベルスの学校の成績は常に優秀であった。父フリードリヒもヨーゼフならば「ドクトル(博士号)」取得は不可能ではないとみて、貧しい家計をやりくりして彼を1908年からギムナジウムへ通わせることにした。肉体的劣等感をばねに、さらに勉学に励んだゲッベルスの成績はギムナジウムでも首位を占めることが多かった。しかし同級生達からはあまり好かれず、教師達からははっきりと嫌われていたという。ゲッベルスは教師から嫌われていることに焦り、教師たちの歓心を得ようとして同級生の告げ口をすることが多かったという。1914年に第一次世界大戦が勃発。ゲッベルスも他の同級生たちと同じようドイツ帝国軍に従軍したいと願い、兵員募集に応じて兵役検査を受けた。だが担当の軍医は障害者などまともに相手にせず、一瞥しただけで検査にかける事も無く兵役不適格者と認定した。多くの同級生が出征していくなか、ゲッベルスはギムナジウムに取り残されて勉学を続けることとなった。兄二人は出征し、西部戦線で戦った。兄ハンスは1916年にフランス軍の捕虜となっている。1917年にギムナジウムを卒業し、大学進学資格を得た。卒業成績はラテン語、国語、宗教が「優」であった。ギリシア語、フランス語、歴史、地理、数学、物理もそれに次ぐ「良」であった。。ギムナジウムを出た後、親の仕送りや家庭教師のアルバイトでやりくりして耐乏生活を送りながらボン大学に在学し、歴史と文学を専攻したが、まもなく生活困難になり、1917年9月にはカトリックの慈善団体アルベルトゥス・マグヌス協会に奨学金の貸与を申請し、許可されている。しかし後に反カトリックとなったゲッベルスはこの時の奨学金を長く返済しようとしなかった。1930年に協会は当時国会議員になっていた彼を相手取って訴訟を起こして取り戻している。ドイツでは二つか三つの大学を転々として勉学するのが普通であるが、彼は他の学生より多めに大学を転々としている。1918年夏にはフライブルク大学へ移り、さらに冬にはヴュルツブルク大学へ移った。第一次世界大戦後の1919年夏に再びフライブルク大学へ戻り、続いて1919年冬にはミュンヘン大学に移った。1920年にハイデルベルク大学へ移り、1921年11月に同大学の哲学科から博士号(ドクトル)を授与されている。この学位授与はゲッベルスの知識人としてのプライドを大いに満足させた。大学在学中のゲッベルスにはまだ反ユダヤ主義的傾向は少なく、ハイデルベルク大学で教えを受けた教授も、博士論文の執筆指導教員男爵もユダヤ人だった。また、ナチ党で地位を得るまでは半ユダヤ人のエルゼ・ヤンケ (Else Janke) という女性と恋愛関係にあり、友人宛の手紙では「もしユダヤ人を殺したり、追放することが政治的に正しくても、それは人間の道理にかなっていない」と反ユダヤ主義を批判していた。1922年に大学を卒業したが、職が見つからず、一時両親の家に戻ることとなった。その後、ドレスナー銀行のケルン支店にようやく仕事を見つけたが、わずか9カ月で解雇されている。この銀行業務をしていた頃に1923年の大インフレを経験しており、ドイツ経済の惨状を目の当たりにした。そしてゲッベルス自身もますます貧困に苦しむこととなった。彼は反資本主義の思想を持つようになり、これが高じて反ユダヤ主義の思想を徐々に芽生えさせた。資本主義経済を牛耳る「国際金融ユダヤ人」なる敵の存在を妄想して敵意を飛ばすようになった。ゲッベルスは不況のためケルンの仕事をリストラされてしまった。家族への恥ずかしさのあまり、解雇後もしばらくケルンへ通うふりをしている。彼は、新聞社のジャーナリストか放送局の文芸部員に再就職しようとしたが、いずれの会社からも採用を拒否された。この時、彼の採用を拒否した会社の中にはユダヤ系企業もあった。彼の目には知識人である自分に生活の糧を与えようとしないこの世界は「ユダヤ化されている」と映り、ユダヤ人への憎しみを強めることとなった。この頃のゲッベルスの日記にはこうある。「この居候生活の惨めなこと。僕にはふさわしくないこんな生活をどうしたら終わらせることができるのか。それを考えると頭が痛い。(中略)僕はまだ何者でもない。大いなるゼロだ。」ゲッベルスが政治家としての第一歩を踏み出したのは1924年のことであった。友人フリッツ・プラング (Fritz Prang) に誘われて様々な社会主義者あるいは国家社会主義者の政治集会に参加し、演説などをするようになったのである。こうした活動の中、小右翼政党ドイツ民族自由党所属のプロイセン州議会議員の知遇を得て、ヴィーガースハウスがエルバーフェルトで発行していた新聞『民族的自由 (Völkische Freiheit)』の編集員の職を手に入れた。月収は100マルクで、失業中のゲッベルスには願ってもない話であった。9月13日からヨーゼフの論文が同紙の紙面に載るようになり、10月4日には編集長を任せられた。しかしゲッベルスは義勇軍「エアハルト旅団」などエルバーフェルトの青年組織に接近し、その中心人物であるナチ党のカール・カウフマンと親密になっていった。逆にブルジョワ保守的なヴィーガースハウスとは徐々に疎遠になり、1925年1月に『民族的自由』編集長職から解雇された。ゲッベルスは1925年1月17日号をもって『民族的自由』紙を廃刊した。ゲッベルスは1924年末からカール・カウフマンに国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)で仕事をさせてほしいと頼み込むようになった。カウフマンの口利きでナチ党首脳部のオットー・シュトラッサーの面接を受ける機会を得た。面接で「なぜ我が党に移りたいのか」と問うたオットー・シュトラッサーに対して、ゲッベルスは「ドイツ民族自由党は未来がないと思います。なぜなら党指導部が民衆について全くの無知だからです。党指導部は社会主義を恐れています。しかし私の信ずるところでは一種の社会主義と国家主義を統合した思想こそがドイツを救うのです。貴方の兄上グレゴールさんは社会主義の理念と国家主義の情熱を統合していらっしゃる。われら国家社会主義者が奉じねばならぬのはまさにグレゴールさんの思想です。」と述べた。オットーはゲッベルスの演説力に感心し(オットーは特にヨーゼフの美しい声に惹かれたという)、党の大きな力になると考え、彼の採用を決定した。1925年3月にエルバーフェルトにナチ党の「ラインラント北部大管区」を設立させることに携わったゲッベルスは、カウフマンやエーリヒ・コッホ、ヴィクトール・ルッツェなどとともに同大管区の役員に選ばれた。大管区指導者はカウフマンであり、ゲッベルスは書記局長だった。またこのポストは北部および西部のナチ党指導者グレゴール・シュトラッサーの秘書を兼務するものであった。給料は200マルクでヴィーガースハウスの下にいた頃の2倍になった。ゲッベルスは、数々の演説をこなして急速に頭角を現し、グレゴールとオットーのシュトラッサー兄弟に次ぐ北西ナチ党のリーダーの座を確立していった。シュトラッサー兄弟とともに南部ミュンヘンの党本部への敵対行動を強めた。党首アドルフ・ヒトラーの指導体制は一応認めつつもユリウス・シュトライヒャーやヘルマン・エッサーら「ミュンヘンのごろつき」をヒトラーの側近から排除することを主張し、西部や北部の社会主義的・左派的な方針でもってナチ党全体を運営させようと画策した。ゲッベルスはミュンヘンの党本部からシュトラッサー兄弟に次ぐ「党内左翼偏向勢力」(ナチス左派)の領袖と見なされていくこととなった。1925年8月21日付けのゲッベルスの日記には「ヒトラーを倒してグレゴールに党の主導権を握らせるべきだ」とまで書いている。1925年10月9日には北西ドイツの大管区指導者たちを集めて「北西ドイツ大管区活動協同体」の創設に携わった。グレゴールが指導者、ゲッベルスが事務局長に就任した。これはヒトラーのミュンヘン党本部(特に党宣伝部長のエッサー)へ対抗するものであった。しかしこれは北西ドイツ大管区の緩やかな統合組織でしかなく、当初より不統一さがあった。一方の南部ドイツの大管区はミュンヘン党中央のヒトラーの下に中央集権で強固に固まっていた。北西ナチスが南部ナチスの権力に常に及ばなかったのはこのためである。1925年10月にグレゴールが発行していた機関紙『国民社会主義通信(Nationalsozialistische Briefe)』の編集を任せられている。同紙の紙面で「ユダヤ人資本家」への攻撃を盛んに行った。しかし同時にゲッベルスはヒトラーとの面会・和解も願っており、1925年10月12日付けのゲッベルスの日記に「僕は一度ミュンヘンへ行かねばならない。一度二時間だけでもヒトラーと二人きりで話せれば、すべて氷解するはずだろうに。」と書いている。そして実際に1925年11月4日にミュンヘンを訪れ、党首アドルフ・ヒトラーと初めての会見を行った。ゲッベルスは初対面でヒトラーに魅了され、11月6日のゲッベルスの日記にはこう書いている。ヒトラーもシュトラッサー兄弟を味方にできる見込みがない以上、北部や西部のナチ党を掌握するためにはゲッベルスを味方につけることが重要と認識していた。そのためヒトラーは彼に大変気をかけていた。1925年のクリスマスにヒトラーは「模範的な貴方の闘いに」という賛辞とともに『我が闘争』をゲッベルスに贈っているほどである。しかしヒトラーとの出会いによってゲッベルスのナチス左派的傾向がただちに減少したわけではなく、彼はこの後も引き続きシュトラッサー兄弟と親密な関係を保ち、またその思想は相変わらず社会主義的な色彩を強く見せる国家主義だった。この時期にゲッベルスによって書かれた『国家社会主義者入門』にはこのような問答が載っている。<問>国家的という概念と社会主義的という概念は矛盾し合わないか?
<答>否、逆だ!本当に国家主義的な人間は社会主義的に考える。そして本当の社会主義者は国家主義者だ!
<問>何故労働者党か?
<答>実直に仕事をするドイツ人はいずれも、ドイツの労働者だからだ!翌1926年1月25日、ハノーファーでグレゴール・シュトラッサーが招集した会議が開かれた(ヒトラーは出席せず、ゴットフリート・フェーダーを代理で送っている)。議題は当時問題になっていたドイツ前皇室の財産没収に関する国民投票にナチ党がどういう対応を取るかであった。北部や西部のナチス左派達を代表するグレゴールは没収に賛成し、南部の保守派ナチ党員たちを代表するヒトラーは没収に反対した。会議はヒトラー本人が出席していなかったこともあって、終始グレゴール優位に進み、財産没収で決議した。ゲッベルスも没収に賛成派だった。この会議でゲッベルスは「プチブル主義者アドルフ・ヒトラーは党から追放すべきである」と述べ、ヒトラー追放動議を出したと伝わるが、ヒトラー追放動議を提出したのはベルンハルト・ルストであるとする説もある。いずれにしてもヒトラー追放動議はグレゴールが「党内秩序を乱すもの」として却下している。続く2月14日に今度はバンベルクで党首ヒトラーがナチ党の綱領に関する会議を招集した。ここでヒトラーは、今後ナチ党は、私有財産制度を擁護し、共産主義者を撃滅し、旧皇族への財産没収に対して補償し、さらにイギリスおよびイタリアと同盟を結ぶよう政府に働き掛けていくことを決議した。ヒトラーがブルジョワとの融和を重視し、国家社会主義から保守主義に転じたと感じたゲッベルスは、すっかりヒトラーに幻滅して、2月15日の日記でヒトラーを罵っている。「ヒトラーの演説は二時間。僕はへとへとになった。何というやつだ。反動なのか?全く始末に負えないぐらぐらした奴だ。ロシア問題は全くの的外れ。イタリアとイギリスは我々の宿命的な盟邦であるだって?ひどい。我々の課題はボルシェヴィズムの粉砕であるだって?ボルシェヴィズムはユダヤ人のこしらえ物であるだって?皇族への補償。法は法である。私有財産制の問題には触れない。ひどい!綱領はこれで結構だ!フェーダーがうなづく。ライがうなづく。シュトライヒャーがうなづく。『こんな連中の中に自分がいるのは心が痛む。』(ゲーテの"ファウスト"の言葉)(中略)僕の人生で最大の失望のひとつだ。僕はもうヒトラーの全幅の期待は持てない。恐ろしいことだ。頼るものがなくなるということは。疲れ果てた。」。しかしゲッベルスの才能を買っていたヒトラーは、この会議後、ゲッベルスが自分から離れぬよう気をかけた。『ゲッベルス日記』にはこうある。「留守中にヒトラーから電話があった。挨拶したいということだった。カフェから電話する。15分でヒトラーが来る。背が高くて健康的で、闘志満々のヒトラー。僕は彼が好きだ。彼の親切はどうも面映い。彼は午後のため自分の車を回してくれる。(中略)午後八時、車でビュルガーブロイへ。ヒトラーはすでに来ている。心臓が破れんばかりに高鳴る。ホールに入る。歓声で迎えられる。超満員。シュトライヒャーが口火を切る。それから僕は二時間半しゃべりにしゃべった。聴衆、狂乱、絶叫。終わるとヒトラーが僕を抱きしめてきた。彼の眼には涙が光っていた。とても熱いものが込み上げてきた。」(1926年4月13日付け)。「昨日ヒトラーと会う。すぐ食事に誘われた。彼は若い魅力的な女性を連れていた。楽しい夜。僕は車で一人で帰らねばならなかった。今朝10時、ヒトラーに誘われる。僕は花を持っていった。とても喜んでくれる。それから二時間、東西の問題を討議する。彼の議論には感嘆せずにはいられないが、ヒトラーはロシア問題を十分に理解しているとは思えない。僕もいくつかの点を考え直さねばならない。」(1926年4月16日付け)。ヒトラーは巧妙にゲッベルスの心を支配していった。ゲッベルスの中でヒトラーの存在が大きくなるにつれてゲッベルスは急進的な社会主義思想を修正するようになり、ヒトラーの保守主義に理解を示すようになった。またゲッベルスはミュンヘンでの歓待ぶりに比べてエルバーフェルトでは自分はまったく尊重されていないとも感じるようになっていた。『ゲッベルス日記』にはこのように記述してある。「ここ(エルバーフェルト)では誰も僕を気にしない。まるで僕が何も仕事をしていないかのようだ。」「シュトラッサーの所へ行く。彼は僕がミュンヘンと妥協しかけているんじゃないかと疑っている。そんなばかばかしい考えは捨ててしまえと言っておいた。」(6月10日付)。「管区全体がカウフマンの怠慢のために腐りきっている。どうしてこのような暴徒の集団がドイツを解放できるのか。僕の唯一の望みはヒトラーが僕をこのヤクザ集団から救い出し、ミュンヘンへ連れて行ってくれることだ。」(6月12日付)。その後、すっかりシュトラッサー兄弟やカウフマンと疎遠になったゲッベルスは、ヒトラーからミュンヘンへ招集される日を心待ちにしていた。しかし1926年10月末、ヒトラーがゲッベルスに下した辞令は「ベルリン=ブランデンブルク大管区指導者」であった(なおグレゴールにはこの際に「宣伝全国指導者」の職が与えられた)。当時のベルリンは「赤いベルリン」と揶揄されるほど共産主義者や革命主義者が多かった。ベルリンのナチ党員はわずか1000人に過ぎず、しかも北部はシュトラッサー兄弟の本拠であったのでナチ党員にも革命主義者が多かった。でありながらシュトラッサーも大管区指導者もベルリンのナチ党をまとめきれず、ベルリン突撃隊指導者クルト・ダリューゲや既に離党したはずのなどが独自に指揮権を行使しているような混沌とした状況だった。ヒトラーとしては社会主義的傾向の強いゲッベルスを置くことでベルリンの革命志向の党員たちを納得させ、一つにまとめさせることを期待したとみられる。ベルリン行きはナチ党内では貧乏くじと見られていたが、ゲッベルスは引き受けることにした。ベルリン着任後、ヒトラーの全権委任と自らの権力を盾に喧嘩ばかりしているベルリン・ナチ党員の間に割って入り、統率権を押し通した。ゲッベルスは赴任当時のベルリンの惨状について後の著書『ベルリンの戦い』(1932年)の中でこう書いている。「当時ベルリンで党と称していた物は、全くそう呼ぶに値しなかった。それは何百人かの国家社会主義的な考え方をしている人間がただ入り乱れてとぐろを巻いている集まりで、その一人一人が国家社会主義について、自己流で私的な意見を持っていた。そしてその意見というのは、普通国家社会主義ということで理解されている物とはほとんど関わりがなかった。各グループでの殴り合いは日常茶飯事だった。ありがたいことに世間はそれに注意は払わなかった。運動自体が数から言って問題にもならなかったからである。こんな党に行動力はない。政治闘争への投入は不可能だった。統一的な形を与え、共同の意志を吹き込んで、新しい、熱い衝動を与えねばならなかった。」。ゲッベルスは不良党員の追放から開始し、ベルリンの1000人の党員のうち400人を追放した。ベルリン大管区の赤字財政を立て直すために残った党員たちに毎月3マルクの負担金を課した(失業中の者はその半額)。自らの演説会も有料にした。大管区指導者事務所もポツダム街の地下室からリュッツォー街のアパートの二階へ移し、政党の事務所らしく変えた。ゲッベルスは党の宣伝ポスターのデザインに気を使った。当時は予算の問題から黒字ばかりの味気ないポスターが多かったが、ゲッベルスは借金をしてでも印刷屋に刺激的なポスターを作成させた。そのためナチ党ポスターはベルリンの人々の人目を引くようになった。またゲッベルスは政治ポスターに大きな赤い文字の見出しでぎょっとするような訳の分からぬ文句を書く手法を好んだ。アメリカ皇帝 ベルリンにて演説す気になった通行人は次々と立ち止まって続きを読んだ。これの内容はドーズ案とヤング案をアメリカ資本主義の産物であると攻撃する物で、さらに何日のどこの集会でヨーゼフ・ゲッベルス博士が演説する旨の広告が付けられていた。また他人から浴びせられる罵倒さえもうまく利用した。ある新聞が「ナチは山賊」と批判してこの言葉が広まるとゲッベルスは自ら「山賊首領ヨーゼフ・ゲッベルス」などという刺激的な肩書をポスターに付けて人々の関心を集めた。殴り合いはニュースになりやすいことから突撃隊とドイツ共産党赤色戦線戦士同盟の殴り合いも積極的に行わせ、負傷した突撃隊員を積極的に宣伝の材料にした。1927年2月には共産党が党大会の会場として使っていたファールス会場を借りてナチ党の党集会を行うという挑発行為を行い、これに激怒した共産党が赤色戦線戦士同盟に殴りこみを行わせたことで「ファールス会場の戦い」と呼ばれる大乱闘に発展している。ちなみにこの頃のゲッベルスは、かつて好感さえ寄せていたドイツ共産党を「血をわけた赤いごろつきども」という愛憎相半ばした感情で見るようになっていた。ナチ党を取り締まろうとする警察にも批判を強め、特にユダヤ人のベルリン副警視総監ベルンハルト・ヴァイスを徹底的に攻撃した。彼をユダヤ人名である「イジドール」の名前で呼び、この名前がベルリン市民に広まってヴァイスは「イジドール・ヴァイス」と巷で呼ばれるようになり、ナチ党員以外の市民からも多くの場でからかいのネタにされた。警察とナチ党の対立は深刻化し、1927年5月5日、警察から大ベルリン地区におけるナチ党の党活動が禁止された。以降ゲッベルスは党集会をピクニックやハイキングなどと偽装して開催することを余儀なくされた。次いで警察はゲッベルスはじめナチ党幹部(国会議員は除くとされた)個人の公の場での演説もプロイセン州全域において禁止した。この強烈な弾圧についてゲッベルスは著書『ベルリンの戦い』の中でこう書いている。「僕としては公開の場で演説を禁止されたことが一番こたえた。当時の僕は演説すること以外に党の同志との接触手段をもたなかったからだ。口で話す言葉は常に文字に印刷した言葉より重要である。特にその頃の我々の印刷設備はお粗末なもので、言論を十分に印刷して流すことはできなかった。」。ゲッベルスは国会議員のナチ党員が演説中に客席から立ちあがって発言を行うといった偽装で演説をしようとしたが、警察にばれて告発されて罰金を課されている。1927年7月4日に『デア・アングリフ』紙を発刊して、紙面における言論活動に転じた。『フェルキッシャー・ベオバハター』紙はじめ他のナチ党新聞と同じく反ユダヤ主義と反共主義を基調としたが、他のナチ党新聞と比べると資本家攻撃が多いのが特徴的でゲッベルスのナチス左派の性向が見受けられる。1927年10月29日、ゲッベルスの誕生日にあわせて警察は事前許可を取るという条件付きで彼に演説することを許可した。1928年5月の国会選挙にナチ党の候補として出馬することとなったゲッベルスは、4月30日付けの『デア・アングリフ』にその抱負を語った。「我々が国会に入るのは、民主主義の兵器庫の中で民主主義自身の武器を我らの物とするためである。我々が国会議員になるのは、ヴァイマル的な物の考え方を、その考え方そのものの助けで麻痺させるためである。(中略)我々は友人として乗り込むのでも中立者としてやって来るわけでもない。我々は敵として乗り込むのだ。羊の群れが狼に襲い掛かるように我々は乗り込むのだ。」。ナチ党はこの選挙で70万票を得、12議席を獲得した。ゲッベルスはその当選者の一人であった(他のナチ党員からはヘルマン・ゲーリング、ヴィルヘルム・フリック、フランツ・フォン・エップ、ゴットフリート・フェーダー等が当選)。ゲッベルスはドイツ国会議員に与えられる不可侵権(I.D.I)を手に入れたことになるが、1929年12月にナチ党議員団が一丸となって国会から出ていく事件があり、この際に一時的に不可侵権を失い、1928年10月に突撃隊員を使ってベルリンのユダヤ人商店街を襲撃させた件で起訴され、2000マルクの罰金刑に処されている。1929年1月9日、第3代宣伝全国指導者(ナチ党宣伝部長、初代はグレゴール・シュトラッサー、二代はヒトラー)となり、党の最高指導部に列した。1930年1月に突撃隊員ホルスト・ヴェッセルが共産党員に銃撃されるという事件が発生した。彼は2月23日に死亡した。ゲッベルスは彼を徹底的に英雄化するキャンペーンをおこなった。ヴェッセルがいまだ生存している1930年2月7日の段階で早くもスポーツ宮殿のナチ党の集会で『ホルスト・ヴェッセルの歌』を歌せている。後にこの『ホルスト・ヴェッセルの歌』はナチ党党歌となり、さらに第二国歌となる。1930年9月14日の国会選挙から宣伝全国指導者としてナチ党の宣伝戦全般を指揮した。ゲッベルスは他の政党の何倍にもあたる数の党集会を組織することを心掛けた。野外演奏会や突撃隊の行進などを行って人々の関心を引き付けた。またこれまで一般的でなかった政治宣伝映画に目を付け、アメリカの20世紀フォックス社の技術提供を受けて、当時のドイツの技術力では困難だった野外でのサウンド映画を可能にして政治宣伝映画を盛んに放映した。宣伝内容も反ユダヤ主義など意見の分かれる問題は大きく取り扱わず、ヤング案反対や公的生活に特殊利害が蔓延してることへの批判など全国民的な問題を一点集中で取り扱うようにした。その結果、一気に107議席(得票数640万票〔投票総数の18パーセント〕)を獲得してドイツ社民党に次ぐ第2党に躍り出るという大勝利を収めた。1932年3月の大統領選挙にヒトラーが立候補をした際には「ヒンデンブルクに敬意を、ヒトラーに投票を」をスローガンにし、現役大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクに敗れはしたが善戦をした。1932年4月のプロイセン州州議会選挙は、直前にリベラルのドイツ首相ハインリヒ・ブリューニングと左翼のプロイセン州首相オットー・ブラウンらが計略によって突撃隊と親衛隊の禁止命令を出したため、ナチ党にとっては官憲の弾圧の中での選挙戦となったが、ナチ党は9議席から一気に162議席に伸ばし、圧勝した。ナチ党がプロイセン州議会の第一党となった。これをもってプロイセン州首相オットー・ブラウンの左翼政治の基盤は崩れた。5月にはドイツ首相ブリューニングも辞職。保守派のフランツ・フォン・パーペンが首相に就任し、6月には突撃隊と親衛隊の禁止命令を解除し、ナチ党取り込みを図ろうとしたが、ナチ党はパーペン内閣には協力せず、国会は解散された。1932年7月31日の国会選挙ではナチ党は608議席中230議席(得票数1373万票〔投票総数の37.4パーセント〕)を獲得し、国会において第1党となる。にもかかわらずヒトラーを首相に任命せず副首相で甘んじるよう求めるヒンデンブルクやパーペンに腹を立てたヒトラーは、議会で揺さぶりをかけ、再度国会は解散された。この後の選挙の直前の11月初めにおこった労働者のストライキにゲッベルスはヒトラーの許可を得て、ナチ党員を参加させた。ゲッベルスは共産党とも協力してこのストライキを大ストライキにしてベルリンの交通網を完全にマヒさせた。この時はヒトラーも新聞でこのストライキを擁護していた。しかしこの件はかえって悪影響し、11月6日の国会選挙では票を200万票と36議席を失い、196議席(得票数1174万票〔投票総数の33.1パーセント〕)に減退した(ただし第1党の地位は保った)。この件についてゲッベルスは1932年8月13日にヒンデンブルク大統領官邸で行われたヒトラーとヒンデンブルク大統領、パーペンらとの会談、また中央党の接触が悪宣伝に利用されたことの二つにあると総括した。すなわち国民に不人気な保守派とリベラルが接近してきたことでナチ党まで誤解されたことに原因があるとするものであった。そして自分に問題はないので反省の必要はないと『ゲッベルス日記』の中に書いている。一方、1930年から1931年はナチ党の内紛期でもあった。ナチス左派の中でも特に急進的なオットー・シュトラッサーは、党首ヒトラーの「保守偏向」や「ブルジョワ的生活」を本格的に批判するようになり、オットーとヒトラーの関係はいよいよ抜き差しならぬものとなった。オットーの兄グレゴールは党首ヒトラーに表立って逆らう事はしなかったが、オットーは断固抵抗の構えを見せた。1930年5月21日にヒトラー自らベルリンを訪れてオットーと7時間に渡る討論を行い、懐柔しようとしたが、オットーは土地の国有化・共同農場・利潤の公平分配・ブルジョワ化反対といった社会主義政策を党の方針に掲げることを要求し続けた。もはや如何ともしがたいと判断したヒトラーは、オットーの除名を決意。ヒトラーはゲッベルスにオットー追放を指示した。1930年7月2日にゲッベルスはベルリン大管区指導者の資格において大管区役員会議を開き、オットーの除名を決議。除名にあたってオットーはベルリン親衛隊司令官クルト・ダリューゲらに阻まれて来場できず、反論の機会が与えられなかった。7月4日にはオットー自らも新聞紙面でナチ党を離党することを宣言し、他の党内社会主義者にも離党を促したが、追従者は少なく24名だけだった。ヒトラーと党内での待遇改善を求める突撃隊の関係も悪化していた。1930年7月18日に国会が解散された後の8月1日、突撃隊指導者を国会議員選挙名簿に加えるよう要求した突撃隊司令官フランツ・プフェファー・フォン・ザロモンの要求をヒトラーが拒否する事件があり、不服に思ったザロモンは8月12日に突撃隊司令官を辞職した。さらにベルリンの突撃隊員ヴァルター・シュテンネスSA大尉が突撃隊員の貧困に比して党幹部の裕福な暮らしに激怒した。ベルリン大管区指導者であったゲッベルスがシュテンネスの攻撃対象にされ、8月27日にはシュテンネスが部下たちを率いてゲッベルスの演説を妨害する事件が発生した。その翌日にはシュテンネス一派はミュンヘン党本部に対してゲッベルスのベルリン大管区指導者職解任を要求した。ヒトラーは却下した。不服としたシュテンネス一派は8月30日にヘーデマン街 (Hedemannstraße) の管区本部を襲撃した。ゲッベルスはダリューゲ率いる親衛隊部隊を出動させ、鎮圧しようとしたが、失敗。ゲッベルスはこれまで散々バカにしてきた警察に助けを求めざるを得なくなり、警察の介入でようやく鎮圧した。9月1日、ヒトラー自らがベルリンへ赴き、シュテンネスと会見して選挙前に騒動を起こすことはやめるよう説得してひとまず争いを収めた()。選挙後の1930年11月にヒトラーは突撃隊暴動再発を阻止すべく突撃隊員の待遇改善を約束し、突撃隊員の人望厚いエルンスト・レームを南米ボリビアから呼び戻して突撃隊幕僚長に据えることを宣言した。しかし1931年3月、相変わらず突撃隊員の待遇がよくならないことやヒトラーの順法路線(完全に合法選挙活動路線に転じつつあったヒトラーは党員に順法を求める発言を繰り返し、突撃隊員に対して共産党との路上闘争の禁止を通達した。しかも3月28日にブリューニング内閣によって出されたナチス弾圧命令である「政治的過激運動撲滅のための命令」にさえ恭順しようとした)にシュテンネスは再度憤慨し、党本部への反乱を再度決意した。1931年4月2日にベルリンの管区本部や支部本部襲撃を開始。ヒトラーはただちにベルリン大管区指導者のゲッベルスに鎮圧の全権を任せた。ゲッベルスはふたたびクルト・ダリューゲの親衛隊部隊を動員。今度は独力で鎮圧することに成功した。鎮圧後、ゲッベルスは反乱に参加した突撃隊員を片っ端から除名した。1933年1月30日、ついにナチ党党首アドルフ・ヒトラーがパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりドイツ国首相に任命され、ヒトラー内閣が成立した。その日のゲッベルスの日記にも「まるで夢のようだ。(ドイツ中央政府官庁街)は僕らの物だ」という感動した様子が書かれている。3月5日の国会選挙でナチ党はさらなる勝利(ナチ党は647議席中288議席を獲得。投票総数の44パーセント)を得た。3月14日、ヴィルヘルム街にあるかつての王室の邸宅に「国民啓蒙・宣伝省」が置かれ、ゲッベルスがその大臣に任じられた。1933年5月には公私立の図書館からユダヤ人の書いた書物などを次々と押収して広場に集めさせて焼き払った(焚書)。ハインリヒ・マンなどの反ナチ派の本、またカール・マルクスやジークムント・フロイト、ハインリヒ・ハイネといったユダヤ人達の本が焼かれた。ちなみにハインリヒ・ハイネは「本を焼く所では、終いには人間をも焼く」と予言していた。1933年8月20日、ベルリン第10回放送展で「国民ラジオ」がはじめて公開され、ゲッベルスは「19世紀は新聞であったが、20世紀はラジオである」と公言した。ゲッベルスは民を扇動するうえでラジオは欠かせないことをよく理解していた。ラジオのフル生産を指示し、外国放送は聞けない「国民ラジオ」を全国28の工場で大量生産させ、安価な76マルクで購入できるようにした。目的はともかくラジオをドイツ国民に普及させたことはゲッベルスの功績とされている。1933年9月25日には全国文化院法が公布され、宣伝相たるゲッベルスの下に、、、帝国音楽院、、、帝国造形芸術院の7つの帝国文化院が創設され、ドイツのあらゆる精神的創造者は該当する帝国文化院に加入することを義務付けられ、ヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相による監視と検閲を受けた。ユダヤ人は文化面からどんどん排除されていった。またゲッベルスはほかの省庁の権能を自らの宣伝省に集めて行った。内務省から検閲権や公休日の取り締まり権を奪い、経済省からは広告監督権や産業博覧会・貿易博覧会開催権を奪い、郵政省からは旅行案内業務を奪い、外務省からは対外的PR権を奪った。エルンスト・レームとゲッベルスは比較的親密な間柄であった。レームの死の2週間前までゲッベルスとレームは活発に接触していた。しかしながら1934年6月30日からはじまったレーム以下突撃隊幹部の粛清「長いナイフの夜」の際にはゲッベルスはヒトラーにぴったりと寄り添って同行し、ヒトラーとともにミュンヘンへ飛び、ヒトラーが粛清を行っている時にも何も異議を唱えることはなかった。7月10日のラジオ演説でゲッベルスは6月30日の粛清を「病的な野心家の一味の反乱を電撃的に鎮圧した」として正当化し、外国の「センセーショナルな虚偽報道」を「ドイツ国民は吐気と嫌悪の情をもって背を向ける」と批判している。ヒンデンブルク大統領の死去後の1934年8月19日、大統領職を廃し、ヒトラーが国家元首の権能を兼ねることへの国民投票が行われた。すでに報道機関を完全に抑えていたゲッベルスの大々的なヒトラーの賛美キャンペーンの下、賛成票は88.9%にも達した。1936年のベルリンオリンピックの際にはゲッベルスは演出の総指揮を取り、一大宣伝ショーとして大きな成功を収めた。ゲッベルスが発案したわけではないが、現在の形式の聖火リレーはこのベルリンオリンピックから始まっている。同年8月2日の日記にはオリンピックを「ヘンデルのハレルヤ(メサイア (ヘンデル))。偉大な、感動的な祭典」と記し、続けて「首相官邸で長い間総統と無駄話。彼は日本を賞賛し、ロシアには厳しい。その通りだ。」と書いている。1937年には、ドイツの映画会社最大手ウーファをナチ党で買収し、事実上ゲッベルスが所管することとなった(さらに1942年には完全国営化)。『ロスチャイルド家』など反ユダヤ主義プロパガンダ映画から『ミュンヒハウゼン』など娯楽映画に至るまで次々と映画を制作させた。1937年には、昨年に日独防共協定を結び同盟国となった日本の映画製作者の川喜多長政と、ドイツの映画製作者アルノルト・ファンクによる合作で、原節子、早川雪洲、などが主演する映画『新しき土』(ドイツ語題『Die Tochter des Samurai(侍の娘)』)を制作することを許可し、またその制作を支援した。ゲッベルスの日記もこの映画について触れている。「独日合作映画『サムライの娘』の封切。映画の撮り方は素晴らしい。日本の生活や考え方を理解するのに良いし、筋もまずまずだ。しかし我慢できないほどに長い。それが残念だ。」。1937年7月にゲッベルスは、に指示して、ナチ党政権が「退廃芸術」として批判していたモダンアートや表現主義、抽象絵画の作品を集めさせ、7月19日に見せしめとしての「退廃芸術展覧会」を開かせた。アドルフ・ツィーグラーは「ドイツ国民よ。来たれ。そして自ら判断せよ」と開幕演説している。シャガール、クレー、キルヒナー、ノルデ、ゴッホ、ピカソ、ブラック、セザンヌなどの絵が晒された。展覧会には誇張するために狂人の絵も展示されていた。このうちキルヒナーは自分の作品を退廃芸術に指定され、この展覧会に晒されたことに強いショックを受け、自殺している。1938年11月7日に駐パリのドイツ大使館でユダヤ人青年ヘルシェル・グリュンシュパンがドイツ大使館員を暗殺した事件を受けて、11月9日夜にドイツ全土で発生した反ユダヤ主義暴動「水晶の夜」はゲッベルスが突撃隊を動員して行ったものだといわれる。しかしドイツ経済への打撃は大きく、事件後、航空省で行われた事件処理の会議で四カ年計画全権責任者としてドイツ経済に最終的責任を負うヘルマン・ゲーリングから批判を受けている。この件でゲッベルスはユダヤ人問題からの撤退を余儀なくされたという。代わりにゲーリングがユダヤ人問題の全権責任者となった。1939年3月にはヒトラーの50歳の誕生日に『人間ヒトラー』という本を出版して献上することを計画していたが、ヒトラーから止められた。ヒトラーは国民に自分の私生活に関心を持って欲しくなかったらしく、また自分の伝記の作者としてふさわしいと考えていたのはゲッベルスではなかったといわれる。1939年9月に第二次世界大戦開戦した際には、既にゲッベルスの権力に陰りが見え始めていた。所管していた国外宣伝権は開戦後にヨアヒム・フォン・リッベントロップの外務省へと戻され、さらに国内宣伝も新聞については党新聞部長オットー・ディートリヒがヒトラーからの信任を背景にして掌握しつつあった。それでもゲッベルスは自分の管轄に残されたラジオや映画を使って国内宣伝に影響力を行使しようとした。1940年2月、軍の宣伝中隊が撮影したポーランド侵攻の映像を映画『ポーランド作戦』にして封切った。この映画はベルリンだけで3日間で32万人を動員し、興行的に大ヒットした。1941年初めにはエミール・ヤニングス主演の英国批判映画『』(ボーア人が南アフリカに作ったトランスヴァール共和国に金が出るや否や英国が戦争を吹っかけて南アフリカ連邦を作った事件を題材にしている)を支援。同映画は3月に封切った。独ソ戦開戦直後の1941年6月22日午前5時30分頃、ゲッベルスがラジオで総統声明を国民に向けて読み上げている。しかしこうした努力もゲッベルスの権力の低下を改善することにはなかなか繋がらなかった。ディートリヒは新聞でゲッベルスのラジオ演説と食い違うことを平然と書き、ゲッベルスを苛立たせた。リッベントロップとの摩擦も増え、日記には彼らとのケンカの記事が散見されるようになる。結局、ゲッベルスがディートリヒに対して拒否権を獲得したのは1944年6月になってのことだった。しかし戦況が悪化してくると絶え間なく国民に対するプロパガンダを展開する必要性が増し、ゲッベルスの存在が再度重要性を増した。1943年1月にスターリングラードの戦いに敗れた後の2月18日にベルリンのスポーツ宮殿においてかの有名な「総力戦布告演説」を行った。この演説にはサクラや演出手法等が駆使され、ゲッベルス自身は「自分の演説活動全体の最高成果になるだろう」と考えており、演説後は「巨大な反響」、「全世界に最大の共感」と自画自賛した。演説は1時間以上におよび、演説前から体重が3kgも減少したという。大戦後期から末期にドイツ軍が本格的に劣勢に転じた後、ヒトラーはすっかり国民の前に姿を現さず、引きこもるようになった。他の政府幹部たちも似たり寄ったりであった。しかしゲッベルスは引きこもることなく、精力的に働き続けた。ヨーゼフは空襲にあった都市の被災者の慰問に頻繁に訪れて励まし、演説さえほとんどしなくなったヒトラーに代わって国民に戦意を鼓舞する演説を行い、連合国軍に対して最後まで抵抗するようラジオで国民に呼びかけた。また空襲を受けた都市のために救援隊を組織したり、徴兵されなかった中年・少年男性を集めて国民防衛隊「人狼」を設立したりして国民の人気を集めた。自らの宣伝省が爆撃によって破壊された時はかなりのショックを受けたと日記に記している。また、空襲を受けたベルリン市民を直接激励するようにヒトラーに何度も進言したが、受け入れられることはなかった。1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件の時には、たまたま首都ベルリンにいた唯一人のナチ最高幹部として反乱の鎮圧に大きな役割を果たした。その結果、同年7月25日にヒトラーから総力戦全国指導者(ドイツ語:Generalbevollmächtigter für den totalen Kriegseinsatz。戦時国家総動員総監、国家総力戦総監という訳もある)に任命され、内政全般に大きな発言力を得る。しかし健康状態は悪化して白髪となり、胃潰瘍や腎臓結石、不眠に悩まされた。1945年1月30日にはベルリン防衛総監を兼任して首都防衛の最高責任者となる。しかしゲッベルスは軍を信用せず、首都の防衛の主力には多大なる犠牲を顧みず、装備も錬度も劣る国民突撃隊を投入した。1945年1月には最後の「国民の映画」()である『コルベルク』が封切られた。ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍によってプロイセン王国が蹂躙されたとき、というポンメルンの小都市が強大なフランス軍に立ち向かったという史実を映画化したものだった。ゲッベルスがこの映画の撮影を監督に依頼したのは1943年6月のことだった。ゲッベルスは国防軍や国家・党機関に援助と助力を要請し、通常の映画の8倍の資金が投じられた。このときゲッベルスは「この映画が公開される時にはそれは、軍事的・政治的状況にぴったり当てはまるだろう」と記しているが、1945年の戦況はまさに「我々の今日の状況と不気味な関係」がみられるほどになっていた。公開に当たっては「銃後と前線が一つになった国民はどんな敵にも打ち勝てる」という「コルベルク精神」を国民に植え付けることを意識された。フランス大西洋岸のラ・ロシェルで孤立して戦っているドイツ軍陣地にパラシュートで映画を届けさせて、ベルリンとの同時封切にするという芸当を実現させた。しかしそのコルベルクはこの頃すでにソ連の占領下に落ちていた。もちろんその事実はゲッベルスによって隠されていた。ソ連軍によるベルリン包囲網が狭まるにつれて政府指導者やナチ党幹部の多くはベルリンから脱出したものの、ゲッベルスはヒトラーの側に残る道を選んだ。2月には兄ハンスに過去の手紙や著作を焼却するよう依頼した一方で、公開することを意識した日記はマイクロフィルムで撮影し、複数のコピーを作成した。ベルリンの戦いのさなか、妻と6人の子と共にヒトラーの総統地下壕に移り住む。マクダは当初子供達を救いたいと主張していたが、やがてゲッベルスの意見に同意した。地下壕入りしたゲッベルスは宣伝省の仕事に見向きもせず、自らの日記を整理することのみに集中していた。4月29日、ゲッベルスは党官房長マルティン・ボルマンとともに、ヒトラーとエヴァ・ブラウンの結婚の立会人となり、その後の二人の死を見届ける。4月30日、の指名により首相に就任した。しかしゲッベルスはヒトラーの政治的遺書を受け、「総統は私にベルリンを去って、新しい政府に首班として参加するよう命じた。私は初めて、総統に従うことを断乎として拒否する」として、「無条件に死に至るまで彼(ヒトラー)の味方になる」ため、「無用な生を、総統の傍らで終える」ことを表明している。その資格においてソ連軍と条件付降伏交渉を行うが、ソ連軍からは無条件降伏を求められ、決裂した。5月1日、六人の子供達を死なせた後、ゲッベルスとマクダは死を選び、ゲッベルスの血筋は途絶えた。死の経緯については様々な説が伝えられているが、首相官邸の中庭で死亡したことは確実である。その後二人の遺体はガソリンを用いて焼却されたが、火が消えても黒こげのままで放置された。それ以降のゲッベルス一家の遺体の行方は長らくわからなかったが、冷戦終結によるグラスノスチによって、1970年にヒトラー夫妻の遺体と共に掘り起こされて完全に火葬された上、エルベ川に散骨された事が明らかとなった。1931年12月19日、ゲッベルスはマクダ・クヴァントと結婚する。マクダの前夫は実業家のギュンター・クヴァントで、一男があった。そのハラルトも養子としてゲッベルス家に迎えられたが、ゲッベルスはハラルトにも分け隔てなく愛情を注いでいたという。これによりナチス幹部との血縁関係を得たギュンター・グヴァントは、強制収容所から徴収した労働者を自身の工場で酷使するなどして巨万の富を築いた(クヴァント家は現在、BMWやファルタなどを所有するドイツで最も富裕な一族となっている)。ハラルトはドイツ空軍に入隊し、1944年にイタリアで重傷を負ってイギリス軍の捕虜となり、ゲッベルスの家庭で唯一戦後まで生き残った。ハラルトは戦後に機械工学を修め、1954年に実父の死去によってファルタなどの大企業を受け継いだが、1967年に乗機の墜落事故で死亡した。ゲッベルスとマクダ夫人は生涯で六人の子供をもうけた。上から長女ヘルガ(1932年生)、二女ヒルデ(1934年生)、長男ヘルムート(1935年生)、三女ホルデ(1937年生)、四女ヘッダ(1938年生)、五女ハイデ(1940年生)である。一見模範的なドイツ家庭を作り上げてそれを宣伝した。ゲッベルスの家庭はナチ党の高官たちが集う憩いの場でもあったが、宣伝では模範的だった家庭も、実際にはゲッベルスの奔放な女性関係によりしばしば危機に瀕した。ゲッベルスは、ナルシスト特有の自信と映画界での権力を背景に多くの女優に関係を迫っていた。1938年のチェコ出身の女優リダ・バーロヴァとの関係は、双方ともに本気の恋愛関係となり、マクダ夫人との離婚、バーロヴァとの結婚を決意するまでに至った。総統ヒトラーはこれに激怒したが、ゲッベルスは「宣伝大臣を辞任して同盟国である駐日本大使となり、バーロヴァとともにドイツを去りたい」とまで申し出た。しかしヒトラーはこれを許さず、ゲッベルスにはバーロヴァとの手切れを、妻には結婚生活の継続を命じるというスキャンダルに発展した。マクダ夫人はこれに感謝し、ヒトラーに大変な信頼を寄せることとなる。ベルリン郊外、の湖畔にあったゲッベルスの邸宅は、戦後、ソ連軍接収後に、東ドイツが周囲に建物群を増築し、自由ドイツ青年団の教育施設となった。1990年に東ドイツ国家が消滅すると、ベルリン市の管轄に移った。1999年に空き家となるとネオナチの聖地化するのを恐れ、建物を閉鎖して管理していたが、財政難により売却することになった。しかし2013年現在も買い手がついていない。ゲッベルスは「宣伝は精神的認識を伝える必要もなければ、おだやかだったり上品だったりする必要もない。成功に導くのがよい宣伝で、望んだ成功を外してしまうのが悪い宣伝である」「重要なのは宣伝水準ではなく、それが目的を達することである」とし、その目的は「大衆の獲得」であり、「その目的に役立つなら、どんな手段でもよいのだ」と語っている。彼は「日々の経験から効果的な手法を学んだ」としているが、彼が述べる宣伝概念にはヒトラーの『我が闘争』からの踏襲が見られる。実際彼には宣伝手法自体やその出自にこだわりはなく、「ボルシェヴィスト(ボリシェヴィキ)からは宣伝の点で、大いに学ぶところがある」と評しただけでなく、宣伝大臣として最初に映画界に伝達したことは「右翼の『戦艦ポチョムキン』を作るように」ということであった。ベルリンで宣伝活動を行っていた当時は、ベルリン市民を「群衆の集合」ととらえ、ベルリン市民の思考に合わせた奇抜で独創的な宣伝を多く行った。図案家の(筆名・ミエルニル)はこの時期に効果的なプロパガンダプラカードを作成し、ゲッベルスから「神の恩寵」と賞賛されている。宣伝大臣となって最初の重大任務が国会の開会式であり、彼は荘重な演出を行ってヒンデンブルク大統領ら保守派をも感動させた(ポツダムの日)。さらに5月1日の「国民労働の日」祭典や非ドイツ的な図書の焚書、ベルリンオリンピックなどでは荘厳な演出をおこなったが、映画『意志の勝利』で有名な1934年のニュルンベルク党大会にはあまり熱心ではなく、日記にも記載していない。彼が専門領域と考えていたのは「映画」であり、シナリオや俳優の起用などに深く介入した。ナチスといえば、ニュルンベルク党大会での演出やパレードなど華麗・華美な宣伝という印象が多く流布しているが、政治宣伝部門を担当していたゲッベルスが本当に望んでいた手法は全く別のものであった。ニュルンベルク党大会については等の事情があったと言われる。ゲッベルス自身は、前述の政治イベント等とは違い「気楽に楽しめる娯楽の中に宣伝を刷り込ませ、相手に宣伝と気づかれないように宣伝を行う」「宣伝したい内容を直接キャッチフレーズ化して強調・連呼せず、心の中で思っているであろう不満・疑問・欲望を遠まわしに刺激し暴発させる」「もっとも速度の遅い船に船団全体の速度を合わせる護送船団の如く、知識レベルの低い階層に合わせた宣伝を心掛ける」を政治宣伝のあるべき姿と心掛けていた。これらの手法・考えは、当時のドイツやソ連、そして後年幾つか登場する全体主義国家(他、カルト団体など)よりも、むしろ民主主義国家(政治だけでなく商業でも)で本領を発揮し易いもので、事実、ナチスドイツを産み育てたドイツワイマール共和国のヴァイマル憲法は当時世界の中では最高水準の民主制制度を備えていた。"マインドコントロール#洗脳との相違も参照の事。"壮大な規模の大パレードやマスゲームで優越感をくすぐり、攻撃対象を痛烈に罵倒し罵る宣伝は支持者への即効性が望める反面、ある程度以上の知性を持つ大衆、或は外国から畏怖や違和感を抱かせる逆宣伝効果が多大にある(敵対勢力に簡単に逆用されてしまう)事をゲッベルスは理解し始めていた。大手映画会社が作成した映画『』(普段から生真面目過ぎて仲間から馬鹿にされているクヴェックスという少年が、生死をかけて潜伏スパイを摘発し、最後に少年団仲間に看取られながら通りの真ん中で最期を遂げる内容)を試写して「あからさまに政治宣伝色が強すぎる」と激怒し、お蔵入りさせるといった出来事まで起きている。ヒトラーのお気に入りとして登場する映画監督のレニ・リーフェンシュタールは、当初ゲッベルスを「話の判る知性溢れる人」と好感を抱いていたが、彼女が芸術性を第一に考えて製作したプロパガンダ映画作品の殆どはまさに前述のゲッベルスのポリシーに反するものばかりで、やがては国内映画制作の指導指揮権一部競合を巡る両者の根深い対立へと繋がっていく。これらについては、1992年にBBCが製作したドキュメンタリー映像作品「メディアと権力」第一部『大衆操作の天才・ゲッベルス』で詳しい。ゲッベルスとレニ・リーフェンシュタールの最も初めの接点となったのは、彼女の出演作『』を1929年12月1日、当時の恋人エリカと観た時だった。この時ゲッベルスは日記に「とても美しい」「すばらしい娘!」と賞賛の言葉を残している。しかしリーフェンシュタールが映画監督となり、1933年にヒトラーの指名によりナチ党大会映画を撮ることになったことで(『信念の勝利』)、ゲッベルスと彼女は複雑な関係となる。リーフェンシュタールはその回顧録において、当初ゲッベルスを「話の判る知性溢れる人」と好感を抱いていたが、1934年のニュルンベルク党大会の撮影を行っていた彼女とスタッフをゲッベルスのスタッフが妨害したという記述を残している。しかし実際そのような行為が行われたという記録は彼女の回顧録以外に存在しない。また完成した映画『意志の勝利』を見たゲッベルスは「国家政治的・芸術的に特に価値あり」と認め、「国民の映画賞」をこの映画に授けて顕彰した。またリーフェンシュタールはベルリンオリンピックの時にもゲッベルスが「なし得る限りの妨害」をし、ヒトラーがオリンピック映画の管轄を宣伝省から直轄の部署に移動させたと記述しているが、実際にはそのような措置はとられていない。ゲッベルスは多くの記録を残しているが、日記を刊行したという体裁の『カイザーホーフから首相官邸へ』(戦前の邦訳では『勝利の日記』)も、実際の日記とは異なるいくつかの修正が加えられている。たとえば公刊本ではヒトラーを終始「Führer」と称しているが、実際の日記では1934年まで「Chef」と呼んでいる。

出典:wikipedia

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