幸手市(さってし)は、埼玉県東部にある人口約5万3千人の市である。東京都特別区部への通勤率は14.6%(平成22年国勢調査)。市制施行前は北葛飾郡に所属。2012年(平成24年)10月に白岡市が発足するまで埼玉県内で市の中では人口が最も少なかった。江戸時代から日光御成街道と日光街道(奥州街道)の合流点に位置する宿場町として栄えていた。市内には徳川将軍が日光東照宮へ墓参する際に立ち寄った聖福寺や明治天皇が行幸した折に宿泊した行在所跡が残る。関東平野のほぼ中央にあり、埼玉県内では東部地域の北寄りに位置する。東京都心からの距離は約50kmである。利根川に近く、ほぼ全域が海抜10m前後の沖積低地である。しかし東部には、自然堤防の微高地や下総台地の末端部など、海抜20m前後の台地状地形も存在する。市の西寄りを南北に東武日光線と国道4号が縦断しており、東武日光線幸手駅とその東側の旧道(旧・日光街道)、国道4号を中心に宅地を中心とする市街地が広がる。市街地の外側では水田地帯中に集落が散在している。近年は市南西部の国道4号沿いに多くの郊外型店舗が出店しており、2006年(平成18年)には大規模なショッピングセンターも開店した。一方で市中心部にある商店街の買い物客が減少しているとされる。注意:ここに記した旧幸手町は1954年(昭和29年)~1955年(昭和30年)合併以前の町域を対象としており、他の行幸地区、上高野地区、吉田地区、権現堂川地区、桜田地区、八代地区、豊岡地区に関しては、行幸村、上高野村、吉田村、権現堂川村、桜田村、八代村、豊岡村の項を参照されたい。以下は旧幸手町の大字および小字である。なお、大字幸手の小字に関しては幸手宿の項を参照されたい。注意:幸手市およびその前身の幸手町と合併する以前の各町村の歴史についてはそれぞれの項目を参照。平成の大合併に際して幸手市では当初、県は異なるが経済圏や生活圏が同一であるため隣接する茨城県猿島郡五霞町との合併を目指して法定協議会を設置し、準備を進めていた。しかし、合併後の帰属県など越境合併特有の難点もあり越県合併反対運動が発生、最終的に増田実市長のリコール運動へと発展した。発議事態は無効となったものの増田市長は責任を取って辞職し、2003年(平成15年)11月22日に出直し市長選が行われ隣接する久喜市の水道部長であった町田英夫が新市長に当選。この結果を受けて同じ埼玉県内での合併に方針転換し、12月に久喜市と鷲宮町が設置していた合併協議会へ加わった。2004年(平成16年)、3市町の合併後の新市名を「桜宮市」とすることが決定するがこの名称に対し久喜市で反発が強まり、桜宮市を新設して合併を行う是非を問う住民投票が実施され、その結果幸手市や鷲宮町では賛成票が上回ったのに対し久喜市で反対票が上回り合併構想は白紙撤回されることになった。2007年(平成19年)12月、町田市長は久喜市と鷲宮町・栗橋町・南埼玉郡菖蒲町の4市町が新たに設置した協議会で進められている合併協議に加わる意向を表明したが、協議会側は幸手市議会の承認を参加条件としたことから幸手市側は合併特例法の期限である2010年(平成22年)3月までに手続きが間に合わないとしてこれを拒否し、単独で存続することとなった。一時、歳入に占める借金の割合である実質公債比率が18%を超えたため、借金に当たる地方債発行に県の許可が必要な地方債許可団体に移行。埼玉県内ワースト3位の財政状況となったことがある。財政健全化計画の策定及び実施により、平成19年度に実質公債比率が18%を下回り地方債許可団体を外れ、現在の財政状況は好転している。市外局番は市内全域が「0480」。同一市外局番の地域との通話は市内通話料金で利用可能(久喜MA)。収容局は幸手局および幸手八代局。郵便番号は市内全域が「340-01xx」である。タクシーの営業区域は春日部市・草加市・越谷市・久喜市・八潮市などとともに県南東部交通圏となっている。
出典:wikipedia
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