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神奈川中央交通

神奈川中央交通株式会社(かながわちゅうおうこうつう)は、神奈川県平塚市に本社を設置するバス事業者である。通称は「神奈中(かなちゅう)バス」。小田急グループのうちの一社で、神奈川県バス協会と東京バス協会の双方に加盟している。東日本では最大のバス事業者で、バス専業の事業者としても日本一の規模であり、日本のバス業界のリーダー的存在とされている。三浦半島や足柄・箱根を除く神奈川県の大部分の地域と町田市・多摩市・八王子市などの東京都南多摩地域を中心に路線バスや貸切バスの運行を行っているほか、東京駅・新宿駅からの深夜急行バスや、東京国際空港・成田国際空港への空港連絡バスを運行する。かつては横浜・町田・本厚木などから近畿地方各地や盛岡駅への高速バス路線の運行も行っていた(後述)。本節では、主にバス事業の歴史を中心として、関連事業についても適宜記述する。関連事業については主なグループ会社の節も、車両の歴史は車両の節を参照。2009年現在の神奈川中央交通が主な営業エリアとしている神奈川県中央部に乗合自動車が走り始めたのは、1910年に佐藤某が設立した合資会社による、厚木と平塚を結ぶ幌つき自動車による路線の開設に端を発する。これに続くように、1911年には相陽自動車が車両3台で秦野と平塚を結ぶ路線の運行を開始している。しかし、乗合馬車や人力車の方が安かったことや、道路が悪く運転技術も未熟だったこともあり、いずれも1年程度で廃業となっている。第一次世界大戦後の好景気により、横浜市内ではまず賃貸自動車営業が開始され、続いてその兼営という形で乗合自動車の運行開始が行われるようになった。1917年頃から個人営業による乗合自動車業が設立されるようになり、当時市街地として発展していた弘明寺を中心に、複数の乗合自動車が激しい乗客争奪戦を行っていた。そのうち、無益な競争をやめて整理統合する機運が高まり、1921年6月5日には横浜市大岡町を拠点として相武自動車が設立された。これが神奈川中央交通の直接的な起源である。その後、1920年には伊勢原自働車運輸が平塚と伊勢原市を結ぶ路線で運行を開始、さらに1921年には秦野自動車が秦野と平塚を結ぶ路線の運行を開始した。同年には大谷仁三郎により橋本と田名村(当時)を結ぶ路線などの運行が開始されているほか、厚木と横浜を結ぶ路線が厚木町(当時)の有力者により開設されている。厚木と横浜を結ぶ路線は1923年に設立された中央相武自動車に営業譲渡されている。この他にも、厚木と藤沢を結ぶ片瀬自動車商会、厚木と戸塚を結ぶ鶴屋自動車商会の路線が開業するなど、1930年でに10数社のバス事業者が設立されている。東海道本線の鉄道駅と大山道の宿場町を結んで開設された路線が目立った。一方、東京府(当時)でのバス営業は1934年に原町田乗合自動車が原町田と鶴川・淵野辺と小野路を結ぶ路線を開業させたのが端緒である。小規模なバス事業者の乱立は、結果的に競合による疲弊を招き、資本力のある事業者が小規模事業者を買収し合併することで、事業規模を拡大すると共に無益な競合を解消する気運が現れ始めた。こうした自主的な統合という方向性は、1931年に公布された自動車交通事業法の目的である「交通企業の合理化と交通事業の統制」にも叶うものであった。1928年には、伊勢原自働車運輸が同じく伊勢原を拠点としていたサンエキ自動車と合併し伊勢原サンエキ自動車と改称、1932年には伊勢原自動車へ社名変更を行った。1931年には、江之島自動車、片瀬自動車商会、鵠沼自動車を合併して藤沢自動車が設立された。この藤沢自動車は藤沢近辺にとどまらず、厚木・津久井方面まで沿線事業者と合併の上規模を拡大した結果、1937年には営業キロが約300kmに達し、車両数約60台を有する大手事業者となった。同年、藤沢自動車は京王電気軌道(現在の京王電鉄)の傘下に入っている。一方、1936年には原町田乗合自動車が関東乗合自動車に合併されているほか、相武自動車が鶴屋商会と戸塚自動車商会を合併した上で翌年に相武鶴屋自動車と改称した。1938年に東京横浜電鉄(現・東京急行電鉄)の傘下に入り、1939年には先に東横傘下に入っていた中央相武自動車を合併の上東海道乗合自動車と改称し、主に東海道本線沿線への路線展開を行った。1941年にはやはり東横系となっていた関東乗合自動車の町田営業所を継承して東京都内に進出、1942年には同じく東横系となっていた秦野自動車を合併したほか、江ノ島電気鉄道の2路線を譲受した。その一方、藤沢自動車と競合する相模鉄道では自社の相模線(現・JR相模線)を擁護するため、1935年に大谷仁三郎の個人経営だった橋本・渕野辺から田名にいたる路線を譲り受けた上、1936年には愛高自動車商会の厚木と上溝を結ぶ路線を買収し、沿線を自社バス路線の営業エリアとした。この時期までに譲受されたバス事業の概要は以下の通りである。なお、東海道乗合自動車は鎌倉市より南の三浦半島地区で営業していた湘南半島自動車と日本自動車道にも統合を持ちかけたが、親会社の京浜電気鉄道(現・京浜急行電鉄)が反発し議論は不調に終わる。結局湘南半島自動車が日本自動車道を吸収合併した後、京浜電鉄を経て大東急本体に組み込まれた。神奈中は京急沿線の横浜市金沢区に現在も路線を持っているが、これは東海道乗合が持っていた路線の流れを汲むものである。戦時体制に入ると、陸上交通事業調整法の公布により、バス事業者は極力統合する方向となった。1942年に東京横浜電鉄は京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)と小田急電鉄(現・小田急電鉄、京王井の頭線)を統合して東京急行電鉄(東急)となっていたが、東急は1943年に藤沢自動車の経営権を京王電気軌道から譲受して傘下に収めた上で、伊勢原自動車を買収した。さらに同年中には、東海道乗合自動車の経営にも東急が参加している。一方、1942年には陸運統制令に基づく鉄道省通牒により強制統合が進められる事となったが、この時に神奈川県では横浜市・相模・地区外という3ブロックに分けられることとなった。この時、町田地区は東京の調整区域から外されて相模ブロックに編入されることになった。相模ブロックの統合主体は東海道乗合自動車が選定され、1944年6月16日に藤沢自動車と伊勢原自動車を合併、神奈川中央乗合自動車が成立した。なお、江ノ島電気鉄道のバス路線については、既に一部の路線が東海道乗合自動車に譲渡されており、残った路線も1944年までには全ての路線が運休となっていたことから、事実上のバス事業廃止となった。この時点では相模鉄道のバス部門はそのままであったが、既に相模鉄道自身も東急の傘下にあった上、鉄道線が国鉄に買収され、神中線も東急に経営委託(事実上の統合)していたため、鉄道業における実体がなくなっていた。同社バス部門は1944年11月28日に神奈川中央乗合自動車に譲渡された。この時点で相模ブロックの統合が完了したのである。この時期までに統合されたバス事業の概要は以下の通りである。1945年には空襲に備え、本社事務所を伊勢原に疎開移転した。神奈川県中央部は、横浜・川崎と比較すると戦災による路線の被害は少なかったが、戦後の輸送量増加においては車両不足が顕在化した。このため、1946年(昭和21年)に神中自動車工業秦野工場を買収し、自社で車両再生を行った。また車両不足から運休に追い込まれていた横浜市内の一部路線を再開するため、東急電鉄とともに横浜市交通局と臨時運転契約を結んだ。1948年(昭和23年)、戦時統合により巨大な鉄道事業者となっていた東急(大東急)から、小田急・京急・京王帝都電鉄(現・京王電鉄)が分離したが、合併前は小田急の路線であった井の頭線が京王の所属となり、その代わりとして箱根登山鉄道とともに神奈川中央乗合自動車が小田急の傘下に入る事になった。なお同じ小田急グループの他のバス会社は当時まだ独立会社であった。小田急バスは旧社名を武蔵野乗合自動車といい、小田急の傘下に入るのは神奈川中央乗合よりも後の1950年(昭和25年)である。立川バスは戦前、南武線を運営していた南武鉄道(現・太平洋不動産)の子会社で、1954年(昭和29年)に小田急グループ入りした。また、東海バスが小田急グループに入るのは、それから20年近く後の1970年代に入ってからだった。同年にはディーゼルバスの導入を開始、戦時中は休止していた貸切バス事業も再開している。この時期、江ノ島電気鉄道(現在の江ノ島電鉄)では自社鉄道線の擁護を目的として、かつて江ノ電が経営していたバス路線の買収を図った。交渉の難航はあったものの、五島慶太の斡旋によって買収が決定、1949年6月に藤沢・鎌倉・大船・弘明寺地区の路線の一部が江ノ電に譲渡された。1951年6月には社名を神奈川中央交通に変更した。1953年には本社を平塚市に移転した。沿線住民や利用者からは、この時期から「神奈中」という通称で呼ばれるようになった。本項でも、以下神奈川中央交通を「神奈中」と表記する。1950年代後半に入ると、人口増加地域である神奈中エリアの通勤需要は増加の一途を辿る。特に東海道線沿線の鉄道フィーダー輸送の必要性が高くなっていたことから、1953年(昭和28年)に藤沢駅と横浜駅を結ぶ路線を15分ヘッドで運行し、急行便も新設した。その後、国府津駅までの鉄道と並行する路線も同様に運行便数の充実を図り、さらに各鉄道駅から住宅地への路線を新設して鉄道との連携輸送を行った。同様に人口が増加していた小田急沿線からの路線も拡充し、町田地区では道路改良と共に次々と路線新設を行ったほか、宮ヶ瀬(清川村)や青根(相模原市緑区)などの山間集落にも路線を展開した。1956年までの3年間に導入した車両数は126台となり、約90系統が新設されている。1958年(昭和33年)には京王との相互乗り入れという形態で東京都内にも路線拡大を展開、調布市や関戸へも乗り入れた。一方、横浜市内では横浜市交通局や相模鉄道との路線免許申請の競合が多くなったが、1960年頃からは各社で申請前に協議することになり、1962年には3社で運輸協定を結んだため、以後競願による認可の遅れという事態は回避されることになった。これらの路線規模の拡大と共に営業拠点の新設も行われ、1957年からの5年間で233台もの車両増備が行われた。1963年以降は、町田・横浜地区並びに小田急沿線での大規模団地造成と共に大幅な輸送力増強を迫られた。これに対応するべく車両の増備が急速に進められ、1970年に路線バスの保有台数は1,000台を超え、営業所を郊外へ移転すると同時に敷地面積も拡大するという手法がとられた。この時期、神奈中では関連事業の拡大にも着手している。1959年4月には湘南平にレストハウスを建設、これにあわせて同年8月17日には神奈中商事を設立した。1962年からはスーパーマーケット「神奈中ストア」を開業し、沿線各地への店舗展開を行ったほか、クリーニング業にも着手した。また、1964年7月からはボウリング場の建設を進め、最盛期には沿線に11店舗にまで拡大した。1967年から不動産業にも進出、鎌倉市・二宮町などで宅地分譲を行った。このように輸送力増強に追われる中、要員不足が顕在化することとなった。特に車掌の採用難が厳しくなったことから、当時都市部の一部路線で行われていたワンマン化を進める事になった。しかし、ワンマン化自体は1951年に大阪市交通局で実施されていたが、それまでワンマン化されていた路線は均一運賃体系の路線が主で、多区間運賃制路線では申告制前払いとしたところもあった。しかし、神奈中の大多数の路線のように運賃区間の多い路線での多区間運賃制へのワンマン化事例は当時存在せず、運賃収受の確実化を図る必要があった。そこで、乗車停留所を明確にするために、乗車時に乗車整理券を取り、乗客は降車時に整理券と照合して運賃を支払うという「整理券方式」のワンマンバスを導入する事になり、1962年11月1日より試験的に運賃区界数2区間の路線でワンマン化が開始された。この時の整理券はボール紙で、前扉付近に整理券ホルダーを設置した。以後、神奈中の乗車方法は前乗り前降りが基本となる。その後も機器の開発を進め、1964年4月には運賃区界数5区間の路線でもワンマン化が行われたが、この時には色分けされたプラスチック板の整理券を乗車時にボタンを押して受け取る方法となり、さらに同年10月には運賃区界数8区間の路線にも導入された。それを受けて、1965年2月1日より伊勢原と茅ヶ崎の2営業所で本格的なワンマン化を開始した。1966年にはロール紙に1枚ずつ番号を印刷してカットする機構が開発され、運賃区界数にかかわらずワンマンバスの運行が可能になったことから一気にワンマン化を促進し、同年10月1日には山間部の一部路線を除いてほぼ全路線がワンマン化された。日本では多区間運賃制路線でのワンマン化は神奈中が初であり、会社の規模としては急速かつ広範囲にワンマン化が進められたが、監督官庁から安全性を危惧する意見があり、狭隘な道路では待避所やカーブミラーの設置を進めると共に、見通しの悪い踏切などでは自社で交通整理要員を配置して対処した。また、当時はワンマン化に反対するバス事業者が多く、他社の労働組合からワンマンバス導入展開にクレームもあり、労使共に説得したこともあるという。しかし、ワンマン化は時代の趨勢であり、以後整理券方式のワンマンバスは日本全国に拡大され、乗降ドアの違いなどはあるものの、日本のバスにおいて標準的な運賃支払い方式となった。神奈中においては、1974年5月の大秦野駅とヤビツ峠を結ぶ路線を最後に、完全ワンマン化を達成している。1970年代になると、既に開発の進んだ鉄道沿線から離れた外縁部へも宅地化が進むことになった。1971年に入居を開始した多摩ニュータウンでは、ニュータウン鉄道の開通まではバスに通勤輸送が委ねられることとなり、神奈中と京王が輸送を担当した。さらに都心から離れた厚木・伊勢原・秦野・平塚においても住宅地の造成が進み、路線と車両増強を繰り返した結果、小田急線・東海道本線沿線各駅のバス路線の集積度はきわめて高くなった。また、自家用バスによる送迎が行われている企業や学校での車両代替に着目し、1975年以降は特定バス事業にも着手した。運行や車両整備はバス事業者が行うが、運行形態やバスのカラーリングなどは顧客側で決定するというもので、積極的にセールスを行ったことによって特定輸送の運行規模はその後大幅に拡大され、その後の神奈中のバス事業の基幹の1つに位置付けられている。1976年には山間部の路線において停留所以外でも乗降が可能な自由乗降方式の採用も開始した。関連事業においては、ボウリング場の乱立による競争の激化で経営が悪化、1974年5月までに一部の店舗を除いて撤退することになったが、用途のなくなった建物の有効活用としてスイミングスクールの運営を1976年10月から開始し、これをきっかけとしてテニススクールやフィットネススタジオなど、スポーツ事業への参入も開始した。また、不動産業では沿線外の宅地分譲も行うこととなり、1974年から1985年までに兵庫県三木市・愛知県名古屋市・岐阜県岐阜市・秋田県秋田市での宅地分譲を行っている。また、市街地の再開発などにあわせて、自社用地に建設したビルを使用した賃貸業務も拡大させている。この他、老朽化した営業所建屋を改築した際に生じた空きスペースを利用して、食堂業へ進出することとなり、1977年10月24日からは「サッポロラーメンくるまや」(当時)と業務提携を行うことによってラーメン屋の営業も開始している。ベッドタウンの外延化と共に、利用者からは路線バスをもっと遅くまで走らせることに対する要望が強くなっていた。神奈中においても例外ではなく、1970年5月には入居が開始されてから間もない鶴川団地の住民より、最終バスを延長するように申し入れがあった。神奈中ではこの要望への回答として、同年7月27日より鶴川駅→鶴川団地行きのバスについて23時10分と23時30分の深夜便を設定したが、このバスは通常の路線バスと異なるサービスを提供するという観点から道路運送法24条の2「貸切自動車運送事業による乗合許可」を適用した貸切扱いとし、運賃を通常の3倍に設定、定期券は利用不可とした。これが日本初の深夜バスである。当日の第1便は8名の利用者よりも報道陣が目立った状態で、運賃設定などに反発した一部の住民が、会員制の「自主バス」を運行したり、運賃制度について大学教授・利用者代表と会社役員がNHK番組で論戦を行うなどの動きもあったが、路線拡充や深夜バス運賃の据え置きや引き下げにより深夜バスに移行したため、1980年までに「自主バス」は廃止となった。運輸省でもバスの終車延長には積極姿勢を見せ、1970年12月には「大都市周辺部の深夜バス運行について」という通達を出した。しかし、深夜バスは、不規則労働となる乗務員に手当てを支払った上で採算性が確保できるかどうかの判断が、事業者によって分かれる。このため、関東地方に限っても深夜バスを運行する事業者が大幅に増加するのは深夜の交通機関の確保について運輸省が再度勧告を出した1986年以降である。深夜バスの採算性を認めた神奈中においては、深夜バスの運行系統は年毎に増加し、東京都内の全事業者を合わせた深夜バスの系統数が約50系統となった1987年の時点で、神奈川県内では既に神奈中だけで50系統以上の深夜バスが運行されていた。1980年代に入ると、日本のバス事業全体の傾向としてモータリゼーションと道路渋滞による走行環境の悪化と利用者減少に見舞われるが、神奈中の営業エリアは人口増加が続き、バス利用者も増加した。人口増加や企業・学校の郊外移転などで、鉄道からのフィーダー輸送の役割が求められたためである。1980年代以降は沿線に大学の新設や移転などが続いたため、通学輸送の増強も行われる事になった。既に1971年には相模原市に北里大学が移転していたが、1980年代初頭には相模原地区における輸送の要となっていた。1981年に会社創立60周年を迎えたが、この時に先人達の苦労を伝えるという意味で薪バス「三太号」を復元した。薪バスは沿線各地で展示なども行われた。同年、平塚市の本社の改築が終了したが、それまで本格的なレストランがないという声が地元からあったため、本社に併設された平塚グランドホテルの地下にレストランもオープンさせた。また、1982年にはデジタル式運賃表示器を、1985年(昭和60年)には大型方向幕を導入するなど、路線車両のサービス改善にも積極的に取り組んだ。特に1987年(昭和62年)4月には一挙に300台もの新車導入が行われ、同年5月には全車両の冷房化を達成した。1988年にはそれまですべてを人手に頼っていたバスダイヤの作成を自動化すべく、バスダイヤ自動作成システム「AIDIA」も稼動開始し、日本のバス業界の注目を集めた。1984年からは遊技場(パチンコ店)経営にも着手したほか、1990年(平成2年)10月30日には伊豆半島にゴルフ場「中伊豆グリーンクラブ」をオープンさせている。また、当初は社有地の有効活用として進出した食堂業については、事業拡大のため用地の購入や賃貸による出店を行うことになり、1983年6月には沿線外への店舗展開も開始された。ラーメン屋の名称は、1989年3月17日から「くるまやラーメン」に名称変更された。また、サーティーワンアイスクリーム・ミスタードーナツ・ケンタッキーフライドチキンなどとの提携による出店も開始されている。神奈中では、回数券利用者が全乗客の27%を占めており、定期券利用者とともに固定客とみられていた。事業区域内の大半の路線が多区間運賃制であり、どの区間にも対応させる目的で金種別に19種類もの回数乗車券を発売していたが、すべての利用者に満足できるものではなく、また後方業務も複雑になっていた。これを解消するため、神奈中はプリペイドカード式回数乗車券(バスカード)の導入を決定した。当時、バスカードは一部の均一運賃制路線での導入例はあったが、多区間運賃制の路線に対応したシステムは存在しなかったため、システムを新規に構築する必要があった。1985年に三陽電機製作所と共同でシステム開発に着手、1987年10月20日より伊勢原の路線バス15台にて実用化を前提とした試験を開始、この結果を受けて1988年5月9日より「神奈中バスカード」の運用を開始した。これは多区間運賃制路線では日本初のバスカード導入事例であり、1990年3月26日には全車両での導入を達成している。システム開発と導入にあたって、運輸省より「昭和63年度バス交通活性化補助」を受けているが、バスカード導入で補助対象になったのも日本で初めてである。同時期には奈良交通や長崎自動車でもバスカードシステムが導入されており、この後バスカードシステムを導入するバス事業者は増加してゆくことになる。また、神奈中バスカードはその後バス共通カードへ発展解消していく事になるが、当初は神奈中のバスカードに採用されていたシステムとバス共通カードを導入していたバス事業者のバスカードのシステムが異なっていたため、バス共通カードが完全に導入されるまではバス共通カードを使用できない車両が存在したが、一方でカードの割引率などは神奈中バスカードにおいて設定されたものがバス共通カードでもそのまま踏襲されており、PASMOの「バス利用特典サービス」の特典バスチケットにもその金額は引き継がれている。一方、同じく神奈川県をテリトリーとする京浜急行電鉄(現・京浜急行バス)は1986年、夜行高速バス「ノクターン号」の運行を始める。この路線の成功をきっかけとして、日本ではブームの如く夜行高速バス路線が開設されることになった。神奈中もターミナルとして地元の横浜と町田に着目し、1989年(平成元年)2月28日から奈良交通との共同運行により、横浜と奈良を結ぶ夜行高速バスの運行を開始した。同年中には京都・大阪・和歌山・広島への路線を開設、1990年7月5日には盛岡への路線を開設した。1989年末からは深夜急行バスの運行も開始している。しかし、ここまで順調に規模を拡大してきた神奈中も、バブル経済崩壊後の不況の波から逃れることはできなかった。1991年に年間輸送人員が3億2百万人に達したのをピークとして、1992年以降はバス利用者数は減少傾向となった。神奈中沿線に製造業が多いこともあり、消費低迷は製造業での業務縮小を招いた。さらに少子化による通学需要の減少も作用し、路線バス利用者は年毎に減少してゆく。これに対応するべく、1995年の路線バス車両はすべて中型車での導入となり、同年には町田・平塚・戸塚営業所に置かれていた貸切・観光バス部門の大半を子会社の神奈中ハイヤーに移管した。その後、2000年に神奈川県の第三セクター・神奈川県観光(当時)の経営悪化に伴い同社の株式を取得の上子会社化、同社の新横浜営業所とし、2002年に県観光は神奈中ハイヤー観光バスに称号を変更、更に神奈中ハイヤーの貸切バス部門(町田・平塚・戸塚)を神奈中ハイヤー観光バスに移管した上で、2004年に神奈中観光に改称した。なお、この間の2002年2月には小田急グループ自体の事業再編の一環として、旧箱根登山観光バスの東京観光営業所(町田市鶴間)を神奈中ハイヤーで譲受し、野津田車庫に置かれていた自社の町田営業所と統合の上、旧箱根登山観光の営業所に移転している。関連事業においては、それまで「くるまやラーメン」のフランチャイズとして展開していたものを2000年に提携解消し、「らーめん花楽」として独自の店舗展開を行うことになった。また、1999年からはビデオ・CDレンタル事業(TSUTAYAのフランチャイズ)も開始した。その一方で、これまでの神奈中にはなかった施策もいくつか行われている。神奈中は元々大型車が中心で、狭隘路線など限定された範囲で中型車が導入されていた状態であった。これは、幅2m程度の小型車ではワンマン運行に適した車両が少なかったことによる。しかし、住民からの路線開設要望が多い路線については、リアエンジンの小型バスが販売開始となった事を機に、1992年10月から3路線で小型バスによる路線の運行を開始した。一方、藤沢市の藤が岡団地では、駅からの途中に急坂がある上に住民の高齢化が進んでおり、路線バス運行の要望が高くなっていた。神奈中では路線開設に向けて検討した結果、小型バスを使用すれば運営が可能と結論づけ、1997年5月より団地循環の路線を開設した。団地内では約100m毎に停留所を設置、バス車内には住民が自由に使用できるコミュニティボードを設置するなど、コミュニティバスと同様の設定ではあるが、自治体からの補助は得ていない。使用する車両には「湘南ロコ号」と愛称が付けられた。以後、同様のミニバス路線がいくつか開設されている。一方で、1996年に箱根登山鉄道バスが秦野地区から撤退することになり、その受け皿として湘南神奈交バスが設立された。これを母体として、1997年からは相模原地区において同社への移管を行ったのを皮切りに、新たに地域毎に分離子会社の設立と管理委託などを進め、運行コストの低減を図った。また、移管された路線の大半では不採算路線の増収策として車内で物品販売も行われ、マスコミにも「車内売店のあるバス」として話題を提供した。販売品目に米が加わった際には売店の設置された各車両を米穀小売販売業者の店舗として神奈川県知事に登録していた。これと並行して不採算路線の整理も進められる事になり、2002年までに極端に乗車率の低い路線は廃止された。この頃、環境問題がクローズアップされていた折、神奈中でも環境問題に取り組むことになった。基本的にはマイカー通勤からバス通勤への移行を呼びかけるものであるが、ただ呼びかけるだけではバス会社の都合と受け止められる可能性を考慮し、バス会社側でも新しい運賃制度を導入することが必要と考えられた。検討の結果、ドイツにおいて導入されている環境定期券制度の導入を行うことになった。これは通勤定期券を所持している利用者と同伴の家族が土休日に神奈中の一般路線を利用する際には1回の乗車が現金100円になるというものであるが、制度の導入だけではなく、広告塔に相当するものが必要と考えられた。そこで、知名度が高く他社が使用していないキャラクターを選定することになり、アメリカで環境問題について使用されているスヌーピーが選ばれた。版権を持つ法人にも「環境保全が目的」と認められ、格段の配慮があったという。こうして、1997年9月20日の日本で初となる環境定期券制度導入と同時に「スヌーピーバス」が運行開始された。スヌーピーバスは2年間で40台が導入され、2002年まで運行された他、一時期は江ノ電バスでも運行されている。1997年夏には、これからバスを利用する世代となるであろう児童層に着目し、路線バスの利用方法を覚えてもらうという趣旨で「ちびっこ50円キャンペーン」を開始した。現金払いの場合は一般路線の全路線で小児運賃50円となるというもので、当初は長期休暇とゴールデンウィークのみの実施であったが、多い時には1日1万3千人もの利用があるなど一定の効果が認められた事から、後年すべての土曜・休日に適用を拡大している。また、高齢者向けの施策としては、1996年より敬老の日に65歳以上の運賃を100円とするサービスを行った後、2001年6月より「かなちゃん手形」の発売を開始した。これは、初めに購入するパスを安価に設定、パスを提示した場合は乗車1回につき運賃を区間にかかわらず100円とするもので、1回毎の運賃を安価に設定することで乗車回数を増やす事を目的とした施策である。1日1万2千人の利用があるという。当初は車内でも発売していた。これと同時に、一般路線の全線に有効な「一日フリー乗車券」の発売も開始している。1999年、神奈中では田村車庫・本厚木駅から羽田空港へ向かう空港連絡バスの運行を開始、好調となったため、以後町田・相模大野・港南台・辻堂・藤沢の各駅から羽田空港・成田空港を結ぶ路線も運行を開始した。一方、夜行高速バスでは乗車率が高いにも拘らずコスト割れする路線もあり、生活路線でない赤字路線の運行を続ける理由はないとの見地から、広島・和歌山・奈良への路線は廃止され、盛岡への路線は岩手県交通の単独運行となった。その他の路線は子会社の運行コストであれば存続可能と判断され、湘南神奈交バスに移管された。後に横浜神奈交バスに再移管されている。2004年以降は、他バス事業者からの路線譲受も行われた。2004年2月には、横浜市交通局からの路線移譲について申し入れがあったことから、2005年から2008年にかけて段階的に11系統を譲受した。また、相模鉄道からも同じ時期に同様の申し入れがあったため、こちらも2006年から2008年にかけて4系統を譲受している。さらに、2006年には「横浜市生活交通バス路線維持制度」の対象となる15系統について公募が行われたが、そのうち3系統については2007年から横浜市交通局に代わって運行を開始した。2009年3月26日からは、茅ヶ崎・辻堂駅発着の一部路線で自転車をバスに搭載するサービスが開始された。自転車を搭載可能な路線バスは前例があるが、バスの前面に自転車ラックを設置し、自転車をバスの前面に積載する方式は日本初の導入例である。2011年10月1日より、舞岡操車所の路線バス50台の運転席後方にモニターを設置し、ニュース・天気予報・広告などを放映する「かなch.」というサービスを開始した。関連事業においては、2004年からは温浴施設(スーパー銭湯「湯快爽快」)の運営に参入する一方で、スーパーマーケット「神奈中ストア」は2007年9月30日をもって全店舗閉鎖となり、同時期にバス車内における物品販売も終了となっている。通勤・通学路線においては、新しいタイプの公共交通の模索も進められた。湘南台駅と慶應義塾大学藤沢キャンパスを結ぶ路線は、朝のバス待ち行列が250人近く並ぶ有様で、通常のバスでは捌ききれない状況であった。また、駅前広場の状況も警察により一般車の乗り入れ規制や交通指導員の配置なども行われていたが、通常のバスによるこれ以上の増発は困難な状況であった。このため、2003年には藤沢市が中心となって新たな公共交通システムを導入するための検討委員会が設立され、道路交通の遠隔化やバリアフリー化、さらに交通不便地域でのミニバスによるフィーダー路線運行によるマイカー抑制や環境保全などを目標と定めた。その前提として、1台あたりの定員の多い連節バスを基幹路線に導入することになった。日本において連節バスを製造していた富士重工業は当時既にバス車体製造から撤退しており、交通バリアフリー法が制定されていたため床面地上高を550mm以下に抑える必要もあったことから、輸入車を導入することになり、大阪府の中央交通が日本総代理店となるネオプラン製セントロライナーを導入する事になった。これは日本の道路運送車両法により定められた連節バスの構造要件には合致しない車両であったが、自治体及び警察の協力も得られたことから特別に認可され、2005年3月14日より「ツインライナー」と命名された、日本では初めての導入となるノンステップ連節バスが運行を開始した。本路線を基幹路線とし、慶應義塾大学で「ツインライナー」に接続し、ミニバスで周辺地区を循環する支線バスによる交通網の拡大も行われた。これに続き、厚木市は朝方通勤時のバス利用者が多い厚木アクストへの通勤路線に連節バスの導入を検討し、2006年には独自の補助金制度を定めた。しかし、この時には藤沢市で導入されていたセントロライナーが日本向け車両の供給を中止しており、車種選定を改めて行うことになった。神奈中では三菱ふそうトラック・バスに対して、日本での連節バス製造の可能性について打診したが、三菱ふそうは日本での製造は困難と回答し、代わりにダイムラーグループのエボバスが製造するメルセデス・ベンツ・シターロの導入支援を行うことになった。受注にあたり、欧州規格のままの車体幅2.55mで非常口扉を設置しないという日本の道路運送車両法による保安基準をさらに超える仕様での製造という条件があったが、神奈中では藤沢市での連節バス運行実績を基に独自で基準緩和を働きかけ、2008年2月4日より厚木市内でも連節バスの運行が開始された。日本国内で欧州規格そのままの路線バス車両導入は初めての事例である。これらの基準緩和に対する神奈中の行動力には、三菱ふそう関係者も大いに刺激を受けたという。神奈中では、日本全国でも連節バスの導入が広まる事を期待しており、連節バス導入を検討する他県の自治体に対して連節バスの貸し出し・実証実験運行や展示・試乗会への協力を行っている。2008年8月には新潟市へ、2009年10月には浜松市への貸し出しが行われた。連節バスは2012年5月28日から、藤沢市と厚木市に引き続き、町田市内でも運行が開始。東京都内の一般路線で連節バスが運行される初のケースとなった。先述の通り、1996年の湘南神奈交バス設立以降順次進められてきた、神奈交バス5社への一部路線移管および運行管理の委託だったが、エリアの特性に応じた事業環境や効率化・最適化などを考慮し、この従来までの体勢を一新することが、2015年3月26日に行われた取締役会において決議された。効力は2017年1月1日で、バス事業をエリアごとに神奈川中央交通(神奈川中央交通+横浜神奈交バス、相模神奈交バス町田営業所を含む)、神奈川中央交通東(藤沢神奈交バス+相模神奈交バス)、神奈川中央交通西(湘南神奈交バス+津久井神奈交バス)の3社にそれぞれ吸収合併し再編、これにより従来の神奈交バス5社は消滅する予定。現在判明している再編の概要は、概ね以下の表の通りである。なお、この表は2016年4月の会社発表に基づいたもので、再編後の営業所名や実際の営業での管理体制(路線が直轄となるか、運行管理の受委託が発生するか)などの詳細は不明である。神奈川県内及び東京都南多摩地域を中心に、2011年1月の時点で約700路線を運行している。1960年代以降は当時収益性の高かった貸切バス事業の増強を抑え、路線バス事業を中心とした経営に徹し、1989年時点では全営業収入の79.4%が路線バス事業による収入であったことなど、バス事業の収入比率が極めて高いことが特徴とされていた。1987年のインタビュー記事では、1つの路線に複数事業者が参入することは「客足が落ちた時に先に逃げた方が勝ちで、責任逃れが出来る」という理由により、決して好ましいことではないとしていた。ほぼ全車で傘の販売を実施しているほか、一時期は収支改善のための努力として各神奈交バスの委託中型車に売店スペースを設置していた。なお、傘など一部を除き、車内物販については2008年3月31日をもって廃止となった。将来の催しや施設が出来ることを見越し、採算度外視で運行している路線が2011年1月の時点で10路線ほど存在する。これらの路線は免許維持路線と称されており、廃止は考えられていない。一般路線の詳細については各営業所の記事を参照のこと。ワンマン化以後、乗降時の事故防止と運賃収受の適正化の観点から、乗客の指向が鉄道駅などの一点に集中している路線や時間帯、また均一運賃区間の路線などを除き、乗降ともに前扉を使用する「前乗り前降り」方式を基本としていた。しかし、利用者の要望やバリアフリー対応という観点から、中扉から乗車して前扉から降車する「中乗り前降り」方式の検討を進め、2006年3月から伊勢原営業所管内で「中乗り前降り」方式の実証実験を開始した。その後事故や問題などは発生しなかったことから本格導入に移行した。神奈中では、停留所付近のバリアフリー整備など関係機関の協力が得られ次第、この乗降方式を拡大したい、としており、2012年3月24日から茅ヶ崎営業所管内、同年10月29日から伊勢原営業所秦野操車所(湘南神奈交バス秦野営業所を含む)管内、2013年6月24日から平塚営業所(湘南神奈交バス平塚営業所を含む)管内、同年10月27日から相模原営業所(相模神奈交バス相模原営業所・津久井神奈交バスを含む)管内、2014年3月24日から厚木営業所(相模神奈交バス厚木営業所を含む)管内、同年9月24日より綾瀬営業所管内及び茅ヶ崎営業所藤沢操車所(藤沢神奈交バス藤沢営業所を含む)管内、2015年3月23日から戸塚営業所管内、2016年3月22日からは大和営業所(藤沢神奈交バス大和営業所を含む)管内でも一部の路線を除いて「中乗り前降り」方式へ変更された。また、横浜市内均一運賃の区間を多く持つ横浜営業所(舞岡操車所・横浜神奈交バス舞岡営業所含む)と横浜神奈交バス中山営業所では、対キロ路線も含む全路線で「前乗り中降り」の運賃先払い方式を採用している。そのため、現在は営業所・路線ごとに乗降方式が混在している。路線再編に伴い、一部の停留所を発着する路線で乗り継ぎ割引を行っている。乗務員は、旅客案内や車内事故防止の呼びかけなど、頻繁に車内アナウンスを行っている。また、発車時に指差呼称を励行している。1976年から指差呼称が導入されたが、1977年11月から1978年5月にかけて事故が多発したことから、強力な実施指導に切り替えたもので、1982年4月からは運行中の指差呼称を義務付けた。2002年2月以降はそれまでに発生した事故の教訓から、内容を「左よし、前方よし、右よし」から「左よし、下よし、右よし」に変更した。交通ジャーナリストの鈴木文彦は、「ほぼ全員に徹底しているケースでは、神奈中グループがトップであろう」と評している。"深夜急行バスについては神奈川中央交通平塚営業所と神奈川中央交通横浜営業所舞岡操車所を参照。"かつては神奈中本体で6路線の夜行高速バスを運行していた。その後、採算性の悪化により廃止や神奈交バスへの移管を経て、共同運行会社による単独運行や他系統への統合が行われた。路線自体は存続しているが、神奈中では予約・発券業務のみを担当している。そのため現在は昼行高速バスと空港連絡バスのみ運行している。神奈川中央乗合自動車が発足した後、戦後1948年7月には貸切バス事業を再開している。その後も事業区域の拡大が進められたが、1960年代以降は貸切バス台数の増強は控え、帰省バスやスキー・スケートなどの需要拡大を強化する方向性となった。1995年7月には一部を除いて神奈中ハイヤーに貸切バス事業を譲渡(現在は神奈中観光)し、その後は企業の送迎などに使用される契約貸切や、路線バス車両を使用した貸切営業に限られている。神奈中の特定旅客事業(特定バス)は、1975年に東京都教育委員会の養護学校スクールバス運行を受託したことが始まりである。その後、企業送迎や学校スクールバスの自家用車両の代替に着目し、再雇用者によるコスト低減や運行計画・車体デザインの受け入れ態勢などを整備した上で、専用のパンフレットまで作成してセールスを行った。この結果、顧客が大幅に拡大し、神奈中の事業の柱の1つにまでなった。他の事業に使用される車両と異なり、特定輸送バス事業における車種や車両仕様、外装デザインはさまざまであるが、これは特定輸送は顧客の要望が反映されるためである。例としては、着手のきっかけとなった東京都教育委員会のスクールバスにおいて、他の地区にあわせて東京都交通局の貸切バス塗装が施されていた事例や、伊勢原営業所の福祉施設送迎用車両で三菱デリカスペースギア4WD(定員6名・リフトつき)が採用されていた事例などが挙げられる。統合により神奈川中央乗合自動車が発足した1944年6月16日の時点では、以下の営業所が存在した。その後、同年9月16日には茅ヶ崎営業所を平塚営業所に統合したほか、相模鉄道のバス事業譲り受けに伴い、同年11月28日に上溝営業所が発足している。戦後、1952年2月23日に鶴間営業所が開設されたことに伴い、町田営業所は鶴間営業所の出張所となった。1954年には弘明寺営業所の業務を横浜市南区笹下町に新設された横浜営業所に移転、1958年6月25日には町田営業所が開設され、逆に鶴間営業所は町田営業所の出張所となった。同年9月22日には、上溝営業所が移転の上相模原営業所に改称している。1960年には中野営業所を津久井営業所に改称した。1960年代以降、輸送力の増強に伴う車両の増加に対応するために、営業所を郊外へ新設や移転を行い、同時に敷地面積も拡大するという手法がとられた。まず1962年には厚木営業所上荻野出張所(当時)・戸塚営業所長後出張所(当時)が開設され、翌1963年4月20日には戸塚営業所を戸塚駅前から郊外(横浜市戸塚区中田町)に移転、同年5月10日には舞岡営業所が新設されたほか、1963年12月25日には横浜営業所本郷出張所が竣工、1964年8月15日には平塚営業所から分離して茅ヶ崎営業所が設立された。なお、命令系統の明確化を目的として、1962年以降は各営業所は運輸部所属部門から社長直轄の事業所に変更された。1965年に車両数が1000台を超えると、さらに郊外への移転が進められた。1966年6月10日に秦野営業所が移転、1968年には平塚営業所田村操車所が竣工、1969年には町田営業所が移転、1970年には町田営業所から鶴間操車所が分離して大和営業所が発足、1971年には相模原営業所峡の原車庫が開設され、1972年には厚木営業所も移転した。1973年には貸切業務が平塚・戸塚の2営業所に統合されたほか、戸塚営業所長後操車所を藤沢営業所に、津久井営業所の橋本操車所を相模原営業所へそれぞれ移管した。1988年12月24からは藤沢営業所から分離するかたちで綾瀬市吉岡に綾瀬営業所が開設され、藤沢営業所長後操車所は廃止された。2001年7月29日には多摩営業所が開設された。2005年4月16日からは、藤沢営業所は茅ヶ崎営業所藤沢操車所に、津久井営業所・城山操車所2005年4月16日よりそれぞれ相模原営業所三ヶ木操車所・相模原営業所城山操車所)に、秦野営業所は2008年5月16日より伊勢原営業所秦野操車所に、舞岡営業所は2011年10月16日より横浜営業所舞岡操車所に変更された。各地区の神奈交バスへの全面的な管理委託が行われたことによるもので、神奈川中央交通本体としての営業所機能は廃止された。なお、2009年6月からは、それまで社長直轄事業所であった各営業所は、運輸営業部に所属する部門に変更された。各営業所の特徴として、乗務員の休憩室と事務室の仕切りがなく、事務員が多忙の際には休憩中の乗務員が外部からの問い合わせ電話を受けることもあるという点が挙げられる。営業所名後ろの括弧内の平仮名及び英字は営業所を略記する際の記号。個別の路線については各営業所及び操車所の項目を参照のこと。なお、藤沢・津久井・秦野・舞岡については、子会社への全面委託化に伴う操車所化であり、それぞれ神奈交バスの営業所として現存している。また、事業再編の項での先述通り、舞岡については2017年の事業再編で再び神奈川中央交通の営業所となる予定。記号は各社の自社所有車両に使用される(受託車両には用いない)。なお、所在地に併記した営業所名は、各神奈交・観光の営業所が所在する神奈中本体の営業所・操車所を表す。なお、この他に以下の子会社が限定的に路線バスを運行している。本節では便宜上、大型車のうち全長が10.5mから10.9mの車両を「標準尺車」、全長が9mから10.5m未満の車両を「短尺車」、全長11m級の車両を「長尺車」と標記する。神奈中の前身となる事業者の1つである鶴屋商会では、フォードやビュイック、レオなどの輸入車両が使用された記録が残っている。1940年10月になると、石油消費規制が強化されたことに伴い、保有車両の7割が代用燃料化された。さらに、1941年8月には液体燃料配給停止の措置がとられたため、保有車両の全車両が代用燃料化されることになった。当初は代用燃料は木炭と薪が使用されていた。神奈川県内では清川村が良質の木炭の産地であった。地元民からは「木炭を特別に配給するからダイヤの完全運行をしてほしい」という依頼もあったという。ところが、1945年に入ると県内産木炭の入荷が途絶え、やむを得ず福島県から鉄道輸送によって木炭を入手することになった。しかし、神奈川県産の木炭と比べるとガス発生量は少なかったという。その福島県産の木炭さえも入手が難しくなり、最終的にはほぼ薪に頼る状態となった。薪については、代用燃料導入当初は、ガス発生にも適する状態のよく乾燥された良質の薪が入手できていたが、1944年頃からは乾燥が不十分な状態のままで入荷することになった。薪の産地は丹沢の森林地帯で、トラックや座席を撤去したバスで足柄上郡三保村まで直接取りに行っていたという。終戦直後になると、薪の加工工場の生産能力が間に合わず、1946年には渋沢に薪生産工場を設けて自社生産を行った。燃料以外の保守部品も不足しており、エンジンオイルは鉱物油・植物油・魚油を混合したものを使用し、しかも一度使用したオイルは再生の上配給に回された。窓ガラスが破れた場所には板が張られ、雨漏りの補修もままならず、雨の日には車内で乗客が破れた傘をさしている光景も見られたという。なお、空襲を避けるため、横浜市内の路線を担当する戸塚営業所では全車両に装甲車に見えるようなカムフラージュを施して営業していたという。戦後、稼動車両を早期に増強しないと収入が見込めない状態であった。しかし、バスはシャーシが割り当てられたものの架装すべき車体がない状態であった。また、部品を他の車両に流用したままになっていた遊休車両もあった。そこで、秦野町(当時)にある神中自動車工業秦野工場を買収し、秦野工場として自社で車両整備を行うことになり、1947年から秦野工場として本格的に業務が開始された。同工場で再生された車両は、自製のボンネット周りに外観上の特徴があった。また、戦後の貸切バス再開に伴い、1936年式のフォードの内装を改装した貸切バス車両を2台導入したが、これも秦野工場で再生された。秦野工場は各営業所の付属工場の整備が進んだ1953年に閉鎖されたが、戦後の車両復興に大きく貢献した。1948年10月には、初のディーゼルバスとしていすゞ・BX91型が5台導入された。翌1949年に導入された車両からは、路線バス車両のカラーリングについて、ベース色がクリーム色に変更された。1963年には、清川村の札掛へ乗り入れる路線が開設されたが、この路線に導入された車両は、当時の神奈中としては唯一のマイクロバスであった。高度成長期は輸送力増強に対応するため、道路環境が整備されているとは限らなかったにもかかわらず、高度成長期から1990年までの神奈中で導入される車両の大半は長尺車であった。車両数も別表に見られるように増加の一途を辿り、特に厚木営業所では1985年度に所属台数が200台を超えている。1980年代半ばに神奈川三菱ふそう自動車販売が傘下となってからは三菱ふそう製車両の導入が多くなり、2005年時点では9割以上が三菱ふそう車となっている。相模原・多摩・戸塚・平塚・町田・横浜など、大型路線車のほとんど全車が三菱ふそう車で占められている営業所も多数存在する。いすゞ製の車両は綾瀬・茅ヶ崎・藤沢・大和の各営業所に多く、日野製の大型車両はハイブリッド車と一部のブルーリボンII以外は全車両が伊勢原営業所に配置され、日産ディーゼルは主に厚木・平塚・秦野の各営業所に配置された。各メーカーの車両とも、1990年以降はノンステップバスなど一部の短尺車を除き標準尺車のみの導入に統一されている。狭隘路線や閑散路線には中型車も導入されており、こちらもかつては4メーカーから導入していたが、日野製の中型車は2009年までに全廃となり、現在は三菱ふそう製といすゞ製と日産ディーゼル製のみの在籍となっている。1985年製の車両までは6年から8年程度(長くても10年程度)で廃車されるケースが多かったが、近年は使用年限を延長しており、2001年時点で最も古い車両は1987年式であった。一般路線車の車体は、三菱ふそう製は伝統的に(呉羽自動車工業→新呉羽自動車工業→三菱自動車バス製造→)三菱ふそうバス製造、日野製は日野車体、いすゞ製は純正の川崎重工の他、富士重工や北村製作所を並行して採用していた。日産ディーゼル車についても富士重工および西日本車体工業製で導入されていたが、2010年後半以降は三菱ふそうからのOEM車種であるスペースランナーAを導入していた。この他、「ツインライナー」と命名された連節バス(ネオプラン・セントロライナー、メルセデス・ベンツ・シターロ)が一部路線で運用されているほか、ミニバス路線や自治体から受託のコミュニティバス向けに小型ノンステップバス(オムニノーバ・マルチライダーや三菱ふそう・エアロミディME、日野・ポンチョ)などが導入されている。自らが所属する営業所長から各運転士に対して乗務車両を任命し、運転士はその車両の専属乗務や簡単な車両管理などを行う「担当車制」を採用している。運転士の手入れにより、使用年限の途中での車体更新は行なわれていないにもかかわらず、経年車でも美しく保たれている車両が多い。2012年の時点では神奈川中央交通本体における車両の保有台数は約2100台で、これは日本最多保有台数である。ノンステップバスの導入は1998年より積極的に推進している。標準尺車と短尺車を導入している。当初はノンステップバスには専用のカラーリング(後述するブルーイエロー色)を採用していたが、2001年以降は一般車と同じデザインに変更されている。三菱車においてはエアロスターを増備しているが、2008年から2009年前半までは一部を除いて日産ディーゼルからのOEM車種であるエアロスター-S(AA系)を導入していた。なお、通常の路線車は1998年からアイドリングストップが標準に、2001年からはワンステップバスが標準となった。2002年7月25日からは、後窓に後方視界確保のための広角レンズ設置が開始された。大型方向幕は1985年9月から採用され、2002年5月13日からLED行先表示器の導入が開始され、方向幕の車両も2004年頃の改造開始から3年程度でLED表示器に載せ変えた。これにより、路線開設や廃止などによる幕交換やほこりなどで汚れた幕の清掃などの負担が大幅に軽減された。また、路線バスの車内放送は長らく8トラテープを使用していたが、2005年10月23日よりクラリオン製音声合成装置の導入が開始された。出庫時に運行ダイヤを設定することによって、LED式行先表示器・運賃表示器・整理券発行器・カードリーダーが集中制御できるようになった。2003年の新車より小田急グループマテリアルズ仕様で導入されている。これは同社を通じて購入することによりコストを抑えながら短期間で大量の更新が行えるようになっている。このため、床面処理・ドア配置や空調装備品などは小田急グループのバス事業者共通の仕様となっている。後部ブレーキランプについては、1988年式以降は2灯だったものを4灯に変更、さらに1997年式からバス協型→角型に変更した。。室内は前向き座席が標準であるが、1988年9月の新車からは、優先席が横向きに変更された。1998年までは、座席モケットは一般席が赤・優先席が青となっていた。2009年7月からは、熱線吸収ガラスと三角吊り手が導入された。バス専業としては日本最大の事業者だけに1年あたりの導入車両数が多く、その結果「神奈中仕様」とも言える特注仕様が存在する。神奈中は京阪バス・西武バスと共に、日本の地方事業者に廃車車両を供給しており、「廃車車両の譲渡先数が日本一」と評されたこともある。特に6〜8年程度で廃車にしていた1990年前後は多くの車両が地方バス事業者へ転出し、これらの車両は地方バスの冷房化率向上にも貢献している。また、ミャンマーやフィリピン・ニュージーランド・ラオスなど、海外へも輸出されている。名称は一般的に呼ばれているものであり、正式なものではない。一部にラッピングのものも含まれる。1949年の新車から採用された。黄色に近いクリーム色+下部赤色+赤色と橙色の帯。当初は下部の赤色が波形になっており、前面などにも差異があったが、1987年から直線的なデザインに変更された。波形デザインの車両は1999年6月30日に廃車となった「さ154」が最後であった。2004年からは正面の社紋が「かなちゅう」ロゴマークに変更された。2012年6月1日より神奈中グループのブランドマークが制定され、路線バス車両の前面、側面、後面に青色で「Kanachu」と書かれたブランドマークの貼り付けが順次行われている。2002年4月1日から導入された。白色の車体に、各神奈交指定色が前方から中央車体下部及び後方全体に塗られ、大きくKANAKO BUSのロゴが入るという、各車共通で色違いのデザインである。新車として神奈交バスが購入した車両のみに施される塗装なので、数は少ない。1987年4月から26台導入されたギャラリーバスで、車体のベースカラーを白で統一し、風船を持った動物たちをデザイン。一般公募で「カナちゃん号」と命名された。2001年には2代目の車両が登場、愛称はひらがなで「かなちゃん号」となり、車体のベースカラーはクリーム色に変わった。1989年に初めて採用。青色の車体にハイウェイをイメージした白と紺の波線、車体中央部にカモメをイメージした黄色のマークが3連あり、橙色で"Kanagawa Chuo"とロゴが入る。その後1997年からは貸切兼用車(ワンロマ車)に、1998年からはノンステップバスの車体色としても採用された。社内では「ブルーイエロー」と呼ばれている。1997年に藤沢市でミニバス路線を開設した際に採用された。前述の塗装からイエローを省略したデザインに、アヒルのイラスト入れたものだが、イラストが入っていない車両も存在する)。車体の表記は前述のブルーイエローとは異なり、"KanaChu"(または"KanakoBus")と省略している。1999年から採用され、グレーに上半分が水色。窓の下と屋根にロゴが入る。横浜神奈交の車両は側面の社名ロゴが異なる点で識別可能。沿革節で述べた環境保護キャンペーンの一環で、ワンロマ車を青く塗装し、スヌーピーや他の登場人物をラッピングしたもの。1997年に導入した14台は図柄も1種類であったが、1998年に導入された26台ではベースの青を明るくし、夜行高速バス色のベース色と同色となった

出典:wikipedia

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