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北条守時

北条 守時(ほうじょう もりとき)は、鎌倉時代末期の武将。北条氏の一門。鎌倉幕府第16代・最後の執権(在職:正中3年4月24日(1326年5月26日) - 正慶2年/元弘3年5月18日(1333年6月30日))。赤橋守時(あかはし もりとき)とも呼ばれる。鎌倉幕府第6代執権・北条長時の曾孫にあたる。父は赤橋流の北条久時。同幕府を滅ぼし、室町幕府初代将軍となった足利尊氏は妹婿(義弟)にあたる。僅か13歳の徳治2年(1307年)10月1日、従五位下左近将監に叙任されるなど、その待遇は得宗家と変わらず、庶流であるにもかかわらず、赤橋家の家格の高さがうかがえる。応長元年(1311年)6月5日、引付衆就任を経ずに評定衆に任命された。嘉暦元年(1326年)3月の嘉暦の騒動の後、政変に対する報復を恐れて北条一門に執権のなり手がいない中、引付衆一番頭人にあった守時が4月24日に16代執権となる。しかし実権は、出家していた北条得宗家(元執権)の北条高時(崇鑑)や内管領・長崎高資らに握られていた。正慶2年/元弘3年(1333年)5月、姻戚関係にあった御家人筆頭の足利高氏(のちの尊氏)が遠征先の京都で幕府に叛旗を翻し、六波羅探題を攻め落とし、同母妹の登子と甥の千寿王丸(のちの足利義詮)も鎌倉を脱したため、守時の幕府内における立場は悪化し、高時から謹慎を申し付けられる。5月18日、一門から裏切り者呼ばわりされるのを払拭するため新田義貞率いる倒幕軍を迎え撃つ先鋒隊として出撃し、鎌倉中心部への交通の要衝・巨福呂坂に拠り新田勢の糸口貞満と激戦を繰り広げて一昼夜の間に65合も斬りあったとされるが、最期は衆寡敵せず洲崎(現在の神奈川県鎌倉市深沢地域周辺)で自刃した。一説に北条高時の思惑に配慮して退却せずに自刃したともいわれる。子の益時(ますとき)も父に殉じて自害した。享年39。※日付=旧暦※(参考)鎌倉年代記(増補続史料大成)。北条時政以来後見次第(東京大学史料編纂所所蔵影写)

出典:wikipedia

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