試製一号戦車(しせいいちごうせんしゃ)とは、大日本帝国陸軍によって1927年(昭和2年)に開発された戦車。日本が独自に開発した初めての戦車である。第一次世界大戦において投入された戦車につき、日本陸軍は観戦武官を通じて情報を入手していた。大戦は機械化と新兵器により大きな戦略的・戦術的転換を見せており、この変化は日露戦争から軍備や編成、教義にさしたる変化のなかった日本陸軍にとって強い危惧を抱かせるものであった。戦車の購入は1917年(大正6年)には検討され、日本陸軍軍用自動車調査委員会は委員で輜重兵大尉の水谷吉蔵を欧州に派遣し、イギリスからMK.IV 雌型 戦車が1輌輸入された。この戦車は戦争終結の直前(1918年10月24日)には横浜港に入っている。その2ヶ月前の1918年(大正7年)8月には、フランス大使館付武官とイギリス大使館付武官によってルノー FT-17 軽戦車とマーク A ホイペット中戦車が購入された。1919年(大正8年)、先のフランス製ルノー FT-17 軽戦車やイギリス製マーク A ホイペット中戦車が輸入された。先のMK.IVと合わせて軽・中・重の三種の戦車が日本に揃い、1920年(大正9年)頃から戦車の研究が開始された。また日本陸軍の将校団においても戦車の運用と編成、教義について議論が展開され、一定の関心が向けられるに至った。1925年(大正14年)には、軍事費を維持したまま師団数を削減して軍の近代化を図る、宇垣軍縮が行われ、4個師団を削減する代わりに、同年5月1日に、福岡久留米に「第1戦車隊」(重戦車(機関銃装備)×1、軽戦車(軽砲装備)×1、軽戦車(機関銃装備)×3)が、千葉の陸軍歩兵学校に「歩兵学校戦車隊」(教導隊戦車隊。重戦車(機関銃装備)×3、軽戦車(軽砲装備)×1、軽戦車(機関銃装備)×1)が、同時編成された。重戦車はマーク A ホイペット中戦車、軽戦車はルノー FT-17 軽戦車。軽砲は改造37mm狙撃砲、機関銃は改造三年式6.5mm重機関銃。しかし、その後の発達は遅れ、満州事変が起こる1931年(昭和6年)まで、2個戦車隊のままであった。なお、1933年(昭和8年)8月に、「歩兵学校戦車隊」と「戦車第1大隊」は、それぞれ「戦車第2連隊」(第1師団に所属)と「戦車第1連隊」(第12師団に所属)に改編され、最初の戦車連隊となった。また、陸軍は「戦時編成」を改正し、有事の際には軽戦車3ヶ大隊(190両)、重戦車1ヶ大隊(30両)を必要とした。ただ、当時の日本には先の2個戦車隊しかないという状況で、このギャップを如何に埋めるかが課題となった。少数の旧式なルノー FT-17 軽戦車やマーク A ホイペット中戦車では訓練や戦車戦術の研究さえ、ままならない状況であった。大正末期の不況のなか、日本陸軍は長い年月と莫大な資金を必要とする戦車の自主開発を望まず、手っ取り早く海外から輸入する方針を立てた。日本の工業的な技術水準および戦車を揃えるために長期間を要したことも、海外からの導入を決断させた要因となっている。陸軍省は大正14年(1925年)2月から、陸軍科学研究所長である緒方勝一少将(5月から中将)を団長とする代表団を軍事視察と戦車購入のために欧米に派遣していた。緒方購買団はアメリカでジョン・W・クリスティーと接触し、彼の設計した戦車を検討した。またイギリスのヴィッカース社、フランスとも交渉したがいずれも最新型の戦車の購入交渉は失敗した。クリスティーの戦車は実績に乏しく不安があったこと、イギリスでは自軍の配備を優先し、生産に余裕がなかったこと、フランスでは新型戦車そのものが未だ開発途上であった。したがって新型戦車の導入は困難であったが、中古のルノーFT軽戦車については在庫が充分なことから購入が可能だった。しかし購入交渉の判断に関して意見を求められた陸軍技術本部は、こうした技術的に陳腐化した戦車の導入に強い反対の意を表し、鈴木孝雄技術本部長は強く国産戦車の開発を要望した。背景として技術本部ではこの段階で国産戦車の研究を進めており、設計案を練っていたこと、また車輌開発の実績として1924年(大正13年)に三屯牽引車を作り上げていたことが挙げられる。この全装軌式牽引車は最高速度14km/hを発揮し、ルノーFTの8km/hよりも優れていた。この意見は上層部に受け入れられ、陸軍大臣から次期戦車の国産化が許可されたが、ひとつ条件があった。それは開発費用を翌年の大正15年度の予算で計上したため、年度末の大正16年3月31日(実際には年号が変わって昭和2年)までに開発できなければ予算を返上しなければならなかった。与えられた期限はわずか22ヶ月であった。技術本部は戦車の国産化についてある程度の見通しと自信を持っていたが、技術本部がこれまでに作った車輌は三屯牽引車と時速24km/hの四屯自動貨車のみであった。また、当時の国内自動車産業は極めて小規模かつ脆弱で技術力も低く、国内に自動車の大型部品を切削加工する工作機械を保有する工場も少なかったことも問題であった。技術本部車輌班には原乙未生(はら とみお)大尉、以下16名の人員が在籍し、戦車の設計にあたった。車輌班は1925年(大正14年)2月より仕様をまとめ、6月に設計を開始、翌年5月には早くも実物模型を作るに至った。発注先には当時の脆弱な国内自動車産業でなく、官営の陸軍造兵廠大阪工廠が選ばれた。既存の技術的蓄積が乏しいかまたは存在しないために、ボルト・ナットといった基礎的な部品からも正確な設計が行われ、設計図は総数が一万枚を超えた。さらに戦車製造には従来の自動車製造用の旋盤、フライス盤は使用できず、新規に工作機械を製造・調達しつつ作業が進められた。この部品調達と組立、指導にも非常な労力が払われた。戦車設計に際し、車輌班の戦車に対する意識が観察できる。大正14年3月時点での仕様には、陣地攻撃用の16t戦車であること、運動戦に対応できることが挙げられた。そこで速度は良道上で20km/h、路外では400m毎分、10時間航続可能で、超壕幅は標準2.5mとされている。また近距離で掩蓋機関銃座を破壊するため、57mm砲および銃塔に装備した重機関銃を選択している。弾薬は砲弾50発、銃弾2,500発の搭載を目標とした。装甲は37mm砲弾と小銃弾に抗堪するため主要部が16mm、側面が10mmから8mmと想定された。大正15年4月付けで製作された上申書の仕様を要約すれば以下の通りである。さらに詳細な仕様が決定された。以前から大砲など大型の機材を扱ってきた大阪造兵廠にとっても戦車製造は初めてであった。鋼板供給は神戸製鋼所、車体組立は汽車製造株式会社が担当したほか、阪神地区の民間工場が動員された。これら関連企業との協力の下で製作が進められた。戦車の開発に際する問題の一つはエンジンの設計であったが、本車には1923年に開発されたV型8気筒ガソリンエンジンを車体中央に搭載できた。文献によりこのエンジンは空冷とも水冷ともされる。一説では、このエンジンは3年前に技術本部火砲班が大阪造兵廠に自走砲を試作した際に作られて工場の隅に放置されていたエンジンをそのまま流用したとも、新たにエンジンを設計したともされる。ただ後者の説は、時間的制約の厳しい中で車体と同時並行で開発するのは無理が大きい説である。技術本部車輌班および試作車製造の諸関連企業は残業を重ね、非常な苦心と努力の末、試作車は1927年(昭和2年)2月に完成した。これは3月に迫った期限のほぼ一杯であった。本車は全装軌式の多砲塔戦車である。車体前部、車体後方から見て左側に銃塔が設けられ、この内部に重機関銃が1挺装備された。この右側は操縦手が搭乗する運転室となっている。この後方は1段高められ、上面に全周旋回可能な砲塔が装備された。戦車砲は掩蓋機銃座を破壊するために57mm砲が1門装備されている。この砲は1926年(大正15年)3月に開発開始され、同年10月に完成した。こののち改修を行い、1927年(昭和2年)7月に車輌へ搭載し射撃試験を実施した。こののち本砲は九〇式五糎七戦車砲として制式採用された。砲塔の後方は緩く斜めに低められており、機関室となっている。機関室後方には銃塔が設けられ、重機関銃が1挺装備された。機関からの動力は遊星歯車装置を内蔵した操向変速機によって配分・制御される。この機構は原乙未生中将が考案し、定半径の旋回、信地旋回、非常減速、主ブレーキの機能を持っていた。クラッチ・ブレーキ式に比較して動力のロスが少なく、以後、日本の戦闘車輌の標準装備となった。本車の旋回半径は4.6m、また片側の履帯のみを動かして信地旋回が可能だった。装軌部分は総計64個の小転輪(前後の制衝転輪の数は含まず)を多数並べる方式である。車体前方にスプロケットつきの誘導輪を設け、後方に起動輪が装備された。装軌部分の外形は、大型の緩衝装置を組み込んで大きく車体側面を覆うものである。緩衝装置は弓形板バネを平行四辺形に組み、両端には独自に上下へ可動する支持架(連桿)をつけ、これに小転輪を接続した。この機構は二重に作動して衝撃を緩和した。戦車用防弾鋼板の技術不足から装甲は軟鋼製だった。この当時は日本でも列強でも溶接技術が発達しておらず、装甲の接合には全面的にリベットが用いられた。完成から3ヵ月後の6月21日、富士でデモンストレーションが行われた。陸軍技術本部内での予備テストを行わない状況での供覧試験であった。本車は大阪から列車で輸送された後、御殿場駅~板妻兵舎までの約8kmを軍関係者、一般市民が見つめる中、無事走り抜けた。故障を起こさず、道路を通常に走り続ける、ということも当時の戦車の機動性と信頼性では難しいものであり、見学者のあいだでは初めての国産戦車が動くかどうかも危ぶまれる状況であった。続いて富士演習場で運航試験が行われ、3分の2の急傾斜を容易に踏破、堤防と塹壕の超越を予定通りこなした。英仏の戦車よりも格段の踏破性を示し、射撃するための安定性は良好であった。また操作が軽快であった。原乙未生は回想において「……中型戦車の14kmを見慣れた目には、18トンの巨体が20kmをもって地響きをたてて驀進する有様は壮観そのものであって、国防に大威力を加えた信頼感が持たれた」と記述した。この成功を受け、陸軍も戦車の国産開発のための研究続行を決定した。陸軍にとって全く前例が無く、また時間との戦いの中作られた本車は非常に優秀だった。ただひとつ問題があったのは陸軍の要求で12t、また設計段階で16tを予定していた車体重量が各部の補強などのため18tになってしまい、最高速度が20km/h(陸軍の要求は25km/h)になってしまったことであった。当時、ソ連を仮想敵国とし、広大な中国での戦車の運用を考えていた陸軍にとって、これは問題と考えられた。故に本車は貴重な国産戦車開発経験の蓄積に繋がったものの制式化には至らず、国産初の制式戦車は、2年後の1929年(昭和4年)に仮制式化された八九式軽戦車の登場を待たねばならなかった。試製一号戦車を基に、大阪工廠において改修(改造)型が作られ、1930年(昭和5年)4月に完成した。この車輌は足周りを一新して操縦性を改善し、エンジンを150馬力に強化、車体を16トンに軽量化するなど、各種改善を加えられているものの、採用はされなかった。さらに本車の改良型に試製九一式重戦車(試製二号戦車)がある。
出典:wikipedia
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