山口 教継(やまぐち のりつぐ、生年不明 - 永禄3年(1560年?))は、戦国時代の武将。尾張国の織田氏の家臣。鳴海城主。官途名は左馬助。父は桜中村城主山口教房。子に教吉。山口氏は周防大内氏の一族と言われる。尾張国笠寺付近の土豪であったとみられ、永正6年12月20日(1510年1月29日)付けの文書で笠寺の笠覆寺に貢納していたことが確認できる。織田信秀に従い、小豆坂の戦いでは当時駿河・遠江・三河を勢力下に収める大名であった今川義元配下の軍勢と戦って戦功を挙げる。しかし、年次は不明ながら、信秀と義元を仲介して両者を一時的に和睦に導いてもいる。信秀に重用され、三河との国境の要地である鳴海城を任され尾張南東部の備えとなっていたが、信秀の死後、子の信長の代になると、織田氏から離反して今川氏に寝返り、鳴海城を子の教吉に守らせ、笠寺に砦を構えて岡部元信などの駿河勢を引き入れて、自らは中村に立て籠もった。教吉はここで出陣してきた信長と戦い、引き分けている(赤塚の戦い)。教継は織田方の大高城、沓掛城を調略を用い奪取したが、その後駿河へ呼び寄せられ親子共ども切腹させられた。山口父子の殺害は信長の調略ともされる。なお、似たような経緯で尾張戸部城主の戸部政直も死に追いやられており、教継と同一人物と見る向きもある。
出典:wikipedia
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