クレイグ・アラン・ビジオ(Craig Alan Biggio、1965年12月14日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク州スミスタウン出身の元プロ野球選手(二塁手)。右投右打。現役時代の全てをヒューストン・アストロズで過ごしたフランチャイズ・プレーヤー。通算試合・通算安打・通算二塁打・通算得点などでアストロズの球団記録を保持する、球団史を代表する選手の一人である。日本語メディアではビッジオと表記されることもある。2007年をもって引退を表明。がんと戦う子供たちを支援する基金のために資金調達を行うなど慈善活動が認められメジャーリーグからロベルト・クレメンテ賞が送られることが決まった。時事通信によると本人は「クレメンテは野球界の真の伝説。彼の名を冠したこの賞は大リーガーにとって最大級に名誉なこと」と喜びを表した。 サーマン・マンソン(元ヤンキース)に憧れ、高校時代のポジションは捕手と遊撃手。アメリカンフットボールのランニングバックとしても活躍した。シートン・ホール大学に進学してからは野球一筋になり、アメフトで培ったスピードとガッツでチームを引っ張った。6月にドラフトでアストロズに1巡目(全米22位)指名されて入団。6月26日にメジャーデビューした。には、134試合で打率.257ながら13本塁打・60打点。加えて捕手としてはナショナルリーグ1位の21盗塁を記録し、シルバースラッガー賞を受賞した。守備では完全に時期尚早で、39回連続で盗塁阻止を失敗した。は4月から6月にかけて3か月連続で月間打率が3割を上回り、捕手としては球団史上初めてオールスターに出場した。シーズントータルで打率.295を記録した。球団からは「打撃を生かした方がいいのではないか?」と打診され、ビジオは受け入れるも失敗した時の怖さを考えていたという。マット・ガランティコーチの指導で自信を持って守れるようになった。二塁手として迎えたは全試合に出場し、打率.277・38盗塁を記録した。2度目のオールスター選出も果たし、捕手と二塁手の2つのポジションでオールスターに出た史上初の選手となった。は、1994年から1995年のMLBストライキによる短縮シーズンだったが39盗塁で盗塁王を獲得し、初めてのゴールドグラブ賞も受賞し、以降4年連続受賞した。以降自他ともに認めるメジャートップクラスの二塁手となった。は全試合に出場し、本塁打と盗塁による "20-20" を達成。リーグ最多の123得点を記録し、ジミー・ウィンの球団記録117得点を23年ぶりに更新した。シーズン終了後にフリーエージェントを行使し、1年平均で600万ドル近い額が予想され、再契約は難航した。チームメイトのジェフ・バグウェルは自ら減俸を要請し、前年より200万ドル減の488万ドル契約に変更し、これに応え、ビジオは市場価値より遥かに安い4年総額2200万ドルで残留した。はチャック・クラインが1932年に152得点を記録して以降でリーグ最高となる146得点を記録した。には51二塁打に加え50盗塁を記録し、1912年のトリス・スピーカー以来史上2人目(84年ぶり)の二塁打と盗塁による "50-50" を達成した。また、球団記録となる210安打を放ち、8月5日に欠場するまでに球団記録となる494試合連続出場した。はリーグ歴代6位となる56本の二塁打を放ち、2年連続50二塁打を記録した。5月4日に球団史上初となる通算2000本安打を達成したが、8月1日に左足のじん帯故障によりシーズン終えた。この年、打率.268、12盗塁など二塁手転向後最低の成績となった。にジェフ・ケント二塁手が加入したため球団から「外野の中堅に回ってもらえないか」と打診され、ビジオは同意し中堅手へ転向。同年8月10日に通算31本目の先頭打者本塁打を放ち、リーグ新記録となった。にケントのFA移籍やウィリー・タベラスの成長に伴い、二塁手に復帰。自己最多の26本塁打をマーク。そして、6月29日にドン・ベイラーが保持していた1900年以降の通算死球記録(267)を更新。また、主砲ジェフ・バグウェルとランス・バークマンが故障で戦線離脱中は、約3年ぶりとなる3番を勤めた。チームはこの年初めてワールドシリーズへ進出。ビジオのワールドシリーズ出場までに要した試合数は2564試合で、史上最多となった。同年オフに1年400万ドルで契約延長。も21本塁打を記録したものの、打率.246はデビュー年以来の低水準となった。は3000本安打まであと70本で迎え、6月28日のロッキーズ戦でメジャーリーグ史上27人目の通算3000本安打を達成した。7月24日の試合前に今シーズン限りでの現役引退を表明し、その試合で決勝満塁本塁打を放った。それから約二ヵ月後の9月30日の試合が最後の出場となった。5月23日、同年8月17日に背番号7が永久欠番になることが発表された。ビジオは2013年に殿堂入り資格を得た。3000安打を達成しているということで殿堂入りは確実と見られていたが、得票率は68.2%で落選となった。これに関してはバリー・ボンズやロジャー・クレメンスと言った薬物疑惑があるが、圧倒的な成績を残した両選手の割りを食ったとされ、ビジオは得票結果を「公正ではない」とした上で「確かに(禁止薬物を使用して)有罪といえる選手はいたが、他は違う。一緒にされるのは苦痛だ」として、薬物使用者の影響を受けている殿堂得票に強い不快感を表明した。2014年も僅かに殿堂入りを逃した。2015年に82.7%の得票率で殿堂入りを達成した。ジェフ・バグウェルとは1992年から2002年まで一・二塁間でコンビを組み、打撃でもキラーB's(バグウェルとビジオ、またデレック・ベル、バークマン、後にベルトランなどアストロズの中核打者たちの多くが頭文字「B」で始まることとアフリカナイズドミツバチの通称「殺人蜂」とを掛けている)の中心としてチームを牽引してきた。
出典:wikipedia
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