シモーヌ・ヴェイユ(ヴェーユ)(Simone Weil, 1909年2月3日 パリ、フランス - 1943年8月24日 ロンドン、イギリス)は、フランスの哲学者である。父はユダヤ系の医師で、数学者のアンドレ・ヴェイユは兄である。彼女は第二次世界大戦中にロンドンでほぼ無名のまま客死した(享年34歳)。戦後、残されたノートの一部が知人の編集で箴言集として出版されるとベストセラーになった。その後もあちこちに残されていた膨大な原稿・手紙・ノート類を知人たちが編集・出版するにつれてその深い思索への評価は高まり、何カ国語にも翻訳されるようになった。遺稿は政治思想、歴史論、神学思想、労働哲学、人生論、詩、未完の戯曲、日記、手紙など多岐に渡る。1909年2月3日、シモーヌ・アドルフィーヌ・ヴェイユ (Simone Adolphine Weil) は父の医師ベルナール・ヴェイユと母セロメア(通称セルマ)の娘としてパリのアパートで誕生した。兄アンドレは3才年上。1歳を過ぎても固形物を摂ることができず重篤な状態に陥り「この子は生きられない」と医師に言われたが専門家の指導と両親の努力により危機を脱した。両親は共にユダヤ系であったがその"完全な不可知論"により兄妹をできるだけユダヤ的なものから遠ざけて育てた。1914年、第一次世界大戦勃発と同時に父ベルナールは軍医として招集され各地を転戦した。家族の同行は軍律で禁じられていたが母親セルマは二人の子供・祖母・愛犬を引き連れて夫の任地を追い転々とした。揺れ動く状況下で兄妹の教育は切れ切れとなったが、通信教育などで独学していた兄アランがシモーヌに字を教えた。兄妹は父親を驚かせようと隠れて勉強し、新年元旦に父親の前で5歳のシモーヌが新聞を読んでみせ父親を驚かせた。5歳で字が読めるようになったシモーヌはいろんな本を暗記するようになり7歳のときにはラシーヌやコルネイユを暗誦した。1916年、戦争はおびただしい人命と物資の損耗を重ねながら長期化していた。兄アンドレと7歳のシモーヌはそれぞれ前線にいる"自分の"兵士と手紙を交わようになり、自分たちのお菓子を前線に送ったりした。シモーヌの文通相手の若い兵士は8歳のシモーヌと会うため許可をとってヴェイユ一家の滞在地を訪れ、彼女と話をした。この若い兵士は、その後死んだ。9歳のシモーヌは愛国的な詩に熱中するようになった。1918年に戦争は終結したが、ヴェイユ軍医はすぐ除隊とはならず一家は任地に留った。もう新聞を読める9歳の少女は戦後のヴェルサイユ条約が敗戦国ドイツに過酷すぎると感じた。少女の政治に対する関心は弱い立場に対する同調と抑圧への嫌悪を伴って終生保たれ続けた。父ベルナールの除隊が認められると一家はパリへ戻り、1919年10月、シモーヌはパリのフェヌロン高等中学に入学した。学校で彼女はその不器用さゆえ製図やデッサンで成績が悪く、母セルマが担当の老嬢の先生を訪ね、娘は血行が悪いため手が腫れているから不器用なのだと訴えると、老嬢は自分の手をたたいてみせ「足りないのはここではございません」と言うと自分の額を叩いて「ここですよ」と答えた。14歳の時、数学の天才・兄アンドレと自分を比較して自殺を思うほどの劣等感にみまわれたが、数ヶ月苦しんだ末に立ち直った。フェヌロン校でも登校と長期休学を何度かくりかえし1923年末に退学。バカロレア(大学入学資格試験)の準備として家庭教師や、講義を誰にでも公開しているコレージュ・ド・フランスで中世文学研究の大家の講義を受講し、1924年6月、古典語(ラテン/ギリシア語)のバカロレア試験に15歳で合格した。続けて彼女はデュリュイ高等中学校で二つめのバカロレア試験の準備に励んだ。1925年6月、16歳で哲学のバカロレア(大学入学資格試験)に合格したシモーヌはソルボンヌ大学を含めフランスのどの大学にも入る資格を得たが、さらに上の高等師範学校を目指してアンリ4世高等中学の高等師範入学準備学級(カーニュ)に入った。ここで哲学者アランの教えを受けたことはシモーヌに多大な影響を与えた。シモーヌがアランの授業に接した時期は、アラン自身が最も影響を受けたリセ時代の哲学教師ジュール・ラニョーの回想録を発表したりラニョーの遺稿集の発刊したりしていた時期と重なっていた。シモーヌの同級生には、アランと同じくラニョーの弟子であった農民レオン・ルテリエの息子がいて、夏休みにはレオン・ルテリエの故郷の農園に足繁く通い、前年死去していた彼のノートの筆写をしてルテリエの遺稿集発刊に協力した。在学2年目での受験に失敗したシモーヌは猛勉強を始め、ソルボンヌ大学の講義にも出かけた。1928年在学3年目のシモーヌはパリの高等師範学校の試験に合格した。彼女は高等師範学校在籍中もアランの講義を受けにアンリ4世校へたびたび出かけ、ソルボンヌ大学にも登録して哲学関係の講義に出席した。1931年7月、22歳のシモーヌは哲学のアグレガシオン(大学教授資格)試験に合格した。1931年9月、シモーヌはル・ピュイ女子高等中学校リセの哲学学級教授に任命される。彼女はル・ピュイで彼女は高等師範学校時代から始めていた組合活動を本格化させた。学校でのシモーヌ・ヴェイユも管理者にとって頭の痛い存在で、定められた教科計画に従わず、丸暗記ではなく与えられたテーマを自分の頭で理解することを重視した。地元の保守系新聞にスキャンダルとして報道された“ル・ピュイ事件”-失業者の陳情にシモーヌが同行したことを「過激な“赤い処女”によるデモの煽動」と地元保守新聞がスキャンダル化し、更にシモーヌが採石場の失業者と握手したこともスキャンダルとして騒ぎ立て攻撃し続けた“事件”-により赴任一年目で転任を命ぜられた。1932年6月休暇願いを受理されたシモーヌは前年にナチスが選挙で大躍進したドイツへ旅行し、強い衝撃を受けた。ドイツから帰国したシモーヌは新しい赴任地オセールでも活発な組合活動を続け、今回は哲学クラスの閉鎖という形で追い出された。1933年8月、転任した3つめの赴任先ロアンヌ女子高等中学在職中も彼女は組合活動を続けたが、組合間の主導権争いや、いくつかの新聞・雑誌への諸投稿でのスターリニズム批判に伴う軋轢は深刻になっていた。1933年大晦日、フランスに亡命していたレオン(レフ)・トロツキーが希望していた秘密会合のためにシモーヌは両親のアパートを提供したが、その時トロッキーと激論を交わした。1934年冬〜35年夏、休暇願いを出したシモーヌは、複数の工場で未熟工として断続的に8ヶ月間働く。この経験は彼女の内面にいくつか変化をもたらした。疲弊したシモーヌは両親と共にポルトガルへ行き、ひとり立ち寄った夜の寒村で初めてキリスト教との"接触"を得た。1935年9月、復職願を受理されてブールジュ女子高等中学へ赴任、珍しく校長や同僚との関係は悪くなかったが、校長はシモーヌに関し「実際的成果にマイナスとなる可能性のある悪い健康状態」と危惧していた。ブールジュ時代、シモーヌは体調の悪さにも関わらず、ナチスの台頭でドイツから逃れてくる活動家たちの亡命を助けていた。1936年6月パリでゼネラル・ストライキが発生するとパリへの往復を始め、働いていたルノー工場などに入ってストの実態を見聞し、7月14日の民衆デモにも参加した。同月下旬スペイン内戦勃発の報に接し8月初頭スペインへ渡る。新聞記者を装ってアナーキスト系CNT(労働国民連合))に接触、最下部組織としてフランコ軍と最前線で対峙していた外国人からなる義勇軍小部隊で参加を許された。部隊にいた知り合いのフランス人に小銃の訓練も受けたが炊事当番に回され、爆撃を受けながら5日間行動を共にしたあと炊事用に沸騰していた油に足をつっこんで大やけどを負い離脱した。スペインから帰国したシモーヌは、頭痛およぎ火傷に関する診断書を提出して一年間の病気休暇を認められ、いく人かの医師を訪れついには入院もしたが治療の見通しは立たなかった。入院中もシモーヌは論文を書きつづけ投稿していた。1937年4〜5月にかけて初のイタリア旅行。フィレンツェではファシスト党の本部に赴き「社会主義者」と名乗り指導者のひとりと会ったりもしたが主に、宗教美術を巡る旅を続け、聖フランチェスコの礼拝堂があるアッシジに向かった。聖フランチェスコの没後に作られた豪奢なサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会に収められた小さな小屋のような礼拝堂(Porziuncola)の中にひとりで居たときシモーヌは「何か自分よりも強いものに強いられて、生まれてはじめて」ひざまずいた。1937年10月、サン・カンタン女子高等中学校に赴任したが、1938年1月、頭痛の悪化がひどく2ヶ月ちょっとの勤務で再休職した。その後も病休願いを更新し続けねばならずサン・カンタンが実質的に最後の教師生活となった。休職した後、シモーヌは脳腫瘍をふくめた病因の解明を求めて多くの専門医を歴訪したが、徒労に終わった。激しい頭痛のなか、彼女は母セルマと一緒に復活節前後の祭式で歌われるグレゴリオ聖歌を聴くためソレム修道院の儀式に十日間参列した。シモーヌは、同じように参加していたイギリス青年から英国の詩人ジョージ・ハーバードの詩「愛」を教えられ、その詩を口唱しているときキリストの降臨を感じる。1939年9月ドイツのポーランド侵攻に対する英仏の宣戦布告で第二次世界大戦が始まったが、ドイツ軍がいったん動きを止めたため戦闘のない奇妙な戦争状態が続いた。1940年5月ドイツの電撃作戦で連合軍は分断され弱体化、持ちこたえられなくなったフランス政府は6月10日無防備都市宣言をしてパリを放棄しボルドーに臨時政府を移動した(ナチス・ドイツのフランス侵攻)。6月13日シモーヌと両親は買い物のため外出し、通りのあちこちにパリ無防備宣言のビラが貼られているのを見てそのまま家にも戻らずパリを脱出した。翌日ドイツ軍はパリに入った。6月21日フランス政府はドイツとイタリアに降伏し7月1日にヴィシーへ移転、ここを新しい首都とした。1940年10月フランス臨時政府(ヴィシー政権は《ユダヤ人法》を発布した。シモーヌが申請していた教職復帰願いも黙殺・あるいは本人に通知されない奇妙な辞令の形で葬り去られた。1941年6月、友人の紹介で、農業労働従事の希望実現のため、ドミニコ会司祭で避難民を献身的に世話していたペラン神父の元を訪れた。以後、マルセイユを離れるまで何度も語り合い手紙のやりとりをした。ペラン神父は、農業労働を希望していたシモーヌに農民哲学者を紹介した。数週間ティボンの農場で研修したあとシモーヌは、彼の隣村の農場で朝から晩まで一ヵ月間葡萄つみの重労働をした。1941年8月、ヴィシー政権はユダヤ人排斥法を強化し(法令表参照)ユダヤ人の医師の活動も禁止したが、自由地帯(非占領地帯)にいた父ベルナールはシモーヌが働いていたサン・マルセル村に夫婦で滞在し、村の人たちを医師として診療して土地の人たちから人望を得た。1942年復活祭(3-4月)の時期にカルかソンヌを訪れたシモーヌは、戦傷によってベッドで寝たきりになっていた詩人ジョー・ブスケの小屋で一晩語り明かした。一度だけの出会いであったがその後二人は長い手紙のやりとりをした。1942年5月、シモーヌはアメリカ経由でイギリスへ渡りそこからフランスに戻る計画を胸に、両親とともにアメリカに渡る(渡米後、すぐシモーヌは戦禍のフランスから離れた事を後悔し始めた)。4ヶ月後、両親と離れ再び海を越えてロンドンに渡る。知人のつてでシモーヌは、ロンドンに亡命していたド・ゴールの「自由フランス」本部に行き、文書起草委員として小さな事務室を与えられた。シモーヌがずっと胸に秘めていた「前線看護婦部隊」の創設と彼女自身のそれへの参加という提案書はド・ゴールから「狂気の沙汰」の一言で退けられた。彼女は深く失望しながらも与えられた仕事をこなし、倒れるまでの4ヶ月間ほとんど寝食を忘れるほどの激務ぶりで大量に書き続けた。1943年4月、下宿の床で昏倒しているシモーヌを友人が発見した。ロンドンの病院に運ばれた彼女は「急性肺結核」と診断されたが、身体的栄養不足によりその回復は妨げられた。彼女は生涯の全時期にわたり繰り返し拒食傾向を示していた。およそ4ヶ月間、ロンドンの病院に入院したあと、8月にアシュフォードのサナトリウムに移った。その1週間後、1943年8月24日の夜、シモーヌ・ヴェイユは静かに息を引きとった。検死官による死亡診断書は「栄養失調と肺結核による心筋層の衰弱から生じた心臓衰弱。患者は精神錯乱をきたして食事を拒否、自ら生命を絶った。」と記された。後半部分が波紋を起こし、イギリスの新聞2紙が「食物を絶って死ぬ、フランス人一女教師の異常な犠牲行為」との見出しでこの無名な元教師の死を報じた。シモーヌ・ヴェイユの埋葬に立ち会ったのは7人で、その場に司祭はいなかった。生前に一冊の著作もない彼女を知っていたのは家族・知人・関係者だけであった。ヴェイユが死んで4年後の1947年、友人の農民哲学者は生前シモーヌから託された十数冊の雑記帳(カイエ)を編纂し、『重力と恩寵』と題して出版した。無名の著者によるこの本は宗教・哲学分野としては異例のベストセラーとなりシモーヌ・ヴェイユ「発見」の先駆けとなった。ヴェイユは美を重視し、それは神や真理へ至るためのほとんど唯一の道であるとしている。したがって彼女の美に対する洞察はその思想の核心に近づいたものといえる。美を愛することは魂の自然な本性に備わっているから、だれでも美には惹きつけられる。もちろん、何を美しいと思い、愛するかには個人差がある。金を愛する守銭奴もいれば、権力を愛するものもいる。ヴェイユは享楽への愛を否定する。贅沢は高慢であり、己を高めようとすることである。彼女の言う美や愛とはそのような対象への支配と逆の、自己否定である。真に美しいものとはそれがそのままであってほしいものである。それに何かを付け加えたり減らしたいとは思わない完全性、それが「なぜ」そのようにあるのかという説明を要せず、それがそのままで目的としてあるもの。「美は常に約束するけれど、決して何ものをも与えようとはしない。」という彼女の言葉はそのことを表している。美は何かの手段とならず、それ自身しか与えない。人は美に面したとき、それを眺め、それ自身の内なる必然性を愛する。そして必然性を愛するということは、対象への自己の支配力を否定することである。自己を拡張しようという欲求は対象を食べてみずからの内に取り込もうとするが、美は距離を置いて見つめる対象でしかない。それを変化させたり所有することは汚すことである。美の前で人は飢えながらも隔たりをもってそれを見つめ、そのままで存在してほしいと願う。ヴェイユは美のほかに不幸が真理に至る道になるという。説明不能でありながら魂に染み込んでくる実在的なものという点で美と不幸は共通する性質を持つ。ただし不幸は美のように、人にとって自然な道ではない。自己を強大化し、他人を支配するための力を求めるのが魂にとっては自然なのである。ヴェイユはそのような力の崇拝を嫌悪していた。弱者に対して野蛮に振る舞う人の本性を彼女は洞察している。弱者は強者の前で意志の自由を失い、服従するだけの物質と化してしまう。人が力に屈服し、人格を失ってしまった状態。それが不幸と呼ばれる。不幸はまったく理不尽に人に食い込んでくる。ヴェイユは工場のなかで魂のない奴隷へと下落したたくさんの人間を見、自らもそれを体験した。真の不幸は苦しんでいる当人すら自分の苦しみのありさまを理解できないほどに思考力を奪う。そのように不幸な人は、人格としては存在すらしていないのである。隣人愛は不幸な人の存在していない人格を存在させる。それは自らは飢えて相手を満たそうとする。その人の人格を愛するというのではなく、ただ、その人自身であるということによってのみ愛するのだ。強いから、美しいから、善いから愛するのではなく、また、愛すべきものを自己に取り込もうとするのではなく、真の愛は不在として絶対の対象を求める。存在していないものへの気遣い、それは注意力によって可能となる。ヴェイユの注意は隔たりをもったはるか遠くの弱きもの、小さきものに注がれる。注意力はヴェイユの思想の中で大きな位置を占めている。彼女は神への注意を祈りと呼び、真の宗教は極度の注意力を必要とするとしている。注意とは思考を停止させ、無欲で純粋な待機状態になることである。それは努力と忍耐を尽くさねば為しえないが、何かを得るための努力ではなく、むしろ徹底した待望なのである。人は努力したのに報いが得られないということに耐えられず、真実を歪めてでも報いを求めてしまう。ヴェイユの注意とは報いではなく真実を求めるものであり、いかに悲惨なことでもそのままに見つめることだ。この時の純粋さとは汚れを避けることではなく、汚れを見つめうる純粋さだ。それは真理を報いとして求めるものでもない。それは生命よりも真理を愛し、自分の不完全さを徹底して理解することを欲する。いかに激しい苦痛のなかでも正しい方向へと向かう力、愛する力を失わないよう願うことはできる。ヴェイユとて苦しみを好んでいたわけではなく、喜んで不幸を受け取れとは言わない。そのようなことを言うのは、人々の不幸を見過ごしにすることだ。喜びは喜びとして、不幸は純粋に不幸として受け取らなくてはならない。しかし純粋な不幸を愛をもって受け入れるという奇跡をなしえたとき、不幸は神に触れる啓示になりうるというのである。自然なあり方として人は自己を増大させようとする。自らをすり減らすというのは自然なことではなく、超自然的なことである。自己無化に貫かれるヴェイユの思索は根底で神と結びつく。ヴェイユが残したノートを彼女の友人のティボンが編集した本『重力と恩寵』の冒頭にはこうある。この世はひたすら下落へと向かう重力に支配されており、それから免れようにも重力に支配された魂は誤りを犯す。だから自分から高まろうとするのではなく、待望こそ必要とされるのである。すべてをもぎ取られた真空としての待望である。そして真空とは自然なことではない。ヴェイユによれば下落から逃れて高みに昇るのは恩寵によってのみ可能であるが、重力の下降運動、恩寵の上昇運動とともに恩寵の二乗としての下降運動があり、これは重力と無関係に自ら下降する。ヴェイユは自己否定としての神を語る。キリストの受難もそのように捉えられている。神から最も離れており、神に立ち戻るのは絶対に不可能なほどの地点にある人のもとに、神が人としてやってきて十字架にかかったということは神の自己否定であるという。ヴェイユによれば世界の創造も自己否定である。神は世界創造以前にはすべてであり、完全であった。しかし神は創造によって自分以外のものが世界に存在することに同意し、自ら退いたのである。神と神以外のものの総計は、神だけが存在する状態よりも小さい。創造とは拡大ではなく収縮である。神の代わりに世界を支配するようになった原理は、人格の自律性、物質の必然性である。神の自己否定によって存在を与えられた我々は神の模倣、つまり自己否定によって神に応えることができるという。そして応答としての自己否定とは具体的には隣人愛と世界の美への愛なのである。この愛とは、神がそのように創造した世界を受け入れることと言ってもよい。つまりそれ自身のために、自己の支配力を否定することである。世界が善だから愛するというのではなく、悪をみつめ、悪を憎悪しつつも善と悪を造った神と、神が創ったこの世界を愛することを説く。ヴェイユは偽りの慰めを退け、想像上の神を信じる者より神を否定する者の方が神に近いという。全く神が欠けているということでこの世界は神そのものであり、この奥義に触れることで人ははじめて安らぐことができると、ヴェイユはノートに書き残している。自らを「教会の門の前で人々を呼び集める鐘」と評したりもしたが、洗礼は受けなかった。
出典:wikipedia
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