ロマン・ロラン(Romain Rolland, 1866年1月29日 - 1944年12月30日)は、フランスの作家。理想主義的ヒューマニズム、平和主義、反ファシズムを掲げて戦争反対を世界に叫び続け、国際的に多くの知友を持った。フランス中部ニエーヴル県のクラムシー出身。父エミールは公証人で、母アントワネット=マリーの家系も公証人であったことから貧しい環境ではなかった。7歳からクラムシー中学(Collège de Clamecy)に通うものの、1880年に一家はパリに転居。翌1881年からサン=ルイ高等中学校()に入り、18歳であった1882年にルイ大王高等中学校に転校する。この頃から級友のポール・クローデルと音楽会に通い詰め、20歳であった1886年、2年遅れてエコール・ノルマル・シュペリウール(高等師範学校)へ進学し、哲学と歴史を学ぶ傍ら、文学・美術・音楽に没頭してピアノを嗜んだ。1887年にはトルストイの『戦争と平和』を読み、トルストイと文通までしている。1889年に高師を卒業すると同時に歴史の教授資格試験に合格し、1891年までローマのフランス学院へ留学する。そこでドイツの女流作家マルヴィーダ・フォン・マイゼンブーク(1816 - 1903)と知己となり、マイゼンブークを介してニーチェやワーグナーに関心を持つと共に、国際関係に目を開いた。26歳であった1892年に言語学者ミシェル・ブレアルの娘クロチルド(Clotilde)と結婚するが、1901年に離婚。1894年からアンリ4世高等中学()で、翌年からルイ大王高等中学で教鞭をとる。1895年に『近代叙情劇の起源』と『16世紀イタリア絵画の凋落』により文学博士の学位を取得し、エコール・ノルマルの芸術史講師となった。この頃から、戯曲や音楽評論を発表し始める。1902年からは「社会学大学」(École des hautes étude sociales)で音楽史を担当した。33歳であった1903年、高等師範学校時代の教え子であるシャルル・ペギーの個人雑誌『半月手帖』(Cahiers de la Quinzaine)に『ベートーヴェンの生涯』を発表。これが反響を呼び、翌1904年にソルボンヌで音楽史を担当し始めると共に、『ジャン・クリストフ』を『半月手帖』に掲載し始め、1912年に脱稿する。同じ頃にヨーロッパ各地を旅行し、シュヴァイツァー、ヴェルハーレン、R.シュトラウス、ツヴァイク、リルケ、シンクレアらと知り合う。44歳であった1910年にレジオンドヌール勲章を受章する。1912年に『ジャン・クリストフ』を脱稿すると、文学に専心すべくソルボンヌを辞し、スイスの雑誌に芸術時評を書き始める。1913年には『ジャン・クリストフ』が『アカデミー・フランセーズ文学大賞』を受賞した。1914年8月に勃発した第一次世界大戦については、たまたま滞在中であったスイスから、仏独両国に対し「戦闘中止」を訴える。このことから祖国への反抗と受け取られて帰国できない状態になったが、その反面、アルベルト・アインシュタインやヘルマン・ヘッセ、エレン・ケイらと意を通じ合うことになる。国際的には評価される一方で、母国では好感されぬこうした傾向は、生涯にわたることになる。50歳であった1916年に1915年度のノーベル文学賞を受賞。1917年にロシア革命が勃発すると早くも支持を表明し、レーニンの死やロシア革命10周年に際してはメッセージを送った。白色テロに反対する『国際赤色救援会』()にも参加し、『ソ連邦建設科学アカデミー』の名誉会員に選ばれるなど、ソビエト連邦や共産党への共感を鮮明にした。1934年に再婚した2度目の妻マリー・クーダチェヴァ(Maria Koudacheva)はロランがモスクワから招いた秘書であり、再婚の翌年には夫妻同道でソ連を訪問し、マクシム・ゴーリキー宅に滞在してスターリンとも会見。アンドレ・ジッドがソ連を批判した際には反批判を加えるほどだったが、独ソ不可侵条約の締結を切っ掛けとして『ソヴィエト友好協会』(L'association des amis de l'Union soviétique)を脱会し、以降は没交渉となる。戦後の1919年に母親が死去したことから一時パリへ戻り、1921年にはタゴールを迎えるなどしたが、1922年、父および妹マドレーヌと共にスイスのレマン湖東岸ヴィルヌーヴ()に定住する。1923年に雑誌『ヨーロッパ』()が創刊した際にはこれを援助し、ロンドンの国際ペンクラブ大会にも出席した。翌1924年にはマサリク大統領に招かれてプラハを訪れ、ジュネーヴの国際連盟総会に出席。その一方で、ムッソリーニのファシスト党による暴行を非難している。1926年、雑誌『ヨーロッパ』が生誕60年記念号を出した。タゴールやネルーがロランの許を訪問。1927年にはアンリ・バルビュスの反ファシズム宣言に賛同者として名を連ね、1932年にアムステルダムの『反戦全世界大会』が挙行されると、バルビュスと共に主導役となっている。65歳であった1931年に父親が死去し、マハトマ・ガンジーが来泊する。この年に起こった日本の満州占領については日本を非難した。1933年にはドイツ大統領ヒンデンブルクがロランにゲーテ賞を授与するが、ロランはこれを拒否。パリに『反ファシスト国際委員会総会』(Comité antifasciste international Membre)が成立すると、ルイ・アラゴンと共に名誉議長となる。1936年にアラゴンやアンドレ・マルローらの発議、アンドレ・ジッドの司会により、生誕70年の祝賀会がパリで挙行される。レオン・ブルムの第一次人民戦線内閣の後援のもとに『七月十四日』がパリで上演され、ミヨーとオネゲルが曲を付し、ピカソが幕絵を描いた。72歳であった1938年にスイスからフランスへ帰国し、故郷に近いヴェズレーを終生の住処とする。ミュンヘン会談における仏英の弱腰に抗議し、1939年にナチス軍がチェコスロバキアへ侵入すると、首相ダラディエに非難書簡を送っている。第二次世界大戦が勃発するとヴェズレーがナチス占領地域内となり、ロランも沈黙を強いられるものの、それでも旧友のクローデルがロマンの許を来訪している。1943年から病床に就くが、1944年にパリ解放を知り、ソヴィエト大使館の十月革命祝賀会に出席。レジスタンス犠牲者追悼会にメッセージを送り、年末には原稿の校正を終えると永眠した。故郷クラムシーで葬儀が行われ、近くのブレーヴ(Bréves)の墓地に埋葬された。1946年、未亡人が企画して『ロマン・ロラン友の会』(Association des amis de Romain Rolland)が組織され、1985年の147号まで、会報を発行した。1918年、成瀬正一が日本人として初めてロランの許を訪れたとされる。1925年、高村光太郎、倉田百三、尾崎喜八、片山敏彦、高田博厚らが『ロマン・ロラン友の会』を作り、一部はロランと文通した。1928年には中村星湖が、1929年には片山敏彦や松尾邦之助が、1930年には片山に連れられた高田博厚が、ヴィルヌーヴのロラン邸を訪ねた。高田博厚は翌年あらためて旅費まで用意されてロラン邸に招かれ、マハトマ・ガンジーに引き合わされ、素描した。高田は後にロランの塑像作りを頼まれてもいる。1937年、倉田百三の『出家とその弟子』の仏語訳を松尾邦之助らが出版した時は、ロランが序文を寄せた(みすず書房第3次全集、第43巻に訳文を収録)。1971年、仏文学者の宮本正清が『ロマン・ロラン研究所』を設立し、現在に至っている。主な著述を執筆年順に列記する。各列末尾の「全」以下の括弧書きは、みすず書房の第3次全集(1979年 - 1985年)における収録巻数と翻訳者である。日本語訳の全集はみすず書房から1946年以降3回、編纂・発行されたが、2009年1月現在絶版になっている。1975年 - 1985年の第3次の全集は、次の構成の43冊組であった。各巻の内容は、著書の項に、原著の執筆年順に展開した。同一作品の同じ翻訳者による重版は、最近の版のみを記す。
出典:wikipedia
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