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島田紳助

島田 紳助(しまだ しんすけ、1956年3月24日午前7時15分 - )は、日本の元お笑いタレント、実業家。コンビ時代は紳助・竜介のボケ担当。本名、長谷川 公彦(はせがわ きみひこ)。京都府京都市南区出身。1974年から2011年の芸能界引退時まで吉本興業(よしもとクリエイティブ・エージェンシー)に所属していた。父親が国鉄職員(南満州鉄道の職員歴もある)の家庭に生まれ育つ。『松本紳助』で紳助本人が語ったところによると「鳩みたいに真面目で温厚な性格で、自分が警察に補導されても『話し合いで解決できる』と言って一度も激怒しなかった」とのこと。中学生の時は学校の窓ガラスを割ったり、教室で盗品を売りさばいたりしており、高校生の頃に車上荒らしで補導されて少年鑑別所に送致された経験がある。10代頃から広島に拠点を置くヤクザである波谷守之に憧れていたという。少年時代は暴走族であったと語っており、現在も当時の話をしばしばネタにしている。高校のとき教師から叱責されたのを機会に「おもろい不良になろう」と改心(?)する。高校時代のあだ名は、泣きながら熱く語ることから「泣き虫みー君」。高校の三者面談で「公彦君はこの学校のゴミです」と言われたことがあった。また、高校時代に生徒会長に立候補しようとしたところ、教職員一同に「長谷川君、頼むからやめてくれ」と言われたという。後年、芸能界で大成した後に学校へ行くと「君はこの学校の誇りだ」と言われ、それに対して、「ゴミと誇り(埃)やったら変わらへん」と冗談めかして話している。高校時代の担任は宗教の教諭であり、注意する時に叱り付けるのではなく、「インドの偉いお坊さんはな…」と諭されていた。その一方で、「大学を出ないと人生のスタートラインに遅れる」と考えていて、勉強はやっていたという。10代の頃は大場政夫に憧れ、ボクシングジムに通っていた。1973年には京都府高校フライ級1位を獲得(ただし紳助いわく出場者は3人)。また、料亭に勤めていたことがあり、将来は寿司屋か競艇選手か漫才師かと考えていた。18歳の時、B&Bに憧れ、B&Bの師匠である島田洋之介・今喜多代(後・今日喜多代)に弟子入り。同期に明石家さんま、オール巨人、桂小枝などがいる。「島田洋七を倒すことに俺の青春を賭けよう」と誓った。その後、洋七を前にしたり洋七の話になった際は、「結局何もしてないのに勝手に倒れた」と得意の毒舌で当時を振り返っている。「島田紳助」という芸名の由来は、「島田」は師匠の島田洋之介一門から、「紳助」という名前はいくつかの芸名候補の中から、師匠の島田洋之介が「『紳助』でいいやん」という一言で決まった。紳助本人は数ある芸名候補の中で「けんじ」という芸名にしたいと思っていたが、反対に「紳助」が一番嫌だと思っていたという。理由は、子供の頃に同じ「しんすけ」という名前の友達がおり、その友達があまり良い印象ではなかったためだという。ちなみに、同期の杉本高文に「島田紳助」という芸名が決まった時に「その名前じゃ絶対に売れない」とからかわれ、紳助は落ち込んだが、逆に杉本が「さんま」という芸名をもらったと聞いた時、紳助は「こいつ(芸能人として)終わった」と大笑いしたというエピソードがある。弟子入りしてから竜介に出会うまでの2年間に別の芸人と2度コンビを組んでいるがどちらも全く上手くいかず、すぐに解散している。この2年間にキャバレーの呼び込みのバイトをしたり、緻密な研究ノートを書いたり、海原千里・万里、夢路いとし・喜味こいし、B&Bらすでにテレビで活躍している漫才コンビのレギュラーの本数の推移のグラフなどを書き、部屋いっぱいに貼っていた。トップホットシアターなどの劇場に通い漫才を生で研究していた。1977年9月にうめだ花月で進行をしていた松本竜介(解散後「松本竜助」に改名)と漫才コンビ「紳助・竜介」を結成。明石家さんまにコンビを組もうとして断られた結果、さんまが紹介したのが竜介だった。つなぎ作業着風の衣装を着てリーゼント姿の紳助が竜介と絡む芸風は「ツッパリ漫才」と呼ばれ、若い男性を中心に爆発的人気を得る。1980年頃からの漫才ブームでは、関西の雄として一翼を担った他、後輩のダウンタウンにも大きな影響を与えた(詳細は紳助・竜介の項目を参照)。1981年には、『ガキ帝国』(井筒和幸の監督作品)で竜介とともに映画初主演を果たした。同年、フジテレビ『オレたちひょうきん族』にコンビ揃ってレギュラー出演。この番組で紳助は、TBS『ザ・ベストテン』のパロディコーナー「ひょうきんベストテン」の司会を務めたり、同期のさんまの恋人役で女装をしてコントを演じたりなど、竜介とのコンビにとらわれない形での出演が増え、紳助個人の才能を見せるようになる。漫才ブームが次第に沈静化する中、1985年5月、紳助・竜介は解散。その際、「このままではサブロー・シローやダウンタウンには勝てない」と発言した。1987年、日本テレビ『歌のトップテン』で和田アキ子とともに2代目司会者を担当。この番組で紳助は和田から司会術を学び、先述の「ひょうきんベストテン」やABC『ヤングプラザ』、MBS『ヤングおー!おー!』、そしてこの『歌のトップテン』で司会者としての礎を築いた。40・50代(引退前)は司会者としての活動が中心であり、パネラーとしての出演は滅多になかったが、この頃にはともにMBS『クイズ!!ひらめきパスワード』、TBS『わくわく動物ランド』、フジテレビ『アイ・アイゲーム』には解答者として出演していた。司会者以外で番組出演することは少なく、レギュラー番組では、広島テレビ『松本紳助』、ゲスト出演した番組では、日本テレビ『踊る!さんま御殿』、読売テレビ『ダウンタウンDX』、特番では、ABC『M-1グランプリ』の審査員(第1回大会のみ司会兼審査員)などがある。1990年代の紳助は、お笑いにとらわれない形での仕事が増えていく。特に1990年に、テレビ朝日・ABC『サンデープロジェクト』の司会に起用されたことは話題を呼び、2004年まで14年も続く仕事となり、その間にタレントとしてのイメージを大きく変えることになった。以降、司会者としての出演が増え、司会を務めたいずれも日本テレビ『EXテレビ』、『嗚呼!バラ色の珍生!!』、TBS『ダウトをさがせ!』、テレビ東京『開運!なんでも鑑定団』などが人気番組となる。特に、1991年秋にはTBSで『オールスター感謝祭』がスタートし、毎回200人もの芸能人を3〜5時間半の長時間仕切り上げ、司会者としての地位を不動のものにする。こうした司会業の中で、若手の芸能人や素人の出演者をおもしろおかしく「いじる」才能が徐々に注目されるようになった。それまでバラエティ番組とは無縁だった歌手や俳優のバラエティ番組との相性を見抜いて自分が司会する番組に出演させることが多く、円広志や高木美保、misono、飯島愛のように、それをきっかけに人気を上昇させ、活動の幅を広げていく芸能人も多数存在した。2000年代に入ってからはプロデュース業にも進出。関西テレビ『紳助の人間マンダラ』では、吉本興業のお笑いコンビであるランディーズ、ロザン、キングコングの3組によるアイドルユニット「WEST SIDE」をプロデュース。関西圏ではジャニーズ事務所のアイドル達をも凌駕するほどの大人気グループに成長させた。後述の引退後のインタビューの際に、多くのタレントのプロデュースを行った理由について、「自分が出たから、僕が関わった人間が1人でも世に出ればという気持ちがあった」「芸能界で成功するのは1000分の1の可能性くらいであり、そんな中で自分の関わった奴らをなんとか世に出してあげたら、自分も幸せな気持ちになるから」と語った。2001年には吉本興業から「漫才復活のために知恵を貸してください」と頼まれ、漫才選手権大会(テレビ番組でもある)『M-1グランプリ』を企画。大会委員長として審査員も務めた。厳しい審査の中でますだおかだ、フットボールアワー、ブラックマヨネーズ、チュートリアル、サンドウィッチマンなど数多くの若手漫才師を世に送り出す。おぎやはぎ、南海キャンディーズ、オードリーなど優勝には至らなかったもののこの大会をきっかけにブレイクしたコンビも多い。2008年度からは「国民的行事」と呼ばれるほどの注目度と人気が高まった(この年、関西地区での平均視聴率35%以上、瞬間視聴率は40%以上を記録した)。2010年で惜しまれつつ一旦終了したが、紳助は「惜しまれて終わるのが一番良い」と述べている。2004年10月から2005年1月までの間は傷害事件(詳細後述)により一時、テレビから姿を消していたが、年明けに復帰。2005年、石垣島に喫茶店「TOMURU(トムル)」をオープン(130R経営、現在は閉店)。同年、京都で料理店を営んでいた古塚健一と共同で株式会社はせ川を設立。11月に大阪・東心斎橋に「寿司 はせ川」をオープンし、2007年9月には東京・西麻布にもオープン。その他、大阪・東心斎橋に「しゃぶしゃぶ チョモランマ はせ川」(現在は閉店)や「京風鉄板 はせ川」、「バー はせ川」などを展開する。2005年10月からのフジテレビ『クイズ!ヘキサゴンII』ではPaboや羞恥心といったユニットをプロデュースし、ブームを巻き起こす。これをきっかけにカシアス島田名義で作詞活動を行なうようになる。2007年から2010年まで、国政選挙施行日における日本テレビの選挙特別番組『ZERO×選挙』でメインキャスターを務めた。2009年6月14日放送分のNHK総合テレビ『MUSIC JAPAN』に「カシアス島田」名義でコメント出演した。なお、NHKへは『おとうさんの時間』(1993年 - 1994年)のほか、『バラエティ生活笑百科』(1985年。NHK大阪放送局制作)や『私と尾崎豊〜マイベストソング』(2003年4月14日)など数番組に出演歴がある。2009年と2010年には、フジテレビ『FNSの日』(前者は『FNSの日26時間テレビ2009超笑顔パレード 爆笑!お台場合宿!!』、後者は『FNSの日26時間テレビ2010超笑顔パレード 絆 爆笑!お台場合宿!!』)の総合司会を2年連続で務めた。その中でFNS局対抗企画として2年連続で開催した三輪車12時間耐久レースで大会委員長を務めた。オリコン調査による「好きな司会者ランキング」では2009年・2010年で2年連続1位を獲得した。一方2011年には、日経BP社刊『日経エンタテインメント!』編集部調査による「お笑い芸人人気調査」において、「嫌いな芸人ランキング」の第1位を獲得した(これまでが9年連続トップに君臨していたが、紳助が江頭のV10を阻んだ。ちなみに、好きな芸人ランキング1位は同期の明石家さんま)。芸能人時代晩年ではNHK『NHK紅白歌合戦』の司会を目指していた。なお実際、2008年前後にはマスコミ報道で紅白司会起用の可能性が幾度か取り沙汰された。同じく日本テレビ『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』内チャリティーマラソンのランナー候補に挙がっていると報道されたこともある(引退後、「紳助が同チャリティーマラソンに挑戦して芸能界復帰」との報道がされたこともある)。2011年8月23日、最後のテレビ出演となった『開運!なんでも鑑定団』の放送終了直後、暴力団関係者との「黒い交際」を理由に引退を宣言し、この日を以って芸能界を引退。警察では、深い交際があったのではないかと捜査を進められた。(詳細後述)一方、民事裁判で、暴力団交際報道の記事について講談社を名誉棄損で訴えた件では、複数の建設会社社員らに対する現代側の取材内容について「具体的かつ詳細で、内容に不自然な点はない」と指摘し、「少なくとも記事の重要部分を真実と信じる相当の理由があった」と認め、東京地裁は紳助側の主張を退けた。引退となる2日前、『24時間テレビ34』『行列のできる法律相談所』の生放送に立て続けに出演しており、『24時間テレビ34』のチャリティーマラソンを完走した徳光和夫に対し、『行列のできる法律相談所』の生放送内で「今日でテレビは引退のようなものだから、今後は楽しんでテレビに出てほしい」と述べる場面があった。多くの芸能人からは「紳助さん」「紳助師匠」と呼ばれていたが、同期の明石家さんまや和田アキ子、笑福亭鶴瓶、上岡龍太郎、坂田利夫、やしきたかじん、ビートたけし、間寛平、タモリなどの年上及び、年下の先輩の著名人からは「紳助」と呼ばれていた。自称身長170cm、体重70kg。配偶者(妻)は一般女性で、娘3人。京都市立唐橋小学校、京都市立八条中学校を経て大谷高校卒業。京都学園大学経済学部に入学したが、入学試験が面接だけであり、ここに4年間通っても得るものは少ないと考え、親が入学金を支払った直後に弟子入りしたため通学はしていない。吉本興業に属しているが、別に「有限会社オフィス百三十アール」(通称 「130R」)という個人事務所を設けている。事務所の名前は鈴鹿サーキットにあるコーナーの名称に由来している。1999年7月から2011年3月末まで京都市特別観光大使を務めていた。同年8月23日に芸能界引退を表明。また、株式会社ディンプスの相談役を引退に伴い2011年8月24日付けで引責辞任した。紳助に弟子入りを申し込んで断られた板尾創路は前述の「130R」という名前を気に入り、紳助の了承を得て、「130R」という名前をほんこんと自身のコンビ名にした。そのほか、島田半平太(引退)、島田まさしらが弟子である。1986年から1995年までの10年間、レーシングチーム『チーム・シンスケ』の監督として、鈴鹿8時間耐久ロードレースや全日本ロードレース選手権に参戦した。NHKのスポーツ番組でインタビューが放送されたこともある。1980年代後半はバブル景気の絶頂期であり、モータースポーツ界には各方面のタレントをお飾りで監督に仕立てた(つまりサーキットに来てもレース関係の仕事は何もしない)レーシングチームが2輪・4輪を問わず乱立していたが、紳助は自ら企画書を作成してスポンサー企業を回ったり、レース当日は自分で作戦を立ててライダーやスタッフに指示を出したりし、他のタレント監督とは完全に一線を画していた。その時の活動を書いた著書『風よ、鈴鹿へ』は、小説ではあるがノンフィクションに限りなく近い作品である。また、1991年にはバイクレースをテーマとした映画『風、スローダウン』の監督をつとめている。自身も高校時代に経験しているためかボクシングに対しての造詣が深く、他のスポーツに比べて世間的にマイナーなイメージがある事を遺憾に思い、先述の亀田一家のパフォーマンスや過去にも辰吉丈一郎の対戦相手を挑発する言動にもボクシングを世間にアピールするための言動と評している。自身もボクシングに対しての敬意があり、当時数度の防衛を行ないながらも格闘技ファン以外にはほとんど認知されていなかった長谷川穂積を自身の番組のゲストで呼び、幾度となく取り上げ、知名度を全国区に広げるなどボクシングと王者に対する敬意は余念がない。長谷川とは家族ぐるみで交流がある。また渡辺二郎との交友履歴が長かったが、これが後の芸能界引退の契機となった。父親が元国鉄職員だったゆえに鉄道に関する知識もあり、自身が司会を務めたクイズヘキサゴンの番組内にて「東海道本線の東京から神戸間までの全駅名を暗唱する」という特技を披露したことがあった。わたせせいぞうの作画で漫画原作を担当している。だが本人は子供の頃から漫画を読まず、熱中したアニメもないという。そのため、フジテレビ系アニメ『ONE PIECE』のタイアップ曲である「風をさがして」の作詞を真面目にせず、ファンから酷評された。しかしながらジブリ映画にははまっており、中でも『耳をすませば』は「凄く良かった」と著書で絶賛していた。また、1990年に放送されたアニメもーれつア太郎の主題歌を島田紳助&バスガス爆発楽団名義として担当していた。2004年10月25日、朝日放送社内にて『クイズ!紳助くん』収録前、勝谷誠彦の女性マネージャー(当時40歳)が、紳助の尊敬する会社の社長や先輩芸能人を呼捨てにして話すのを聞き、さらにその女性が会社に入って当時既に5年目と知り、その女性を別室に無理やり連れ込み説教をしたが、反省の様子が全くないと腹を立て、拳や物で殴る、髪を掴んで壁に打ちつける、顔に唾を吐きかけるなどの暴行を加え、全治1週間の頸椎捻挫を負わせた。すぐさま被害女性は大阪府警大淀警察署に診断書を提出し、10月28日付で傷害容疑で告訴した。紳助は警察に訴えられたと知ると、同日に吉本興業の東京支社で記者会見を開き、暴行傷害の容疑を認め、テレビカメラの前で「100対0で僕が悪いです」「被害者が芸能界を辞めろと言うならすぐに辞めます」と言って泣きじゃくって反省している様子を見せた。だが、記者からの質問に対してはひたすら「僕が悪い」を繰り返すだけで、質問には全く答えなかった。これを受けて吉本興業では11月4日まで紳助を謹慎処分とし、期間中のレギュラー番組については、各局ともテロップ(収録した日付など)を挿入して通常通り放送した。ただし日本テレビ『行列のできる法律相談所』については、法律をテーマに扱っているだけにテロップ挿入で放送というわけにはいかず、緊急生放送として事務所の後輩で準レギュラーの東野幸治を代理司会に立てて放送した。大阪府警大淀署は11月4日、紳助を「加害者」として傷害罪の疑いで書類送検、検察が略式起訴を請求し、大阪簡易裁判所において、「罰金30万円」の略式命令が下され、正式裁判の請求がなされることがなかったため有罪が確定した。なお、紳助は、当初の11月4日までの芸能活動自粛期間の無期限延期を表明し、11月8日の読売テレビ・日本テレビ『キスだけじゃイヤッ!』を最後にテレビから一時期姿を消した。被害者からは「芸能界を辞めて」と引退を要求されていたが、わずか2ヶ月程の謹慎の後、2005年1月2日『行列のできる法律相談所』内の生放送にて復帰の挨拶と事件についての謝罪を改めて行って復帰した。先述の東野やダウンタウンらが紳助のレギュラー司会の代理を務め、紳助の復帰まで繋いだ。被害女性は事件後休職していたが、2006年6月限りで休職期間満了として退職扱いとなった。しかし、同年8月4日には被害女性が加害者の紳助と吉本興業を相手取り、4400万円の損害賠償を求める民事訴訟を東京地方裁判所に起こした。また、仕事ができなくなったのは首の捻挫やPTSDなどが原因であるとして、退職扱いの無効と雇用関係の確認も求めた。賠償請求訴訟は2010年9月21日、原告主張が認められ1045万円の賠償命令が下ったが、退職扱いの無効と雇用関係の確認に関しては原告主張が認められず棄却となった。本件の控訴審は2011年9月22日、東京高等裁判所で和解が成立。これに関して吉本興業側は具体的な内容について「明かさない」としている。先述の書類送検時、メディアがこれを報じた際、NHK・共同通信社は「島田紳助所属タレント」、日本テレビは「島田紳助さん」、TBS・テレビ朝日・テレビ東京は「島田紳助司会者」、フジテレビ・読売新聞・朝日新聞は「島田紳助容疑者」、毎日新聞は「島田紳助(呼び捨て)→島田紳助容疑者」、産経新聞は「島田紳助さん→島田紳助容疑者」、スポーツ新聞各紙(『スポーツニッポン』、『日刊スポーツ』、『スポーツ報知』、『デイリースポーツ』、『サンケイスポーツ』:大阪版)は「島田紳助(呼び捨て)」とそれぞれ呼称が分かれた。民放在京キー局で唯一「容疑者」呼称をしたフジテレビは「(逮捕ではなく)書類送検ではあるが、紳助が記者会見で罪を認めたため、容疑者扱いとした」としている。また、フジテレビを含め「容疑者」呼称をしたメディアも「島田紳助(芸名)容疑者」とし、「長谷川公彦(本名)容疑者」とはしなかった。2011年8月23日19時頃、所属する吉本興業から「島田紳助に関する緊急記者会見開催」がマスコミ各社に通知され、22時00分より吉本興業東京本部で紳助本人および吉本興業社長の大崎洋などによる記者会見の席にて同日付にて島田紳助が芸能界を引退するという発表が行われた。引退事由は、紳助と暴力団関係者との交際が発覚し、けじめを付けるため、自らの意思での引退であるとした。紳助はあらかじめ軽い言い方で申し訳ないと前置きしながらも「僕の中では『この程度』なんです。頻繁に密着しているわけではない。『この程度』でも引退になるんだと、後輩に同じ過ちを繰り返させたくない」「自分の中ではセーフと思っていたが、芸能界のルールとしてはアウトだった(指摘されるまで気づかなかった)」「(週刊誌による不法カジノ入店を否定した際)嘘を言っていたら、皆さんの前で腹を切る」「僕が何も言わなかったら謹慎処分だったと思います」と語った。時折、涙を交えながらの記者会見は50分程に及んだ。また涙の理由に関しては「引退を決意した際、慰めてくれたり本気で叱ってくれた人の優しさを思い出し涙を流したのであって引退に対する後悔の涙ではなく引退を決意してから一度もぶれることがなかった」と述べた。紳助は後述の引退後のインタビューの際、「引退は以前から別の理由で考えていて、暴力団との交際発覚はそのきっかけの1つに過ぎない」と語っている。吉本興業側は、警察から吉本興業に暴力団関係者のメールの中に、紳助とのやりとりがあったという情報が寄せられたことから、8月21日のいずれも日本テレビ『24時間テレビ34』、『行列のできる法律相談所』生放送終了直後に紳助を呼び事実確認をしたところ、紳助が事実であることを認めたため引退を決定した。「法的には問題はないが、芸能界のモラルとして社会的影響力の高いテレビ等に出演しているタレントとしては許されない。社としては厳しい態度で臨むべきだと判断した」と説明した。また会見では、暴力団関係者の氏名・団体名は非公表とされ、記者団にもそれに関する質問の自粛を求めた。各メディアは紳助引退の第一報を会見終了後に行い、テレビ・ラジオで会見の生中継もなかった(これも吉本興業側の通達によるものとされる)。会見翌日以降、芸能ニュースだけでなく一般ニュースとしても大きく取り上げられた。関係を持っているとされた暴力団関係者は、1人は渡辺二郎、もう1人は、山口組ナンバー4・筆頭若頭補佐で、山口組系極心連合会会長の橋本弘文であると報道された。また、渡辺は極心連合会相談役であるとも報じられた。関西テレビ『紳助の人間マンダラ』担当中の1998年、番組内で行った発言が右翼団体の癪に障り、関西テレビ本社に頻繁に街宣がかけられ、引退を考えるまでに精神的に追い詰められていた。しかし、渡辺が橋本にそれを鎮めるよう依頼し、右翼団体の街宣は収まった。以来、それを鎮めた橋本との交流が始まった。25日には、橋本に送った手紙や同席写真が、暴力団関係者の警察の家宅捜索の際に見つかっていたことが報道された。後にはさらに、別の山口組大幹部―山口組のナンバー2と目される弘道会会長・高山清司と見られる人物と肩を寄せ合って写った写真が『フライデー』に掲載されるに至っている。紳助は後述のインタビューの際、これらの写真に関して、「自分のミスだった」「昔に撮った写真で存在を忘れていた」と釈明した上、改めて自身が暴力団と深い関係がないことを強調し、その証拠として「もし深い関係があるなら、自分は逮捕されている」と主張している。2012年1月4日に吉本興業社長の大崎が記者会見を開き、「いつの日か、私達吉本興業に戻ってきてもらえるものだと信じております」「私達は彼の才能を惜しむものであります」「これは吉本興業の全社員、全タレント、全芸人の思いです」と紳助の芸能界復帰を希望する発言を行った。『週刊ポスト』2012年5月25日号によると、この会見翌日、吉本興業には抗議の電話が殺到し、大崎自身にも世間から厳しい批判の目が向けられたという。吉本興業側が紳助の復帰を熱望する理由については、「紳助の抜けた穴が想像以上に大きく、若手芸人で埋めるのは無理だったことに加え、経営状態も決して盤石とは言えず、“稼ぎ頭”に早く戻ってきてほしいという切実なる本音」としている。ただし大崎の発言後、週刊誌等のメディアは紳助の芸能界復帰説を書き立てるようになった。2012年春以降は、具体的な復帰プランについて報じる週刊誌なども出ている。また、2012年8月に紳助は大崎と会談し、復帰について胸中を語っていたことが報じられたが、紳助は復帰を否定しているため真相の程は不明である。紳助はダウンタウンの登場が自らに漫才を諦めさせ、紳竜解散を決意するきっかけとなったため、自分が芸能界を辞める際はまず友人関係にある松本人志に話をすると予てから心に決めていた。そのため今回の引退決意に際して紳助は松本に電話および電子メールにて自身の引退を伝え、それを受け取った松本は「辞めないでください、漫才だけは辞めないでください」と慰留するも紳助の意思は固く、「自分のわがまま、美学を通させてください」と返されたという。松本自身はその後、コメントを発表せずインタビューでも一定の沈黙を保ったが、コメンテーターとして出演している『ワイドナショー』において、2013年10月21日に「僕は全然戻ってきてもいいと思う」、2014年5月4日には「僕はずっと言ってるんですけど、紳助さんに戻ってきてほしいんですよ」と紳助の復帰を望む発言を繰り返している。また紳助は和田アキ子にも引退を報告しようとしたが、和田が海外旅行中で出なかったため、報告は松本のみになった。和田は帰国後、「弟のように可愛がっていたのに残念」と語った。ロンドンブーツ1号2号・田村淳は「吉本興業の尊敬する先輩の1人が引退されること、ただただ残念でなりません。僕が司会の仕事をするようになった時に紳助さんの番組を沢山見て、勝手に学ばせてもらってました…中々一緒に仕事をする機会が少なかったですが、まだまだ勉強させてもらいたかったです」と述べた。ナインティナインの岡村隆史が病気で休養していた間、毎日メールで連絡をしていた先輩が紳助であり、引退に際しては「常に自分を気にかけてくれた、ただただ熱く後輩想いの良き先輩、戻ってきて欲しい」とコメントした。また、任命された『THE MANZAI 2011』の司会をやり遂げたいと決意を露わにし、やり遂げた。紳助の番組をきっかけにブレイクした上地雄輔は自身の公式ブログで、「しんすけさんは、誰がなんと言おうと、何を言われようとオイラの父ちゃんです。「お父ちゃん」なんて書いてまた不謹慎て書かれても報道されても、間違いなく大事な大事なオイラの父ちゃんは父ちゃんです。あの人はそんなすごいスーパーマンです。ただオイラはオイラの大好きな人の笑顔と、きれいな涙を何があろうと、守ると決めたらズェッテーに守ります。文句があんならどーかほっといて(;_;)」とコメントした。それ以外にも紳助の番組に出演した芸能人はブログやテレビ番組で引退を惜しむコメントを出した。明石家さんまは紳助の引退に理解を示し、「帰ってきたって良いんですよ」「引退する気持ちは物凄い分かる。疲れてくるんですよ。いろんなことに。僕も何度もやめようと思った」とコメント。紳助とは同期であり親友の間柄だが、本人から連絡は来ず会社からの報告で引退を知ったと語った。また、一番の友達というイメージであろう自分に記者が詰めかけるだろうと予想していたが、1人たりとも取材が来ず落胆したという。本人は紳助に「やめないでくれ」と泣いたり、面白コメントを残す用意をしていたらしく、記者会見まで開くつもりだった。公には「(仕事が増えて)嬉しいわ」「本人とは連絡とっていない。あいつは法律で決まっているかのように大事な話は一切せえへんねんな」「あいつが辞めたことで、仕事が増えるやろ。(引退の真相を)俺が調べてラジオで言うわ」とコメントしている。紳助引退後の『行列のできる法律相談所』のスペシャルの回では特別ゲストとして登場し司会を務めている(その際、紳助の名前を出し笑いを取ることもある)。一方でビートたけしは過去にトラブル解決の申し出があっても全て断ってきたと紳助との違いを強調した上で、「タレントとしてそういうのを上手くやって逃げるのも本人の“芸”だって言ってるんだけど、紳助は“芸”がなかった」と語った。引退報道直後に放送された『たけしが鶴瓶に今年中に話しておきたい5〜6個のこと 其のII』(TBS)の冒頭において、引退問題について、笑福亭鶴瓶とトークした際、「紳助を引退というかたちではなく、半年間謹慎にさせて、その復帰後に暴力団に関するネタを話していけば良いのではないか」と提案していた。また、たけしが前述のインタビューの後に、しばらくマスコミに追い掛け回されたことについて、「紳助の気持ちがわかった」とも吐露していた。やしきたかじんは「歯切れが悪い。メールくらいでは吉本は切らない」と記者会見で語られた以上の事実があるのではないかとの見方を示した。大橋巨泉は「カナダで、限られた情報しか手に入らない」「反社会的勢力との交際は、公人としてはまずい」とした上で、「『引退』には反対」「『1年間の謹慎、休養』くらいが妥当ではないのか」「これからが面白いと思っていたのに、残念でならない」と過去に自らが才能を見出した紳助の引退を惜しんだ。政界その他各界からもコメントが多数寄せられた。『行列のできる法律相談所』への出演から政治家へ転身した者のうち、当時大阪府知事の橋下徹は「紳助さんの番組がなければ知事になれなかった」「非常に残念であり、(引退会見を見て)つらかった」「バラエティーの世界で、宝であるのは間違いない」とし、紳助にメールで「お疲れ様でした」とねぎらいの言葉を送り紳助からは「ありがとう」という返信が来た事を述べたが、自身の立場上暴力団関係者との交際については「暴力団追放の旗振りを僕がしている以上、寛容にはなれない。紳助さんが判断されたことは、正しい判断だと、僕は思っている」と述べた。同様に現在、参議院議員の丸山和也は「綺麗事で腑に落ちない。響かないワンマンショーだった」「『どこが悪いんですか』と突っ張って開き直るべきだった。」「そうしないから『他に理由があるのかな』『先手を打ったのかな』と思ってしまう」「『後輩に示しがつかない』『僕の美学』と、お涙頂戴の世界にするのは逆にカッコ悪い」と評した。また、当時の内閣官房長官であった枝野幸男は「政府は企業活動からの暴力団排除に向けた取り組みを推進しており、引退はやむを得ない。天才的で国民に広く親しまれていただけに残念」とコメントした。評論家の麻生千晶は「番組で人の顔の造作や体型についてまであれこれ言い、“突っ込み”と称する『いじり』と『いじめ』を繰り返していた。そんな彼の手法を真似(まね)する子供も増えたと聞き、彼が女性マネジャーへの傷害事件を起こした後も、各テレビ局の対応は甘く、彼を使い続けたテレビ局や吉本興業にも責任がある」と評した。他に海外メディアも引退を伝えた。紳助の引退で、出演番組の放送についての対応はテレビ局毎に分かれた。共通していることは、引退後に収録された番組でトーク、ナレーターなどで紳助に関連する内容に触れる場合、紳助の実名を伏せて「あの人」「前任者」「大物司会者」などに言い換えて放送した。在京局・在阪局制作の紳助出演番組を購入して放送(再放送含む)するローカル局も該当番組を差し替えるなど対応に追われた。また、石橋貴明や松本人志、今田耕司、岡村隆史らが紳助を連想させる言葉として、「素敵やん」を用いている。詳細な情報に関しては、各番組の記事を参照のこと。これ以外に紳助が出演予定だった特別番組が多数あったが、いずれも放送中止もしくは代替出演者を立てるなどの対応が行われた。例えば『THE MANZAI 2011』は計画の白紙が一時報じられたものの、その後予定通り開催された。なお、紳助が務める予定だった「大会審査委員長」は代役を置かず空席となった(紳助に代わる番組の顔としてビートたけしが「大会最高顧問」として出演)。CS放送では『オレたちひょうきん族』の再放送(フジテレビONE)や『クイズ!紳助くん』(スカイ・エー)も終了となった。しかし、過去に紳助が出演していた『人形劇 三国志』(NHK)のNHKオンデマンドの配信は、2014年4月30日まで特に問題なく配信されていた。引退時点で唯一のCMであり、主に『行列のできる法律相談所』の枠で放送されていた、三浦工業のCMは引退後の24日に放送打ち切りを決定した。2012年1月、本人役として声のみの出演をした映画『犬の首輪とコロッケと』(引退前に撮影)が公開され、エンドロールに名を連ねた。『週刊文春』2012年4月26日号(2012年4月19日発売)に、8ヶ月の沈黙を破る形でインタビューが掲載され、紳助は「僕は芸能界に未練はない」「沖縄での隠棲生活は『精神的にギリギリの苦しさ』やった」などと振り返り、最後に「これからは世界を旅したい。人間生きてるだけで幸せだと思う」と語ると同時に芸能界復帰や政治家転身を否定した。一方、「いつか『テレビに出れる人』になりたい」とも語っており、自身の突然の引退で迷惑をかけた人達(番組スタッフ等)への償いをしたいという気持ちがあるとし、(『行列のできる法律相談所』のスタッフを指して)「彼らから『特番やろう』『BS(の番組)やろう』と言われたなら『1回だけやりたい』」とも述べている(レギュラー番組を持つなど完全な芸能界復帰は否定)。やしきたかじんが病気療養中だった時にたかじんと紳助が会っていたことを、たかじん自身が『たかじんのそこまで言って委員会』(読売テレビ)内で明らかにしていた。2014年8月に亡くなった高校の同級生である土建屋よしゆきの葬儀に報道陣を避けて参列(法要後の報道陣の退去後、土建屋と最後の対面をしたという)したことが、明らかになっている。その時、献花の名札は、紳助の本名である「長谷川公彦」名義となっていた。なお、告別式には参列しなかった。2014年8月26日、大阪・なんばHatchで開催されたRYOEIの5周年記念コンサートにサプライズ登場した。引退以来約3年ぶりの公の場への登場となり、会場のどよめきと拍手を浴びたが、「復帰なんて1000%せえへんから!」と復帰する意向は全くないことを述べた。2015年には作詞家としてRYOEIに楽曲提供を行った。2016年2月、フジテレビ『ワイドナショー』にて自身が芸能レポーターに送ったメールが紹介された。引退後の動きはテレビ各局への影響を参照。※コンビでの出演作は島田紳助・松本竜介の項を参照のこと。ファミコンニンテンドーDS

出典:wikipedia

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