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クラック・デ・シュヴァリエ

クラック・デ・シュヴァリエ(フランス語: Krak des Chevaliers, アラビア語: Qal‘at al-Ḥoṣn (قلعة الحصن))は、シリアに築かれた十字軍時代の代表的な城で、当時の築城技術の粋を究めたものと評価されている。1142年から1171年まで、聖ヨハネ騎士団の拠点として使用された。フランス語名のクラック・デ・シュヴァリエは「騎士のクラック」を意味し、アラビア語の「カラット・アル=ホスヌ」は「城塞都市」を意味する。フランス語名に現れる「クラック」は、十字軍時代のアラビア語史書で使われた「ホスヌ・アル=アクラード(Ḥoṣn al-Akrād、クルド人たちの城塞)」という名称のアクラード(クルド人)に由来すると考えられている。アラビアのローレンスは、この城を世界で最も素晴しい城だと述べた。城は十字軍美術(フレスコ画など)が保存されている数少ない場所となっている。城はトリポリの東に位置した高さ650mほどの峰に築かれており、アンティオキアからベイルートへ向かう海沿いの道や、内陸から地中海に出る唯一の通路(ホムスとタルトゥースの間の峠道)を扼している。元々は1031年にホムスの領主により建築されたが、第1回十字軍時の1099年にツールーズ伯レイモンにより落城した。エルサレムへ向かう十字軍はこの城を放棄しているが、1110年にアンティオキア公国の摂政タンクレードが再度攻め落として修築した。1142年にはトリポリ伯レーモン2世から聖ヨハネ騎士団に譲られた。聖ヨハネ騎士団は大規模な拡張を行い、コンセントリック(集中)型の城として、30mの厚さの外壁を加え、8-10mの壁厚の7つの守備塔を配置した。12世紀の頃には濠も有しており、跳ね橋が取り付けられていた。外壁は内壁との間隔を狭く、また直角の曲がり角を多くして、外壁を奪った敵が破城槌などの攻城兵器を内壁との間に持ち込みにくく使いにくいようにしてあった。内門と外門の間には中庭があり、内部の建築物に続いていた。内部の建築物は騎士団によりゴシック調に改造されており、ホールや礼拝堂を備え、長さ120mの食糧貯蔵庫を有していた。さらに、もう1つの貯蔵庫が地下に掘られており、5年間の包囲に耐えうると考えられていた。1170年にはほぼ完成していたが、その後も地震により一部が崩れ、何度か再建が行われた。城には50-60人の騎士と2000人の歩兵が常駐していた。周囲にはサフィータ、トルトーザ(タルトゥース)などテンプル騎士団の要塞、および聖ヨハネ騎士団の別の主要要塞マルガット城も位置し、十字軍国家による防衛網をなしていた。1163年にザンギー朝のヌールッディーンの包囲を受けたが、これを退ける。1188年にアイユーブ朝のサラディンによる包囲にも耐え、1207年にはサラディンの弟アル=アーディルの攻撃を凌いだ。しかし、1271年4月8日、マムルーク朝の君主バイバルスの調略により落城した。バイバルスはトリポリ伯が開城を勧めていると偽り、城主と騎士たちは偽の命令に従ってトリポリに落ち延びた。バイバルスの手により礼拝堂はモスクに変えられ、城は1291年のアッコン陥落時にも前線基地として使われた。1291年にアシュラフ・ハリールによって中東から十字軍勢力が掃討された後、城はマムルーク朝の副王の居城とされる。1273年の第9回十字軍時にイングランドのエドワード1世がこの城を訪れており、これを参考にしたエドワード式コンセントリック型の城をイングランドやウェールズに多く築いた。1928年にパリの碑文・学芸アカデミーが城を訪れ、最初の全面調査を実施した。当時の城には500人超の農民の居住地になっており、1934年に住民の移動が完了する。現在はシリア政府の所有物で、2006年にカラット・サラーフ・アッディーン(サラディンの砦)と共に世界遺産に登録された。2012年9月、トリップアドバイザーの企画「バケットリスト」の「世界の名城25選」に選ばれた。2013年にシリア騒乱による被害のため、シリア国内の他の5つの世界遺産とともに危機遺産に登録された。2013年7月シリアの内戦で空爆を受け塔の一つが破壊され、要塞の天井にも穴が開くなどの被害が出た。

出典:wikipedia

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