クリーム(Cream)は、1960年代に活動したイギリスのロックバンド。メンバーは、ベーシスト兼ボーカリストのジャック・ブルースとギタリスト兼ボーカリストのエリック・クラプトン、ドラマーのジンジャー・ベイカーから構成され、しばしばスーパーグループの一つに数えられる。ブルースとハードロック、サイケデリック・ロックを融合させたサウンドが特徴。世界でのアルバム売上は3,500万枚以上に及び、 『"Wheels of Fire"』は世界初のプラチナアルバムを獲得した2枚組のアルバムとなった。このような実績から、クリームは世界初の有名で機能していたスーパーグループとして認知されている。クリームの楽曲には「Crossroads」や「Spoonful」などの伝統的なブルースを基本としたもの、「Born Under a Bad Sign」などのモダンなブルース、さらにエキセントリックな「Strange Brew」「Tales of Brave Ulysses」「Toad」などがある。クリームヒット曲は「I Feel Free」(UK, #11)、 「Sunshine of Your Love」(US, #5)、「White Room」(US, #6),「Crossroads」(US, #28)、 、「Badge」などがある。クリームは、ジミ・ヘンドリックスと共に当時の音楽シーンに多大な影響を与え、またヘンドリックスと共にワウを流行らせた。彼らは、ヘビーかつ技巧的である、という音楽を提示し、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープル、ジェフ・ベック・グループのような、1960年代後半のイギリスのバンドに影響を与えた。バンドのライブ演奏は、ラッシュ、などのプログレッシブ・ロックバンド、オールマン・ブラザーズ・バンド、グレイトフル・デッド、フィッシュなどのジャムバンド、ブラック・サバスやウルフマザーなどのヘヴィメタルバンドに影響を与えた。クリームはVH1誌の "100 Greatest Artists of Hard Rock" で16位にランクし、また、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第66位となった。ジンジャー・ベイカーが、ホワイト・ブルースの名門ジョン・メイオール&ブルースブレイカーズに在籍していたエリック・クラプトンをバンドに誘う。クラプトンは、当時マンフレッド・マンにいたジャック・ブルースをベーシストにするならば、という条件を出す。ベイカーはブルースと非常に仲が悪かったが、この条件を呑み、1966年にデビューする運びとなる。ブルースが作曲しリード・ヴォーカルを取る曲が多いにもかかわらず、アメリカのレコード会社はクラプトンをプッシュし、クラプトンとそのバックバンドとして売り出すことを提案したが、もちろんバンド側に却下された。ライブ・アルバムを聴けばわかるように、3人は全く対等の高度な演奏力で火花を散らし、強烈なアドリブを繰り広げ、誰かがリーダーシップを取って牽引するというようなことはなかった。わずか2年半の活動で世界を席巻し、1968年に解散するも、後続のミュージシャンに多大な影響を与えた。1966年の7月、クラプトンはすでにヤードバーズとジョン・メイオール&ブルースブレイカーズでの活動によって、イギリスで第一級のブルースギタリストとしての評判を得ていた。 クラプトンの技巧とパワーは、1人のファンが「クラプトンは神」と、スプレーで地下鉄駅の壁に書くほどであった。 しかしクラプトンは、メイオールバンドの環境を窮屈に感じ、新しいバンドで演奏することを求めていた。1966年に、クラプトンは当時のリーダーだったベイカーと出会う。ベイカーのバンドでは、ジャック・ブルースがベースとハーモニカ、ピアノを担当していた。ベイカーもまた、GBOで息苦しく感じており、そしての薬物中毒による精神不安定さにうんざりしていた。「ジンジャーのことはずっと好きだった」とクラプトンは言う。「ジンジャーは、僕がジョン・メイオールと一緒に演奏するのを見に来た。ライブの後、彼のローバーでロンドンまで送ってくれた。彼の車と運転には感動した。彼は新しいバンドを始めたいと僕に言っていて、僕も同じことをずっと考えていた」。 2人は、互いの演奏技術に感銘を受け、ベイカーの方からクラプトンを、まだ名前のない新しいグループに誘うことになった。クラプトンは即座に受け入れるが、ジャック・ブルースをベースとして迎えることが条件だった。クラプトンによると、ベイカーはその提案に驚くあまり、車をぶつけそうになったという。実は、クラプトンはヴォーカルにスティーヴ・ウィンウッドを迎えたいという願いもあったそうだ。クラプトンは、ベース・ボーカルのブルースが1966年3月に短期間ブルースブレイカーズでプレイしていた頃に、彼と会ったことがあった。2人は単発バンドの (スティーヴ・ウィンウッドとポール・ジョーンズも参加)でも共演したことがあった。クラプトンは、ブルースのボーカルと楽器の腕前に感動し、彼と継続的にやりたいと思ったのであった。クラプトンは知らなかったのだが、ブルースはボンドのバンドに所属していたものの、ベイカーとは非常に仲が悪いことで有名であった。両人は素晴らしいジャズミュージシャンであり、お互いのスキルを尊敬してはいたが、GBOというバンドでは、2人のエゴを押さえ込むには小さすぎた。彼らの険悪な関係は、ステージ上でのケンカや一方が楽器をサボるほどであった。ベイカーがブルースをクビにした後も、ブルースはライブに現れ続けた。最終的には、ブルースはベイカーにナイフの先で脅されるまで、バンドから離れなかった。にも関わらず、ベイカーとブルースはベイカーの新しいトリオのために互いの対立を保留した。ベイカーは、メンバーそれぞれが曲と詩を出し合う、協力的なバンドになることを思い描いていた。バンドは「クリーム」と名付けられた。クラプトンとブルース、ベイカーは、すでににおけるブルースやジャズのミュージシャンの間で「cream of the crop(選りすぐりのもの)」と見なされていたからである。クリームに決定する前には、「Sweet 'n' Sour Rock 'n' Roll(甘酸っぱいロックンロール)」という名前も検討されていた。3人の中で、イギリスの中ではクラプトンがもっとも評判を得ていたが、彼はアメリカでは知られていなかった。「」がにチャートインする前に、ヤードバーズを脱退していたからだ。クリームの非公式なデビューは、1966年7月29日の「Twisted Wheel」であった。正式なデビューは、2日後のSixth Annual Windsor Jazz & Blues Festivalだった。結成間もなく、オリジナルの持ち曲も少なかったが、クリームは熱の籠ったブルースのカバーを演奏し、大観衆を震撼させ、好反響を得た。10月には、ロンドンに来たばかりのジミ・ヘンドリックスが、かねてからファンであったクラプトンとステージでの共演を熱望し、アニマルズのベーシストでヘンドリックスのマネージャーだったチャス・チャンドラーを通して紹介された。この頃のエピソードとして、ジミがクリームのステージ上にのぼり、「キリング・フロア」のジャムをしたが、クラプトンはジミの演奏の凄さにぶっ飛び、泣きそうになっていたというものがある。結成初期のうちに、ブルースがリードボーカルをとることが決められた。クラプトンは歌うことを恥ずかしがっていたが、たまにブルースのボーカルにコーラスを付け、そしてそのうちに、"Four Until Late"、"Strange Brew"、"Crossroads"、"Badge"などの主だった曲で、リードボーカルを採るようになった。クリームのデビューアルバム"フレッシュ・クリーム"は、1966年に録音・発表され、イギリスのチャートで6位、アメリカのチャートで39位を記録した。内容は「Four Until Late」、「Rollin' and Tumblin'」(マディ・ウォーターズの曲)、「Spoonful」(ウィリー・ディクスン作曲、ハウリン・ウルフの録音)、「I'm So Glad」、「Cat's Squirrel」など、主にブルースのカバーだった。その他の曲としては、ジャック・ブルース作の"I Feel Free" (イギリスでのヒットシングル。アルバムにはアメリカ版にのみ収録) やジンジャー・ベイカー作の"Toad"(ロックのドラム・ソロとしては最も初期の作品)などがある。初期のクリームは、多くの曲を演奏してみせるタイトなバンドであった。「N.S.U.」や「Sweet Wine」「Toad」等すべての曲は5分程度のバージョンにうまくまとめられた。しかしたった2か月後には、セットリストは短く1曲ずつがぐっと長くなった。結成時よりクリームが抱えていた根源的な問題は、ついには1968年11月の解散へ導いた。ブルースとベイカーの対立は、バンドに緊張をもたらした。クラプトンもまた、メンバー同士がお互いの意見を十分に聞かないと感じていた。クラプトンはあるとき、「クリームがコンサートで演奏しているとき、自分が演奏を止めてもベイカーもブルースも気づかない」と語った。 クラプトンはまた、クリーム後期のコンサートはメンバーそれぞれの見栄の張り合いだけになっていたと語った。 クリームは1968年5月のアメリカツアー中に、解散することを決断した。 7月に、アメリカでの解散ツアーとその後ロンドンでの2回のコンサートを最後に解散すると、公式に発表された。クリームは11月4日のロードアイランドでのコンサートでアメリカツアーを終え、11月25日と26日に最後のイギリス公演をロンドンで行った。クリームの解散後、クラプトンとベイカーは直ぐにブラインド・フェイスを結成。(クラプトンは以前よりクリームにスティーヴ・ウィンウッドを引き込み、ブルースとベイカーの緩衝剤になってもらおうと試みていた)。クラプトンはその後、より即興が少ない方向に演奏の方向性を大きく変え、Delaney & Bonnieやデレク・アンド・ザ・ドミノスを経て、ソロとしてのキャリアを進めていった。ベイカーは、ブラインド・フェイスを基にジャズ・フュージョンのアンサンブル、を結成した。このバンドのメンバーは、ウィンウッド(ボーカル)、元ファミリー~ブラインド・フェイスのリック・グレッチ(ベース)、グレアム・ボンド(サックス)、元ムーディ・ブルース~後にウイングスに加入するデニー・レイン(ギター)であった。一方ブルースは様々なソロワークで成功をおさめ、1969年には「Songs for a Tailor」をリリースした。1993年にロックの殿堂入りを果たし(プレゼンターはZZトップ)、その場限りの再結成で「サンシャイン・ラヴ」と「クロスロード」「悪い星の下に」の3曲が演奏された。2005年5月にも、解散前の最後のライヴを行ったロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで、10月にはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにおいて、再結成ライブが行われた。
出典:wikipedia
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