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だるま

だるま(達磨)は仏教の一派である禅宗開祖の達磨の坐禅姿を模した置物、または玩具。現在では禅宗のみならず宗教、宗派を越え縁起物として広く親しまれている。多くは赤色の張子(はりこ)で製作され、目の部分は書き入れずに空白のままに残す。そして何らかの祈願を行い、祈願が叶うと目を書き入れるという習慣がある。鎌倉時代に日本に伝わった仏教禅宗では達磨大師という僧侶を重要視し、「祖師」の言葉は達磨を表すこともあるほどである。禅宗寺院では達磨大師を描いた掛け軸や札をいわゆる仏像のような役割で用いることが行われるが、この達磨大師には壁に向かって九年の座禅を行ったことによって手足が腐ってしまったという伝説がある。ここから、手足のない形状で置物が作られるようになった。だるまとは別に、各地の郷土玩具に「起き上がり小法師」というものがある。これは底を丸くして重心が低く作られていることによって、倒しても起き上がる置物である。球体に近く腕もなく足もない形状であるため、これに顔を描いたものは次第にだるまとも混同されるようになった。江戸時代に中国から長崎の黄檗宗の寺院に持ち込まれた起き上がり小法師は、インドで僧侶の衣服の色として用いられた黄色であったと伝えられている。日本ではだるまは赤色を基調とした塗装が行われる。火や血の色である赤は古来から魔除けの効果があると信じられていた。縄文時代には当時の魔法の器具ともいえる一大発明であった土器を作り出す火や命の糧である動物の血に力を感じていたことは想定できるし、古墳では石室に水銀朱がまかれて貴人の亡骸の腐敗を防ぐ役割を期待された。平安時代には貴人の住居や神社の鳥居も腐食を防ぐ赤である丹で塗られた。お祝い事の席には衣服にしろ食べ物にしろ赤が欠かせぬものであり、さまざまな病や災いは赤色を持って防げると考えられてきた。江戸時代以降に日本で描かれた達磨大師の絵なども赤い衣で描かれている。縁起物として、紅白となるよう白いだるまを作ることも行われてきた。昭和以降になると、赤白色以外にも、黄色、緑色、金色等の色を基調とした色とりどりのだるまも製造されるようになった。だるまは生産される地域によって形状、彩色、材質などが異なっており、地域名を冠した名称によって区別されることが多い。以下に、有名なだるまの種類を挙げる。仙台市とその近郊で制作されているだるま。胴体の前半分が青で後ろが赤、眉毛に毛を使っているのが特徴。また胴体前面の宝船や福の神が立体的に掘られている。材料には地元の柳生和紙を使用している。群馬県高崎市で生産されているだるま。「上州だるま」とも呼ばれているが公式名称ではない(高崎だるまが地域団体商標に登録されている)。全国生産の80%に匹敵する年間170万個が生産されている。現代の選挙の際に立候補時に左目玉を墨で入れ、当選後に右目玉を墨で入れる「選挙だるま」のほとんどが高崎で生産されている。冬に風が強く乾燥する気候がだるま作りに適しており、農閑期の副業として盛んに行われた。始まりは、延宝5(1667)年に東皐心越禅師が開山した禅宗の一派である黄檗宗の少林山達磨寺で、毎年正月に心越禅師の描いた一筆達磨の座禅像を配り札としていたことによる。その後、文化年間に達磨寺の近隣の上豊岡の山県朋五郎が達磨寺九代目住職の東獄和尚に木型を彫ってもらい和紙を張って作ったのが、高崎だるまの始まりとされている。球に近い形状の赤色の胴体にくぼんだ白い顔がついており、そこに豪快な髭と眉毛が描かれている。この髭と眉毛は鶴と亀をあらわすという。衣服には金色の縦縞が描かれ、正面中央や顔の左右には文字が記入される。特注でここに祈願内容など独自の文字を入れることもでき、祈願のシンボルや祝儀の贈物として広く利用されている。白河市で生産されているだるま。白河だるまは今から約300余年前、当時の白河城主丹羽長重公に初まり、後年の小峰城主でその名も有名な松平定信楽翁公が城下の繁栄を強く願い、当家先祖に楽翁公直々の名により谷文晁の図案とお墨付を路金とともに戴き、はるばる京へ「だるま」修業の命を受けて出立した。修業のあかつき眉毛は鶴、髭は亀、耳髭は松と梅、あご髭は竹を表して帰郷したと言い伝えられている。また、文政6年(1823年)も横町絵図に、旧奥州街道沿いの横町で現在もだるま製造業を営む渡邊だるま店の住居、作業所がある位置に「瓦作金七」の名が確認されていることから、この人物が白河だるまと大きく関わっている可能性が高いとされている。白河だるまはあごひげが長いのが特徴。厄除けと家内安全の利益がある赤だるまと、開運の利益がある白だるまが作られている。年間15万個が生産されている。埼玉県越谷市で生産されているだるま。「武州だるま」とも呼ばれ、江戸時代の享保年間(1716~1736年)に、間久里の「だる吉」という人形師が、従来あった「起き上がり小法師」という玩具に座禅を組んだ達磨大師を描いたのが始まりといわれている。他に比べて「色白」「鼻高」「福福しい」という特徴があり、川崎大師や柴又帝釈天など関東一円をはじめ、全国に広く出荷され「越谷だるま」の名で知られている。越谷市だるま組合の越谷市の7軒、さいたま市(岩槻区)1軒、春日部市1軒により年間約40万個のだるまが生産されているが、そのほとんどが手作業によるもの。明治から始まり生糸や絹の産地である武蔵国の中でも特に多摩地域のだるま市で知られる。埼玉県でも見られるもので、養蚕農家が神棚に供えた物であり、合格祈願などのだるまも作る。東京八王子から伝統を受け継いだもので神奈川県平塚市で生産されているだるま。静岡県富士市の岳南地域で生産されているだるま。優しく穏やかな表情が特徴。愛媛県で作られる、女性の外見をしただるま。近現代になって皇国史観が広まってから神功皇后の置物として作ったもの。女性の外見をしただるまは、新潟県や大分県竹田市などでも生産されている。静岡県伊豆市の土肥達磨寺で売られているだるま。目を引いて売りやすくするために仏教というより道教で「空風火水土」を象徴する色「青、黄、赤、白、黒」で五色に塗り分けたもので時代はそうくだらない。日本の各地で養蚕が日本の一大輸出産業として盛んになった明治以降に作られ始めた繭型タイプのだるまの一つで、これの時代はもっと新しい。丸型ではなく、ひょうたんのように下部が大きい。願い事を開運札に書いてだるまに貼り、お祈りするときには、南無達磨娑婆訶(なむだもそわか)と三回唱えるとしている。[大分県]大分 宗方地区で販売されているだるま。幸せを呼ぶ鈴を入れた「だるま」鄕土玩具。ピンクを基調とした装飾用の七転八起の可愛い「だるま」で、起き上がりこぶし的な小さな「だるま」。旧大分県速見郡日出町の発展に尽力をした速津媛(豊後風土記)を人形化したもので「招福の喜」「人生の幸」「代々の栄」を祈願している。だるまを販売する市が、だるま市として毎年各地で開催されている。少林山七草大祭と厄除元三大師大祭に、毘沙門天大祭か白河だるま市を合わせて日本三大だるま市と称される。弾丸の先端に形状が似ただるまの下に、薄い円柱を数段重ね、それを横から1段ずつ木槌で叩いて抜き、倒れないようにうまく一番上のだるまを落とすという玩具・遊びである。胴を素早くたたくのがコツである。こどもの遊びの一種。鬼ごっこの変種と考えられる。鬼がその他の参加者に背中を向けて「だるまさんがころんだ」を唱える間に、他の参加者が鬼に触れ、より遠くへ逃げることを目的とする。また、鬼が呪文を唱えているとき以外は他の参加者は身動きの一切を禁じられる。二人が顔を見合わせ、笑いを我慢する。この時、「だるまさんだるまさん、にらめっこしましょ、笑うと負けよ、あっぷっぷ」とかけ声をかける。オレたちひょうきん族にもこのコーナーがあった。高崎駅の有名な駅弁にだるま弁当というのがある。高崎市がだるま製造で有名なことを受けて、だるま型の容器に白ご飯を敷き、その上におかずを載せたもの。レギュラー版は「高崎だるま」に似たプラスチック容器を用いているが、古いだるま弁当を再現した「復刻だるま弁当」は瀬戸物の眼光鋭い達磨の表情を描いた容器となっており、全く別の造形である。

出典:wikipedia

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