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ユージン・スミス

ウィリアム・ユージン・スミス(William Eugene Smith、1918年12月30日 - 1978年10月15日)は、アメリカの写真家。1957年から世界的写真家集団マグナム・フォトの正会員。カンザス州ウィチタ生まれ。母方の祖母が、アメリカインディアンのポタワトミ族の血筋もひく。スミスの父親は小麦商を営んでいたが、大恐慌で破産し、散弾銃で自殺している。スミスはこの影響で早い時期から人の命や医療、ケアに強い関心を持ち続けた。第二次世界大戦中にサイパン、沖縄、硫黄島などへ戦争写真家として派遣される。1945年5月、沖縄戦で歩兵と同行中、日本軍の砲弾の爆風により全身を負傷し、約2年の療養生活を送り、生涯その後遺症に悩まされることになった。その期間を振り返って、スミスは「私の写真は出来事のルポルタージュではなく、人間の精神と肉体を無惨にも破壊する戦争への告発であって欲しかったのに、その事に失敗してしまった」と述懐している。戦後、時の大事件から一歩退き、日常にひそむ人間性の追求や人間の生活の表情などに興味の矛先を向け、1947年から1954年まで、『ライフ』で、「フォト・エッセイ」という形でそれに取り組んだ。1950年にイギリス労働党の党首選挙を撮りに訪英し、クレメント・アトリーに共感を抱いたが、ライフ誌編集部の方針と合わず対立、結局その写真集はイギリスの労働者階級にのみの限定販売となった。1954年には『"A Man of Mercy"』を巡って再びライフ誌編集部と対立し、以後関係を断ち切ることになった。1961年、日立のPR写真撮影のために来日。1970年、アイリーン・美緒子・スミスと結婚。ともに、チッソが引き起こした水俣病の汚染の実態を写真に撮り、実際に座り込みなどにも参加するなど、世界にその悲劇を伝えた。1972年1月、千葉県五井にあるチッソの工場を訪問した際に、交渉に来た患者や新聞記者たち約20名が会社側の雇った右翼に取り囲まれ、暴行を受ける事件が発生する。スミスもカメラを壊された上、脊椎を折られ片目失明の重傷を負う。この事件でスミスは「患者さんたちの怒りや苦しみ、そして悔しさを自分のものとして感じられるようになった」と自らの苦しみを語った。その後『ライフ』1972年6月2日号に「排水管からたれながされる死」を発表し、大きな反響を得た。スミスの元で助手をしていた森枝卓士も水俣病の取材中に右翼から暴行を受けている。1977年12月、脳溢血で倒れる。翌年奇跡的に回復し、セミナーを行うまでになったが、1978年10月15日にアリゾナ州トゥーソンの食料雑貨店へ猫のエサを買いに来ていた際、致命的な発作を起こし死去。59歳。ユージン・スミスの写真の特徴は、「真っ暗闇のような黒とまっさらな白」のメリハリである。そのメリハリは、妥協を知らない徹底した暗室作業によって作り出された。日立の仕事に助手として参加した森永純は、「暗室作業についていえば、渡された1枚のネガから、いくらプリントしてもOKをもらえず、悪戦苦闘したことが忘れられない。こうなると私も意地で、知っているだけの技術を使い、とうとう1週間かかって100余枚のプリントを焼き、やっとその中の1枚だけにOKをだしてもらったことがある」と書く。それに加えてユージン・スミスは、トリミングを駆使して被写体を強調したり、重ね焼きを用いたりした。例えばアルベルト・シュヴァイツァーを被写体とした1枚は手と鋸の影が重ね焼きされた。そもそもユージン・スミスは、リアリズム(写実主義)を排除していたとされる。彼の死後、ユージン・スミス・メモリアル基金(W. Eugene Smith Memorial Fund)によりユージン・スミス賞(W. Eugene Smith Grant in Humanistic Photography)が設けられた。人間性や社会性を重視した写真作品を対象としている。主な受賞者にセバスチャン・サルガドなどがいる。

出典:wikipedia

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