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琉球王国

琉球王国(りゅうきゅうおうこく)は、1429年から1879年の450年間、琉球諸島を中心に存在した王国。当時、正式には琉球國(りゅうきゅうこく、沖縄方言:ルーチュークク)と称した。最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを統治した。この範囲の島々の総称として、琉球列島(琉球弧)ともいう。王家の紋章は左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん、フィジャイグムン)」と呼ばれた。勢力圏は小さな離島の集合で、総人口17万に満たない小さな王国ではあったが、隣接する大国明・清の海禁や日本の鎖国政策の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たした。その交易範囲は東南アジアまで広がり、特にマラッカ王国との深い結び付きが知られる。外交的に貿易上の理由から、明及びその領土を継承した清の冊封を受けていたが、1609年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入った。ただし対外的には独立した王国として存在し、中国大陸、日本の文化の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けた独自の文化を築き上げた。現在は琉球王国という表記が一般的だが、当時の名称は琉球國(りゅうきゅうこく、ルーチュークク)である。琉球の名称は、7世紀の中国の史書『隋書』卷81 列傳第46 東夷 流求國條に記述される、大業6年(610年)に隋が侵攻した国、流求に由来するが、この「流求」がそのまま「琉球王国」(今日の沖縄県周辺)を指したわけではない(後述。琉球の項目も参照)。明との交易が本格化した14世紀頃には今日の沖縄県周辺の呼称として定着し、「琉球國」という国号が、1872年の日本政府による琉球藩設置(琉球王国の廃止)まで用いられた。「琉球」の初期の表記である「流求」の語は、636年に『隋書』「東夷伝」に記述があるのが史書における初出である。隋書においては、「流求」は福建省の東海上に位置する一介の島嶼としている。隋書に続く時代の『北史』、『通典』、『諸蕃志』においては『隋書』の記述を踏襲し、『太平寰宇記』(宋代の地理書)においても内容に大差はなかった。元代に完成した『文献通考』においては、「琉球」は台湾と沖縄県周辺を混同して指す記述となっている。一方「沖縄(おきなは)」の語の初出は779年、『唐大和上東征伝』に「阿児奈波」と表記されたものである。その後13世紀まで、北から奄美群島・沖縄諸島・先島諸島・台湾のいずれの地域も小勢力の割拠状態が続き、日本列島の役所が置かれた奄美以外は、中国大陸や日本列島の中央政権からの認識が薄い状態であった。14世紀、沖縄本島中部を根拠地とする中山王が初めて明の皇帝に朝貢したことで認識が高まり、朝貢した沖縄地方を「大琉球」、台湾を「小琉球」とする区分が生まれた。その後、「琉球」は琉球王国(琉球国)の勢力圏を指す地域名称として定着していく。近代に入って「琉球(流求)」の語が指す地理的領域の考察が進んだ。1874年(明治6年)にサン・デニーが『文献通考』の一部を翻訳し、その琉球条により流求は台湾であるとする説を発表した。1895年(明治28年)にはグスタフ・シュレーゲルが、元以前の「琉球」は台湾のことを指し、明以降は沖縄県周辺のことを指すようになったとする説を発表した。1897年、ルートヴィヒ・リース(当時、帝国大学文科大学(現東京大学)史学科の教授)は著書『台湾島史』(吉国藤吉訳、1898年)において、「流求」は台湾を指すとした。大分県に伝わる古文書『上記(ウエツフミ)』には、弥生時代に本土から渡った日本人が沖縄を開拓し、「フタナギの国」と名付けたという記述がある。この日本人は「葦原神」と呼ばれ、南風原(はえはら)の鶴野(つるの)に祀られたと書かれているが、その後、漢の時代になって中国が「琉球」という名前に変えたとある。ただし、真偽のほどは証明されていない。琉球王国の正史『中山世鑑』や『おもろさうし』などでは、12世紀、源為朝(鎮西八郎)が現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖舜天になったとされる。真偽は不明だが、正史として扱われており、この話がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。日琉同祖論と関連づけて語られる事が多く、この話に基づき、1922年(大正11年)には為朝上陸の碑が建てられた。表側に「上陸の碑」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている。『中山世鑑』を編纂した羽地朝秀は、摂政就任後の1673年3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、王家の祖先だけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている。沖縄学の研究者の伊波普猷は、琉球の古語や方言に、中国文化の影響が見られない7世紀以前の日本語の面影が残っているため、中国文化流入以前に移住したと見ている。高宮広士札幌大学教授が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘するように、近年の考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されており、遺伝子研究では、沖縄県民は遺伝子的に中国人や台湾人とはとても遠く、九州以北の本土住民と近く、同じ祖先を持つという研究結果も複数出ている。1336年には、明から久米三十六姓が琉球に渡っている。1429年、第一尚氏王統の尚巴志王の三山統一によって琉球王国が成立したと見なされている。第一尚氏王統は大和(日本本土)や中国・朝鮮半島はもとよりジャワやマラッカなどとの交易を積極的に拡大したが、統一後も依然として地方の諸按司の勢力が強く、ついに王府が有効な中央集権化政策を実施することはなかった。そのため王位継承権争いなどといった内乱が絶えず、さらに喜界島親征といった無謀ともいえる膨張政策を取ったため、政権としては63年間で瓦解した。1462年、尚泰久王の重臣であった金丸(尚円王)が、尚徳王の薨去後、王位を継承し、第二尚氏王統が成立した。王位継承に関しては、正史では重臣たちの推挙によって即位したと記されているが、クーデターによる即位だったのではないかとの説もある。その後、第二尚氏王統は、尚真王の時代に地方の諸按司を首里に移住・集住させ、中央集権化に成功した。彼の治世において、対外的には1500年には石垣島にてオヤケアカハチの乱を平定し、さらに1522年には与那国島を制圧して、現代まで続く先島諸島の統治権を確立した。1571年には奄美群島北部まで進軍して勢力下におさめ、最大版図を築いた。琉球王は、明国に対しては朝貢国として、形式上その臣下となることを強いられたが、一方で、国内では、時に琉球王を天子・皇帝になぞらえるなど、独自の天下観を見せた可能性がある。その例として、『朝鮮王朝実録』には、1545年に朝鮮からの琉球への漂着民が残した証言として、「王は紅錦の衣を着て、平天冠をかぶり、一人の僧侶と対面して紫禁城遥拝の儀礼を行っている」(『朝鮮明宗実録』)という記述がある。1515年ごろに東方についての書物を著したポルトガル人のトメ・ピレスは、琉球が中国と盛んに交易した様を伝え、琉球人の気質について「彼らは正直な人間で、奴隷や娼婦を買わないし、たとえ全世界とひきかえでも、自分たちの同胞を売るようなことはしない。彼らはこれについては死を賭ける。レキオ人(琉球人のこと)は偶像崇拝者である。彼らは色の白い人々で、シナ人よりも良い服装をしており、気位が高い」と記した。16世紀後半、豊臣秀吉が明とその進路にある李氏朝鮮を征服しようとし、琉球王国に助勢を命じたが、明の冊封国であったため国王は一旦拒否した。しかし、実際に文禄・慶長の役で日本が朝鮮半島に攻め込んだ時には、琉球は日本軍に食料を提供し、日本軍の兵站の一部を担った。1609年(琉球暦万暦37年・和暦慶長14年)、薩摩藩の島津氏は3000名の兵を率いて3月4日に薩摩を出発し、3月8日には当時琉球王国の領土だった奄美大島に進軍。3月26日には沖縄本島に上陸し、4月1日には首里城にまで進軍した。島津軍に対して、琉球軍は島津軍より多い4000名の兵士を集めて対抗したが敗れた。4月5日には尚寧王が和睦を申し入れて首里城は開城した。これ以降、琉球王国は薩摩藩の付庸国となり、薩摩藩への貢納を義務付けられ、江戸上りで江戸幕府に使節を派遣した。その後、明に代わって中国大陸を統治するようになった満州族の王朝である清にも朝貢を続け、薩摩藩と清への両属という体制をとりながらも、琉球王国は独立国家の体裁を保ち、独自の文化を維持した。琉球が支配を始めてから年月の浅かった奄美群島は薩摩藩直轄地となり王府から分離されたが、表面上は琉球王国の領土とされ、中国や朝鮮からの難破船などに対応するため引き続き王府の役人が派遣されていた。1853年(琉球暦:咸豊3年、和暦:嘉永6年)5月に黒船が那覇に来航し、アメリカ海軍のマシュー・ペリー提督が首里城に入って開港を求めた。黒船は翌1854年にも来航し、両国は琉米修好条約を締結して那覇が開港した。ペリーは、琉球が武力で抵抗した場合には占領することをミラード・フィルモア大統領から許可されていた。1871年、明治政府は廃藩置県によって琉球王国の領土を鹿児島県の管轄としたが、1872年には琉球藩を設置し、琉球国王尚泰を琉球藩王に「陞爵」して華族に列した。明治政府は、廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩王自ら上京することなどを再三にわたり迫ったが、琉球は従わなかった。そのため1879年3月、処分官松田道之が随員・警官・兵あわせて約600人を従えて来琉、武力的威圧のもとで3月27日に首里城で廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じ、4月4日に琉球藩の廃止および沖縄県の設置がなされ、沖縄県令として前肥前鹿島藩(佐賀藩の支藩)主の鍋島直彬が赴任するに至り、王統の支配は終わった(琉球処分)。琉球の王族は、日本の華族とされた。しかし琉球士族の一部はこれに抗して清国に救援を求め、清国も日本政府の一方的な処分に抗議するなど問題は尾を引いた。外交交渉の過程で、清国への先島分島問題が提案され、アメリカ合衆国大統領グラントの熱心な調停もあって調印の段階まで進展したが、最終段階で清国が調印を拒否して分島問題は流産、のちの日清戦争における日本側の完勝をもって琉球全域に対する日本の領有権が確定した。なお、尖閣諸島の領有問題や東シナ海のガス田開発に絡めて、琉球処分そのものが無効であって、琉球は中国の領土であると主張するが、過去の冊封関係をもって現代中国の領有権主張の根拠とは出来ず、また琉球処分が無効である根拠も尚泰王、第二尚氏王統第19代にして最後の琉球国王が日本の琉球藩王とされた後に侯爵の身分を享受したことからも明らかではない。評定所は国政を司る王府最高機関である。摂政および三司官が執務する場所は御座もしくは上御座と呼ばれ、表十五人が控える場所は下御座と呼ばれた。物奉行所は用意方、給地方、所帯方の3つの物奉行所からなり、それぞれに物奉行が一人いた。各物奉行は、同じく各物奉行所を担当するそれぞれの三司官の監督のもとで職務を行った。物奉行は今日の大臣・長官に相当し、その下に次官級の吟味役が置かれた。主に物奉行は親方(従二品)が、吟味役は親雲上(ペークミー・正四品)がその任に就いた。申口方(もうしぐちほう)は平等方、泊地頭、双紙庫理、鎖之側の四官庁からなる。平等方を除いて、それぞれ官庁名であると同時にその長官名を指した。各長官の下には次官級の吟味役か日帳主取が置かれた。申口方の長官は親雲上(正三品)が、その下の次官級は親雲上(正四品)がその任に就いた。従って、申口方の長官は物奉行よりも品位が下に位置する。長官は漢訳で耳目官と言った。琉球王国は、律令制を参考にした政治や、士族は中国風の名前も持つなど、最大の交易相手だった中国の影響を強く受けた。一方で書き言葉は主に漢字かな交りの和文を用い、神社を建立するなど日本の文化的影響下にもあり、羽地朝秀による改革により王朝の支配に武家政権の要素が取り入れられた。琉球は、日中双方の文化や制度を受け入れつつ、独自の文化を育んでいた。尚清王から尚豊王の治世にかけての1531年から1623年の間に、琉球最古の歌謡集『おもろさうし』が編纂された。古来から伝わるおもろ(歌の意)・1554首を収録して、王府によって編纂されたものである。17世紀になると、短詩型の叙情歌謡である琉歌が盛んになった。琉歌には様々な形式があるが、一般的には8・8・8・6の30音からなる形がよく知られている。琉歌の名人には惣慶忠義(1686年 - 1749年)、平敷屋朝敏(1700年 - 1747年)、玉城親方朝薫(1684年 - 1734年)、与那原親方良矩(1718年 - 1797年)、本部按司朝救(1741年 - 1814年)、東風平親方朝衛(1701年 - 1766年)等が古来より有名である。これらの歌人は、和歌・和文にも精通していた。女流歌人では、吉屋チルー(1650年 - 1668年)と恩納なべ(尚穆王時代)が双璧としてよく知られている。琉球における和歌の起源は史料が乏しいため判然としない。1585年、安谷屋親雲上宗春が豊臣秀吉と大坂で謁見した際、天王寺で開催された歌会に参加した記録があり、この頃にはすでに和歌が詠まれていたのではないかという説もある。一般には、識名親方盛命(1651年 - 1715年)が琉球における和歌の祖と言われている。元禄以前の和歌の名人には、他に屋良親雲上宣易(1658年 - 1729年)、池城親方安倚(1669年 - 1710年)、安仁屋親雲上賢孫(1676年 - 1743年)、石嶺親雲上真忍(1678年 - 1727年)、国頭親方朝斉(1686年 - 1747年)、惣慶忠義らが著名である。元禄以降、和歌が盛んになり多数の名人を輩出するようになった。平敷屋朝敏、栢堂和尚(1653年 - ?)、東風平親方朝衛、本部按司朝救、読谷山王子朝憲(1745年 - 1811年)、宜野湾王子朝祥(1765年 - 1827年)、浦添按司朝英(1762年 - 1789年)、世名城親雲上盛郁(1774年 - 1833年) 、大工廻親雲上安詳(1791年 - 1851年)、義村按司朝顕(1805年 - 1836年)らが著名である。また、宜湾朝保が和歌集『沖縄集』(1870年)に載せた36人の歌人が沖縄三十六歌仙としてつとに有名である。漢詩は、『喜安日記』(尚豊王時代)に菊隠(? - 1620年)らの漢詩がいくつか収められているように、当初は僧侶達によって作詩された。漢詩集では、程順則が編纂した『中山詩文集』(1725年)が琉球初である。個人の漢詩集としては、蔡鐸『観光堂遊草』、程順則『雪堂燕遊草』、程搏万『焚余稿』、周新命『翠雲楼詩箋』等がある。琉球舞踊は、中国からの使節を歓迎するために舞う宮廷舞踊「御冠船踊り」がその起源である。御冠船踊りはすべて貴士族の子弟のみによって踊られた。宮廷舞踊のことを明治以降の舞踊と区別する意味で、古典舞踊とも言う。古典舞踊には、老人踊り、若衆踊り、二才踊り、女踊り、打組み踊りなどがある。廃藩置県によって琉球王国が消滅し、士族階層が没落すると、古典舞踊を元にして雑踊りと呼ばれる民間舞踊が誕生した。昭和以降には、現代感覚を導入した創作舞踊というジャンルも出現し、これも琉球舞踊に含まれる。宮廷音楽として、室内楽の御座楽(うざがく)や、屋外楽の路次楽などがあった。染織の技法である紅型、漆器には琉球漆器、陶磁器には壺屋焼などがある。沖縄固有の沖縄手、中国武術から発展したといわれる唐手などの手(ティー)という武術があった。速さではなく美しさを競う琉球競馬が行われていた。17世紀には王室直轄の競馬場も設けられた。また、組踊の中にも、競馬の登場する作品がある。琉球料理王族や上級士族が居住した首里では洗練された宮廷料理が作られた。その料理の味わいの表現の一つとして「あふぁい(淡い)」というものがある。一般的には「薄味」と捉えられているようだが「感謝の念から、素材そのものの味を味わい尽くす」ために余計な「味付け」をしない状態であると考えられる。王族・上級士族は別として、無禄の士族を含む平民は重税によって苦しい生活を強いられた。貴重な動物性タンパクである「豚」は一般庶民の家で飼われてはいたものの、日常的な食事に供されるものではなく、比較的裕福な家庭でさえ盆や正月といった行事の時にしか口にすることはできない貴重な食べ物だった。そういった時代背景によって庶民が生きるために、ありとあらゆるものを食べるために工夫することを余儀なくされ「豚はひづめと鳴き声以外全て食べる」と形容されるようなところにまで行き着いたと考えられる。琉球は明に冊封されることで、倭寇の取締りを尻目に、海禁政策を行っていた中国とアジア諸国の間での東シナ海中継貿易の中心の1つを担うようになり、経済基盤をつくり上げた。貿易範囲は日本の他、主に中国・朝鮮やベトナム、タイなど東南アジア諸国であった。しかし16世紀に入り、1567年、明が倭寇対策として海禁の緩和(中国人とアジア諸国との直接交易を認める。ただし日本のみ除外。)を行ったことで大打撃を受ける。大航海時代を迎えたヨーロッパ諸国が東南アジアに貿易拠点を築き東シナ海にも進出すると、ポルトガルがマラッカを抑えることで東南アジアの市場を失い、日本との中継貿易もマカオのポルトガル人が手がけるようになるなど、ヨーロッパ人が東アジア諸国と直接貿易をするようになった。更に戦国時代に戦費調達のため鉱山開発が進んだ日本が、安土桃山時代から江戸時代初頭にかけて、豊富な銀を持って東南アジア領域に進出し、多数の日本人町を形成するほど貿易の中心となり、琉球の中継貿易は衰退した。ただし、明が朱印船を受け入れなかったため、琉球の対明中継貿易の地位は残り、命脈を保った。その後、東アジア諸国の鎖国政策によって国際貿易は縮小するが、薩摩藩の付庸国となることで日本との、朝貢貿易によって中国との貿易ルートを得た琉球が安定した中継貿易の地位を確立した。19世紀に入ると、アヘン戦争に敗北した清が海禁政策を弱め、日本も開国してヨーロッパと直接貿易を再開した。これにより、香港や日本の開港5港などに貿易の中心は移り、琉球の東シナ海での中継貿易の地位はほぼ失われてしまう。結果、中継貿易を支えた琉球の日清両属体制は意義を失い、琉球処分で経済的にも政治的にも日本に完全に組み込まれた。一般民衆による土地の私有が認められておらず、農業生産性も低く、税金も極めて高かったため、民衆は貧しい生活を強いられていた。琉球王国には「首里親軍(しおりおやいくさ)」と呼ばれる軍事組織が存在しており、首里・那覇の防衛および対外地域への征服活動を行っていた。「琉球王国軍」「琉球軍」と表現されることもある。兵力は数千人規模で1500年には八重山征服戦争を行い、1609年の薩摩島津軍の琉球侵攻では琉球王国の国土防衛を担った。なお、首里親軍の名称は古琉球の歌謡集『おもろさうし』(上述)に登場する。話言葉は、日本語、候文の口語体に近い琉球語(琉球方言)が用いられた。文字は、15、16世紀の以前の古文書や石碑の碑文では、漢字ひらがな交じり文が用いられている。17世紀以降は、首里王府内の公文書(評定所文書)や薩摩など日本との外交文書では和文(候文)が、中国との交易開始後には、家譜や中国との外交文書では漢文が主に用いられた。琉歌や組踊などの文学作品では琉球語(琉球方言)和文が主に使用された。古来より琉球にはアニミズム、祖霊崇拝、おなり神信仰を基礎とする固有の宗教があり、首里には聞得大君御殿(きこえおおきみうどぅん)、首里殿内(しゅりどぅんち)、真壁殿内(まかべどぅんち)、儀保殿内(ぎぼどぅんち)の一本社三末社があった。聞得大君御殿は首里汀志良次町にあり、琉球各地にある祝女殿内(ぬんどぅんち)と呼ばれる末社を支配した。聞得大君(キコエオオキミ)は琉球王国の高級神女三十三君の頂点に君臨する最高神女で、その地位は国王の次に位置し、前・元王妃など王族女性から選ばれて任に就いた。聞得大君は御殿の神体である「御スジノ御前」、「御火鉢ノ御前」、「金之美御スジノ御前」に仕え、国家安泰、海路安全、五穀豊穣などを祈願した。尚金福王(在位1449年 - 1453年)の時、那覇・若狭町に天照大神のほこらを建立したのが、史書で確認できる最初の神社建立である。沖縄本島には波上宮、沖宮、識名宮、普天間宮、末吉宮、八幡宮、天久宮、金武宮の八社(琉球八社)があり、よく知られている。このうち、七社が熊野権現を、一社は八幡大神を祀っている。琉球第一の神社は波上宮である。13世紀、英祖の治世に僧・禅鑑(国籍不明)が那覇に漂着し、王が禅鑑を尊信して浦添城の西に極楽寺を建立して禅鑑を開基としたのが、琉球に仏教が伝来した始まりと言われている。その後、察度の治世に日本の頼重法印が渡来して波上山護国寺を開き、尚泰久王の治世には京都から高僧・芥隠が渡来した。芥隠は琉球における臨済宗の祖とも言うべき人物で、尚真王が1492年に円覚寺を創建するにあたって、芥隠を開基とした。円覚寺は琉球王家の庇護厚く、沖縄戦で焼失するまで琉球第一の巨刹として繁栄した。歴代国王の御後絵(肖像画)はすべて円覚寺に安置されていた。円覚寺、天王寺、天界寺を合わせて三大寺という。他に那覇の崇元寺も昔から有名である。琉球に道教が伝来した正確な時期を示す文献はないが、1719年に来琉した冊封使・徐葆光の『中山伝信録』の中に、道教の竈祭(かまどの神を祝う祭)が行われていたとの記述があることから、18世紀初頭には道教が信仰されていた事実を確認できる。その後、道教は琉球土着の民間信仰と融合して、婦女子の間で広く信仰された。キリスト教の伝来は、尚豊王の治世の1622年、八重山に南蛮船が渡航して布教を行ったのが始まりである。日本ではキリスト教はすでに禁止されていたが、ジャワやルソンから往来する南蛮船が琉球諸島にたびたび寄港していた関係から、布教活動が行われた。しかし、この頃から琉球でもキリスト教は公には禁止されており、また薩摩藩からも度々禁令が発せられて琉球側に伝達されていたので、キリシタンは摘発されると罰せられた。ちなみに沖縄の一部地域には、薩摩藩による宗門改めに由来する伝統行事が残っているところもある。1844年にフランスの宣教師が、1846年にはイギリスのバーナード・ジャン・ベッテルハイムなどが来琉して、それぞれの軍隊の力を背景として布教活動を許可するよう王府に圧力を掛けた。王府は対応に苦慮しながらも護国寺などへの居住を許可したが、布教活動には様々な制限を加えることで対抗した。ベッテルハイムは滞在中琉球方言を修得し、新約聖書の福音書のいくつかを翻訳して「琉球聖書」を作成、後に香港で出版した。琉球王国の身分制度は、御主加那志前(ウシュガナシメー)と呼ばれた国王を頂点に御殿(ウドゥン)と呼ばれた王子、按司などの王族、殿内(トゥンチ)と呼ばれた親方、親雲上(ペークミー)などの上級士族、親雲上(ペーチン)と呼ばれた一般士族、百姓(ヒャクショウ)と呼ばれた平民からなる。王子、按司は一間切を采地(領地)として与えられ、一括して按司地頭と呼ばれた。親方は一間切を領する総地頭、間切内の一村を領する脇地頭に分かれる。親雲上(ペークミー)とは、一村を領する脇地頭職にある親雲上(ペーチン)のことであり、発音で両者は区別された。親雲上(ペーチン)は一般士族である。王子から親雲上までは広義における貴族階級であり、それぞれの家は系図(家譜)を持つことを義務づけられたことから、系持ちと呼ばれた。これに対して、平民は系図を持たないことから無系と呼ばれた。琉球王国末期、系持ちは総人口の25%超を占めたが、このうち実際に王府に勤めていたのはごく一部である。大部分は王府勤めを待ち望む無禄士族であった。

出典:wikipedia

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