LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

琉球藩

琉球藩(りゅうきゅうはん)は、明治初期に現在の沖縄県を治めた藩。藩庁は首里城(沖縄県那覇市首里)。藩王は第二尚氏。1872年(明治5年)、廃藩置県の翌年、琉球国王・尚泰は、明治政府により「琉球藩王」とされるとともに大日本帝国の華族の身分を与えられ、これにより琉球藩が設置された(第一次琉球処分)。尚泰は「皇国と支那の御恩」に感謝し、両国を「父母の国」と仰ぎ奉っているとして、日清「両属」の現状維持を要請し(『琉球見聞録』)、清への朝貢を続け、王位を名乗り続けた。そんな中、琉球御用船の船員が、漂着先の台湾で台湾原住民・パイワン族に殺害された、いわゆる琉球島民殺害事件が起きた。事件を受け、政府は1874年(明治7年)に台湾出兵を行った。これに清側は直ちに抗議し、撤兵を強く求めた。明治政府は9月、「和戦を決する権」を与えられた大久保利通を全権として北京に派遣。清と交渉し、難航の末、清は日本の出兵を「義挙」と認め、50万両(テール)の賠償をすることで事件は決着した。これは、琉球の帰属問題で日本に有利に働くが、清は琉球の日本帰属を正式に承認したわけではなかった。明治政府は翌1875年、琉球に対して清との冊封と朝貢関係の廃止、ならびに明治年号の使用などを命令するが、琉球は清との朝貢関係を継続する意向を表明。清は琉球の朝貢禁止に抗議するなど、外交上の決着はつかなかった。尚泰はその後も清への朝貢を続けたが、1879年(明治12年)、明治政府は尚泰を東京へ連行、内務官僚・警察隊・熊本鎮台分遣隊を派遣して鹿児島県へ編入、同年中に沖縄県を設置した。しかし元々は特権階級だった王族や士族の清への亡命などによる抵抗が続き、農村の地方役人層までが新県政反対運動として県政加担者を殺害した「サンシー事件」などは警察力により制圧された(第二次琉球処分)。清は再三抗議し、八重山への出兵を検討した。しかしアメリカ元大統領ユリシーズ・グラントの仲介もあり、1880年北京で日清の交渉が行われた。この時、日本は、沖縄諸島を日本領、先島諸島(八重山列島・宮古列島)を清領として、日清修好条規に中国内での日本人の通商権を追加する譲歩案(分島改約案)を提示し、一旦は話がまとまるかに見えた。しかし清は、琉球王国を復興することを目論んでおり、分島にたいする琉球人の反対もあり、清側が調印せずに終わる。最終的に琉球の帰属が国際的に確定するのは、後の日清戦争後まで待たねばならなかった。華族令発布後、他の元大名との石高の比較からは尚家は伯爵に相当するが、「国王」に対する敬意により侯爵に叙せられ、破格の経済待遇を与えられた。また、分家も男爵に叙せられた。以上のように、これら琉球藩設置から沖縄県設置して琉球王族の大日本帝国の華族付与までの一連の流れを、琉球処分という。8万9千石

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。