小田急1700形電車(おだきゅう1700がたでんしゃ)は、小田急電鉄がかつて保有していた特急用車両である。1951年に、本格的な特急専用車両として登場した車両で、特急ロマンスカーの地位を不動のものにした車両とされている。3両編成×3本が製造されたが、3000形SE車が4編成揃った後に通勤車両に格下げされ、中間車を増備の上3扉ロングシート4両編成×3本に変更されたが、車両の老朽化から主電動機(モーター)を4000形に提供することになり、1974年11月に全車両が廃車となった。制御装置から趣味者の間および会社内部においてABF車と呼称されていた。1948年10月に1600形により再開された「週末温泉特急」は、予想を上回る好成績となり、これに対応して、1949年8月からはセミクロスシートを装備した1910形(2000形)を投入した。1950年8月1日からは箱根登山鉄道箱根湯本駅への乗り入れが開始され、これによって特急の利用者はさらに増加し、特急券が入手できないという乗客からの意見が多くなっていた。このため、小田急では特急用の車両を増備することで対応することになったが、ここで1910形(2000形)を増備するか、新形式の車両を投入するかという二つの案が出ていた。それまでの思想を通すのであれば、1910形(2000形)のように通勤ラッシュ時にも使用できる車両の投入ということになるが、それでは料金を徴収する特急でありながらロングシートがあるなど、中途半端な装備となることから、営業部門からは特急専用車を望む声は強かった。その一方、特急券が入手できないというのは土曜・休日のことで、平日は空いていたことから、平日のラッシュ輸送に使用できない特急専用車を持つ余裕はないという意見も強かった。社内での検討が繰り返され、最終的な結論としては、将来を考えて特急専用車を導入するが、製作費を極力切り詰めるために、台枠は日本国有鉄道(国鉄)の戦災復旧車や事故焼失車のものを流用し、台車や主電動機についても1600形から流用することになった。1910形と同様、制御電動車のデハ1700形と付随車のサハ1750形によるcMTMcの3両固定編成としたが、装備はこれまでの小田急にはないもので、好評の「走る喫茶室」も進化させて設置、側窓は眺望性に優れる幅広のもの、座席は転換クロスシートを採用、警笛は和音となった。逆に経済性を考慮して、特急車としてふさわしい設備とするものの、極端に華美になったり過剰サービスとならないように考慮された。定員を増やすため、車両構造は国鉄モハ42形や参宮急行電鉄2200系を参考にしたが、当時の特急は途中小田原駅のみ停車であり、扉は少なくても問題ないと判断されたことから、客用扉は編成全体で片側2箇所とした。車体長はデハ1700形が軸重や主電動機出力の関係で16,870mm、サハ1750形が20,000mmで、車体幅は戦災復旧車のため2,800mmと地方鉄道の車両限界を超えるサイズで特認扱いとした。また、定員増を図るため、客用扉はデハ1700形に幅1,100mmのものを片側1箇所のみとし、サハ1750形には550mm幅の非常扉1箇所のみとした。また、側窓は幅1,100mm、高さ850mmの大きなもので眺望を確保したが、シートピッチとは合わず、座席3列に対して窓2枚となった。窓と扉の配置はデハ1700形がd9 (1) D(d:乗務員扉または非常扉、D:客用扉、数字:窓数、(数字) :戸袋窓数)、サハ1750形が14d(車端または車端から2箇所目の窓は550mmの狭幅)。塗装は腰部と上部が青色、窓周りが黄色の旧特急色であった。いずれも初期投資を抑えるため、戦災国電の復旧車扱いとし、サハ1750形は国鉄モハ63形の事故焼失車の台枠を使用した。正面は1910形(2000形)同様の貫通型であったが、1910形(2000形)より丸みを帯びた国電の半流線型車に近い形状で、前照灯が半埋め込みで、その下に複音汽笛が装備された。内装は壁面が桜材などにニス塗りで天井が白色の化粧板であり、座席は転換クロスシートをピッチ900mmで配置した。室内灯については、当時既に国鉄マイネ40形などで蛍光灯が採用されていたが、まだ問題が多いと判断されたことから白熱灯とされた。窓には日除けとしてよろい戸が設けられた。サハ1750形の海側(下り小田原方面に向かって左側)の車体中央には長さ2,200mm、奥行き950mm、高さ950mmのカウンターを持つ喫茶スタンドが設置されており、丸イスが4脚用意されていた。また、放送室も2000形に引続き設置され、第1編成はサハ1750形の海側の小田原寄り、第2編成・第3編成は山側(下り小田原方面に向かって右側)の新宿寄りにあり、その対角がトイレであった。デハ1700形の台車と主電動機は1600形のものを転用し、1600形には国電払い下げのTR25台車に主電動機としてMT7・9・10のいずれかを装着した。従って、制御器、主電動機は1600形と同じ三菱電機製のABFとMB-146-CFの組み合わせであり、歯車比も変更なく2.07であった。台車についても、デハ1700形の台車は1600形から供出されたイコライザー式鋳鋼台車の住友金属工業KS-33-Lを使用、サハ1750形は第1編成がサハ1951から供出された中日本重工業製短腕式軸梁式台車のMD-5を、第2編成が国鉄払い下げのペンシルバニア型軸バネ式台車のTR23を使用した。補機は末期の時点では、電動発電機 (MG) がサハ1750形の奇数車にCLG-107BとCLG-107Cが各1台と電動空気圧縮機 (CP) がデハ1700形にAK-3が1台ずつ搭載されていた。第1編成は東急車輛製造で製造され、保土ヶ谷まで輸送されたが、当時の相模鉄道の貨物列車は蒸気機関車が牽引しており、運用の都合で海老名に到着するのは保土ヶ谷到着の翌日とされていた。しかし、1日でも早く営業運行を開始したいという小田急の意向から、当日の貨物列車の最後尾に連結し、相模国分駅(当時)で切り離しを行い、そこから自力回送を行なうことで海老名から入線している。1951年2月に箱根特急として運用を開始し、同年7月には新宿到着後に片瀬江ノ島まで往復する「納涼ビール列車」にも使用され、いずれも利用客から好評を博した。第1編成の好評を受け、同年8月には第1編成と同様に台枠や走行機器などは流用品とした第2編成が日本車輌製造東京支店で製造された。第2編成では小田急ロマンスカーのシンボルである「ヤマユリ」のアルミ製エンブレムが車体中央腰部に取付られ、追って1953年7月に第1編成にも取付けられた。しばらくは2編成で運用されており、検査時や増発時には引き続き1910形(2000形)も使用されていたが、設備面の格差が大きいことによる苦情もあった。また、その時期には特急の営業成績も良好であり、1700形の営業的な成功は明確になっていたことから、第3編成は完全な新造車両とすることになった。第3編成は1952年8月に登場したが、この第3編成は外観が変更された。正面は2枚窓となり、標識灯埋込み、複音汽笛が2組(計4個)となった他、張上げ屋根化されて洗練された印象となった。また、車内においても天井が継ぎ目なしの1.6mm鋼板となったほか、荷棚も基部側半分が白色鋼板製、先端側半分がパイプ式のものとなった。室内灯はアクリルカバー付きの交流蛍光灯となり、天井中央に連続1列に配置された。台車は住友金属工業製のFS108ゲルリッツ式台車を使用して乗り心地を向上させた。後に第1編成・第2編成も蛍光灯に改造されたほか、1953年には第1編成の走行機器が新規に購入されたFS108台車とMB-146-CF主電動機に交換された。第2編成も1954年に同様の交換を行い、KS33Lは1600形に戻されている。その後も特急の利用者数は増加の一途をたどり、1954年頃にはさらなる増備が要望されたが、既に当時としては画期的な高性能新型特急車両の開発・設計が進められていた。しかし、特急の利用者数の増加は予想を上回り、新型特急車両の製造まで待てない状況となりつつあった。しかし、既に通勤車には2200形がカルダン駆動方式で登場しており、ここで吊り掛け駆動方式の特急車を増備することも憚られたため、暫定的な特急車両として2300形が導入されることになった。これは特急増発用であり、この時には本形式はそのまま特急車として使用された。1957年に3000形SE車が使用開始となり、これが第3編成まで揃った時点で本形式は特急運用から離脱することになった。特急運用から離脱した本形式の活用方法については、二つの意見があった。一つは特急より少し安い料金で特急の補完をする準特急用の車両として使用するもので、もう一つは通勤車両に格下げ改造を行なうというものであった。最終的には、前者の案は増収は期待できるが、通勤輸送対策を急ぐべきという結論に達し、本形式は3扉・ロングシートの通勤車に格下げされることになった。この時、当時の通勤車両が偶数両数の編成が基本になっていたことから、3両固定編成のままで格下げすることは得策でないと判断され、中間車3両を増備の上4両編成とすることになった。サハ1750形は車体長を17,300mmに短縮して仕様を1900形と揃えた他、追加新造した1両を加えて当時の標準であった4両編成に変更された。放送室、トイレ、喫茶カウンターの撤去の他、天井蛍光灯の2列化も実施された。また、サハ1752(初代)はサハ1753(2代)に、サハ1753(初代)はサハ1755に改番された。新造のサハ1750形の車両番号はサハ1752(2代)・サハ1754・サハ1756となった。新造サハは全長16,700mmで長さが異なり、これに伴い両車端の狭窓の幅も異なっている。窓枠は金属製になった。台車は川崎車輛OK-17軸梁式台車を使用し、屋根上の通風器も押し込み形となった。また、第3編成に組み込まれたサハ1756は他車に合わせて張上げ屋根で製造された。一般車化改造された際に片側3扉化されたが側窓は広幅のままであり、窓と扉の配置はデハ1700形がd1D (1) 2D (1) 2D (1) 、サハ1750形が2D (1) 1 (1) D2 (1) D2(両車端の窓は狭幅)となった。車体色は登場時の特急色から当時の一般車標準色である茶色一色となった。前照灯脇の複音警笛は一般車化改造後もしばらく残されていたが、後に床下に移設され開口部が埋められた。1962年に3次車が更新改造を受け、室内のデコラ化、窓のアルミサッシ化の他、前面の貫通化が施工されたが張上げ屋根はそのままとされた。1964年には1次車と2次車も同様の更新改造を受けている。1963年以降、旧特急色が通勤車の標準色となった際、本形式も旧特急色に再度変更された。ただし、特急車時代には雨樋上の屋根肩部まで青塗装であったものが、この際には雨樋のみ青で雨樋上は屋根色とされた。最終的には1969年以降にケイプアイボリーにロイヤルブルーの帯が入る塗装となり、同年にはOM-ATSの設置と前照灯の2灯化が行われた。1974年に全車廃車となった。他形式同様に、主電動機と一部機器が4000形に転用された。地方私鉄への譲渡はなかったが、これは車体幅が2,800mmであり、地方鉄道法において定められていた最大幅2,744mmを超過していたこと、一部は国電の台枠を流用した車両であったためとも推測されている。1951年2月の1次車の使用開始時の特急は毎日運行3往復、休前日運行0.5往復、休日運行0.5往復、休前日・休日運行0.5往復が設定され、新宿 - 小田原間を80分で運転するダイヤであったが、同年8月の2次車の使用開始に伴い座席指定制が開始され、同年10月1日ダイヤ改正では新宿 - 小田原間78分、毎日3往復、休前日0.5往復、休日1.5往復、休前日・休日0.5往復となった。そして、1952年8月の3次車使用開始により特急を1700形だけで賄うことができるようになり、12月のダイヤ改正では下りのみ76分運転となり、翌1953年4月の改正ではさらに1往復が増発された。江ノ島線の夏期臨時特急には1954年から1700形が使用され、特急料金が必要となった。これらの列車の列車名は箱根特急が「あしがら」「明神」「乙女」「はこね」「あしのこ」「はつはな」「神山」「金時」、江ノ島線が「かもめ」「ちどり」であった。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。