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宮澤清六

宮澤 清六(みやざわ せいろく、1904年4月1日 - 2001年6月12日)は、宮沢賢治の実弟。全集の校訂者として賢治研究に貢献した。賢治の8歳下の弟として岩手県稗貫郡花巻川口町(現花巻市)に生まれ育つ。1922年、旧制盛岡中学校(岩手県立盛岡第一高等学校)卒業。同年11月27日、6歳上の姉トシを亡くす。同年12月、東京研数学館に入学。東京市本郷区に下宿。数学を学ぶ。1924年、一年志願兵として弘前歩兵第31聯隊に入隊。1926年、見習士官として除隊。同年5月、父宮澤政次郎と共に、故郷花巻で宮澤商会を開業。金物・建材・電導材・自動車部品を扱う。これにより賢治の幼少時より課題となっていた「質・古着商からの家業の転換」がようやく実現した。賢治が農学校を退職して独居自炊の生活を始めることができたのは、清六によるこの転業も一役買っている。賢治が病臥してからはその看病にも当たった。1933年9月21日、賢治を亡くす。その前夜、賢治から「俺が死んだら原稿はみんなおまえにやるから、本にして出したいといってくるところがあれば出してくれてもいい」と後事を託された。その遺言に従い、草野心平や高村光太郎らの助力を得て翌年には最初の宮澤賢治全集(文圃堂)の刊行にこぎ着ける。以後、永年にわたって賢治の遺稿の保存整理に尽力し、あらゆる版の全集の編纂校訂に携わった。賢治の生前より清六は賢治の文学活動のよき理解者であり、賢治の遺稿を所蔵していた当時も隠匿せずに希望する研究者には開示したことが天沢退二郎らによって記されている。また、校訂についても既存の立場を絶対化せず、1964年には森荘已池らとの協議の末に『銀河鉄道の夜』の本文変更を行ったり、1971年には当時まだ賢治の専門研究者とはみなされていなかった天沢や入沢康夫に次の全集の編集を委ねることを決断して原稿の逐次形態を全面的に開示する画期的な『校本 宮澤賢治全集』の刊行に道を開くなど柔軟な姿勢を取り、多くの研究者から尊敬を集めた。戦時中、賢治との縁から東京の空襲で焼け出された高村を1945年5月に招き入れるが、宮澤家自体も8月10日に空襲に遭い焼失する。このとき、賢治の遺稿の多くを被害から守り抜いた。戦後に高村は郊外の太田村山口(現花巻市)に転居するが、高村の岩手居住中は便宜を図り続けた。戦後は、岩手県民生委員や児童委員を歴任。1957年3月1日に父政次郎を、1963年6月30日に母イチを亡くす。戦後も守り続けた賢治の遺稿は1981年花巻市に寄贈し、現在は宮沢賢治記念館に収蔵されている。1987年、筑摩書房から著書『兄のトランク』を上梓。2001年6月12日、老衰で死去。享年97。賢治の4人の弟妹の中では最後の生存者でもあった。賢治の影響もあり、若い頃は科学の勉強を行ったことから、後年に至るまでSF作品を愛好していた。アニメ『未来少年コナン』の熱心な視聴者であったことを、「校本宮澤賢治全集」の編集に参加した入沢康夫が書き記している。孫の宮澤和樹は、株式会社林風舎代表取締役として、花巻市で賢治関連商品を扱っている。

出典:wikipedia

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