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国鉄キハ80系気動車

国鉄キハ80系気動車(こくてつキハ80けいきどうしゃ)は、日本国有鉄道が開発した特急形気動車。系統としては、1960年(昭和35年)に量産先行車的要素で特急「はつかり」用として製造されたキハ81系グループ26両と1961年(昭和36年)以降に製造されたキハ82系グループ358両の総称で、基本構造の多くを共通とするため本項において一括して解説する。日本における初の特急形気動車であり、1967年(昭和42年)までに384両が製造され、日本全国で広く特急列車に用いられた。1987年の分割民営化時には、北海道旅客鉄道(JR北海道)と東海旅客鉄道(JR東海)に継承され、一部はリゾート列車に改造されている。JR東海所属車両が1992年(平成4年)まで特急列車として定期運用された後、約2年半の間は臨時列車で運用され、1995年(平成7年)1月が最後の運転となった。同年2月以降は美濃太田車両区で長らく4両が保存車として在籍していたが、2009年(平成21年)に在籍する全車が廃車となり形式消滅となった。四国を除く日本各地に配備され、その地方を代表する特急列車として長く運用されたことから、各地に静態保存車が十数両存在する。早期に廃形式となったキサシ80形以外のすべての形式が保存されており、営業当時の基本編成に近い状態で保存の例もある。1912年(明治45年)に日本最初の特急列車が新橋 - 下関間に運転開始されて以来、国鉄の特急列車は東海道・山陽本線に限定される形で運行されてきた。太平洋戦争終了後もその傾向は変わらず、1958年(昭和33年)までは東海道・山陽本線と鹿児島本線の一部に限って特急が運行されていた。1950年代までの「特急」の存在は、文字通りの「特別急行」であり、当時の意識では地方路線に運行すること自体が論外であった。戦後間もない時期は、旅客の速達需要そのものが21世紀初頭の現代に比べて遙かに低く、戦前から沿線に大都市を擁していた東海道本線を除けば、急行以上に速い特急列車を設定する必然性が低かった。また電化についても、1956年(昭和31年)に東海道本線が全線電化完成したほかは、幹線の長距離電化区間は1947年(昭和22年)から1952年(昭和27年)にかけて完成した高崎・上越線上野 - 長岡間に限られていた。したがって当時、多くの路線は蒸気機関車によって運行される非効率な状態であり、従前の急行列車に比して大きく速度向上する手段は、編成両数を極端に減ずるか、停車駅を減らす以外に方法はなかった。しかし需要が限られる以上、特急列車の運行の余地は少なく、少ない本数の急行列車で中距離客・長距離客いずれにも対応しなければならなかった。また1958年までは、特急用車両と急行用車両の明確な区別もされておらず、明確に特急専用と評し得たのは、1等展望車と、一方向き固定の2人がけシートを備えた3等車(現・普通車)のスハ44系に限られていた。だがそれらも専ら東海道線昼行特急と山陽線特急「かもめ」の限られた運用しか存在せず、1956年(昭和31年)から東京 - 博多間に運転を開始した戦後最初の夜行特急「あさかぜ」の3等車座席は急行列車並みの四人がけボックスシートであるオハニ36形・10系客車であり、その他寝台車・特別2等車(現・グリーン車)・食堂車についても急行列車との差異は見られなかった。鉄道全体の近代化を推進してきた国鉄は、1958年秋に昼行特急用に20系(→151系 後の181系)電車と寝台特急用に20系客車の2種類の特急形車両を登場させた。この両系列は用途も外観も全く異なっていたが、いずれも全車両に冷房装置と空気バネ台車を備えた優秀な車両で、それ以前の国鉄車両とは隔絶した高水準の居住性と走行性能を実現していた。151系は新設の東京 - 大阪・神戸間特急「こだま」に、20系客車は「あさかぜ」の車両置き換え用に投入され、未曾有の成功を収めた。特急専用車である両系列の出現により、1等展望車をはじめとする在来型客車で運行されていた「つばめ」・「はと」は陳腐化した存在となった。一方、 1958年10月のダイヤ改正で、それまで特急列車が存在しなかった上野 - 青森間に、昼行の特急列車が1往復新設されることになった。戦後復興と高度経済成長に伴う東北本線自体の輸送需要の伸びもさることながら、当時は航空機による首都圏 - 北海道間の旅客輸送が確立されておらず、青森以北についても青函連絡船との連携により鉄道による高い輸送需要があったことから、特急を新設する素地があった。これが「はつかり」で、同年10月10日から常磐線経由で運転を開始した。「はつかり」は同区間で1949年から運行していた昼行急行「みちのく」を特急に格上げした列車で、この時点では前身の「みちのく」同様、蒸気機関車牽引の客車列車であった。一方、国鉄は1953年(昭和28年)から総括制御可能な液体式気動車のキハ45000系(→キハ10系)気動車を量産し、地方路線で無煙化・増発・速度向上・運行経費抑制などの成果を上げていたが、1956年(昭和31年)にはその技術の延長上にキハ44800形(→キハ55系)準急形気動車を開発した。キハ55系の最高速度は旅客用蒸気機関車同様95km/hであったが、1両あたり2基エンジン搭載の強力仕様とされたことで、加速力と登坂力で蒸気機関車列車を完全に凌駕した。煤煙を出さない事に加え、それ以前の気動車の弱点であった客室の居住性も車体の大型化と設備改善である程度の水準に達しており、高速と相まって利用者から好評を博すことになった。これによって、規格の良くない地方の非電化路線でも気動車の投入で高速の優等列車を運転可能なことが立証されたのである。アジア鉄道首脳者会議 (ARC = Asian Railways Conference) 第1回会議は、日本国有鉄道総裁であった十河信二の提唱で1958年に東京で開かれた。電車特急「こだま」が運転を開始した時期でもあり、国鉄部内に客車特急「はつかり」を気動車特急に置き換え、接客設備や速度の向上を図るというプランが浮上した。1959年秋より「はつかり」用特急気動車の開発がスタートする。翌1960年の初頭、同年中にARC第2回会議を再び東京で開催することが決定。そのARCでこの新型気動車をお披露目し、アジア諸国に日本の技術力 をアピールすることが鉄道車両の輸出促進につながると期待された。鉄道首脳者会議の開催は1960年10月に決定し、同年12月から特急「はつかり」の営業運転が決まり、それまでに特急形気動車を完成させるべく、急ピッチで開発が進められることとなった。1960年に9両編成2本と予備8両の合計26両が製造されたキハ81系 は、日本初の特急形気動車である。最初に投入された列車名にちなみ「はつかり形」とも呼ばれる。1961年第4回鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。全体のスタイルは、クリーム4号の地に窓周りが赤2号のツートンカラー・銀色の屋根に並ぶキノコ形キセに収められたAU12形分散式冷房装置・遮音防振のための浮床構造車体・複層ガラスによる固定窓・車端部1か所のデッキなど基本的に151系電車を踏襲している。ただし、非電化区間や交流電化区間の駅はホーム高さが低いため客用ドアにはステップを1段設置した。運転台を持つキハ81形は他に例のない独特のボンネット形デザインを採用したが、膨れて寸詰まりな形態は鉄道ファンの間から「犬顔」や「ブルドッグ」などの俗称でも呼ばれた(詳細は後述)。その他の特徴として、各車連結面間に車体断面に沿った「外幌」を設けた。同時期の151系電車が導入していた外幌と同じもので車両相互間でファスナーで連結された。空気抵抗低減の狙いがあったようであるが、在来線の速度では効果を発揮せず使い勝手が悪いことから、早期に取り外された。そのためキハ82形を含む1961年度以降の増備車には踏襲されていない。基本構造は、既に大きな成功を収めていた151系電車を全面的に踏襲することになった。全車両に冷暖房を搭載する空調完備の状態を前提に客室窓は複層ガラスによる固定式とし、冷暖房や食堂車調理室は全て電気式となった。食堂車の調理用熱源は石炭レンジに代わり、強力な電熱コンロを採用する。また、乗り心地の改善のため車体間ロールダンパも採用した。屋根上に電気式冷房装置を搭載し、座席下配置の電気暖房方式 を採用。いずれもディーゼル発電機を電源とするもので、客室内に限っては電車と区別が付かない仕上がりとなった。ただし、食堂車を除きカーテンは151系電車で採用された横引き式ではなく巻き上げ式とし、1等車通路の絨毯も省略されるなどのコストダウンにより若干グレードは落とされた。151系電車同様、天井内張りに吸音効果を期待した多孔板を採用した。座席は2等車(現・普通車)が回転クロスシート、1等車(現・グリーン車)がリクライニングシートであるが、2等車用は背面にメッキの縁取りと小型テーブルを装備する。表皮はロイヤルブルーであるものの全面モケット張りの電車用とは異なりコストカットの見地から背面はクリーム色のデコラ仕上げとした。トイレ・洗面所は各車に、キロ80形は洋式トイレも設置した。エンジンのエキゾーストマニホールドは一部車両を除き車端部に移され、客室からは隠された。当初キハ60系を試験車として開発を進めていた400PS級となるDMF31HSエンジン の搭載を想定していたが、DW1形変速1段・直結2段液体式変速機共々試験結果は思わしくなく、不具合の問題解決を行う時間的余裕がなかったこともあり搭載を断念した。代替案としてキハ55系などで実績のある定格出力180PS級のDMH17系エンジンを2基搭載して必要な出力を確保する従来からの手法を採用したが、客室内の防音・防振を重視して浮床構造を採用したことから、客室床面の点検蓋は廃止せざるを得ないため、DMH17Cまで一般に採用されていた垂直シリンダー式をやめ、床下側面から整備できるように水平シリンダー形へ設計変更したDMH17H を搭載することになったが、過給機の取り付けについては見送られた。また機関ブレーキは未装備 である。走行用エンジンを2基搭載するのは中間車のキロ80形・キハ80形のみである。先頭車のキハ81形はボンネット内に電源用エンジンを搭載するため走行用エンジンは1基、食堂車のキサシ80形は厨房用水タンクと電源用エンジンを搭載するため無動力の付随車となった。変速機も従来からの標準型である液体式のTC2AもしくはDF115Aを搭載するが、最高速度を向上させる目的から逆転機内の最終減速歯車比を一般形の2.976から2.613に変更し、最高速度は100km/hとなった。台車は新規開発されたDT27(動力台車)・TR67(付随台車)が搭載された。これらはキハ55系3次車以降で採用されたDT22の枕バネをベローズ式空気バネに変更してボルスタアンカーを付加したもので、151系電車に採用されたDT23系台車の気動車用に相当する。ブレーキは従来通りのDA1系自動空気ブレーキが採用された。しかし、片押し式の踏面ブレーキであったため高速域からの制動力が不足気味であり、制動時に鋳鉄製制輪子の火花から引火する車両火災事故も発生した。「はつかり」運用終了後は、改造車も含め全車ディスクブレーキ仕様のDT31B・TR68Aに新製交換された(詳細は後述)。電源エンジンはDMH17H形と基本構造を同じくするDMH17H-G形三相交流発電機を駆動し、1基で食堂車1両と座席車2両分、または座席車4両分の電源供給が可能である。「はつかり」では9両編成中3両に計3基の発電セットが搭載された。当時の国鉄気動車は運用上の制約を避けるために制御回路はKE53形ジャンパ連結器2基による両渡り構造を採用していたが、本系列では一般車では片渡り構造とし、食堂車のみ両渡り構造で制御回路をクロスさせる方式を採用したほか、制御回路用にKE62形2基、冷房制御用にKE61形1基、冷房用三相交流440V引き通し用にKE4形を新開発し搭載した。鉄道界と沿線の注目のうちに運転を開始したが、故障が続出した。あまりのトラブル続きのため利用者からは不評を買い、問題が続出した要因として製造メーカーが9社に及んだために性能が安定しないこと に加え、就役を急ぎ過ぎたために新規採用された水平シリンダーエンジンや長距離高速運転などの問題点を洗い出す十分な熟成作業が行われなかったこと が挙げられた。本系列の製造は車両工業界全体のPRの意味も込め電車・客車メーカーも参集して、前述したアジア鉄道首脳者会議開催に伴う技術デモンストレーションの意味合いから日本車輌製造・新潟鐵工所・帝國車輛工業・富士重工業・東急車輛製造・近畿車輛・日立製作所・汽車製造・川崎車輛(現・川崎重工業車両カンパニー)と当時国鉄に旅客用車両を納入していた9社全てが参加した。9社が担当したのはキハ81系のみで、国鉄気動車製造の実績がなく電車(川崎・汽車・近畿)や客車(日立)を担当していたメーカー各社はそれぞれの得意とする分野を考慮の上で担当形式の製造を施工した。先行製造車落成後に一部設計変更が実施されたため以下のような差異がある。本系列の先頭車となる片運転台付2等車で定員は40名。エンジンは走行用を床下に1基、枕木方向に対して横置きするサービス電源発電セット用をボンネット内に1基搭載する。ボンネットは大半がエンジンフードとされ、メンテナンスの観点から大きく開く構造を採用した。前照灯は屋根上2基搭載のみで、両脇に緊急停車時用赤色交互点滅回路 を内蔵した標識灯を、通常の尾灯はボンネット腰下部分に設置する。車内レイアウトは、運転台後部から常に1.800 rpmという高回転で運転される発電セット用エンジンの騒音対策とボンネット内のスペース問題からラジエーターなどを床上搭載する機器室・トイレと洗面所・客室・2等客向け売店 と物置・客乗降用出入台の順で設置する特異なものである。屋根高は、運転台 - 機器室間が後位側に比較すると一段高くされており、ラジエーター保護と換気目的から機器室部位車体側面に設置するルーバーの位置も高くされた。非貫通かつ総括制御ならびに冷房電源引き通し用ジャンパ連結器を前面に搭載しないため編成中間に組込不可で定員が40名と少ないことから、先頭車がキハ82形に製造移行後も「はつかり」で限定運用され続け、1968年の「はつかり」電車化後は奥羽本線特急「つばさ」2往復中1往復(下り・上り2号)に充当された。1969年10月には秋田機関区(現・秋田車両センター)に転出し、羽越本線経由の「いなほ」と間合い運用の常磐線特急「ひたち」に転用。1972年10月には「いなほ」「ひたち」の電車化により和歌山機関区(現・和歌山電車区)に再転出し紀勢本線特急「くろしお」名古屋 - 天王寺間運転の下り5号・上り2号の名古屋方基本編成(7両・天王寺方先頭車はキハ82形)ならびに天王寺方付属編成(3両)の先頭車で限定運用。翌1973年10月からは基本編成のみが紀伊勝浦発着の臨時「くろしお」にも投入された。しかし、老朽化から1976年10月1日のダイヤ改正で1・2・4・6の4両が休車となり天理駅に留置ののち1977年12月23日付で廃車。3・5は引き続き付属編成に組込まれていたが、1978年10月の紀勢本線新宮電化によって余剰となりさよなら運転の後休車。翌1979年7月に5が、10月に3が廃車され形式消滅した。本系列の基幹形式となる走行用エンジンを2基搭載する中間2等車で定員72人。キハ81とキハ82で形状をまったく異にした先頭車と異なり、以後の増備車でも形状にほとんど変化がなく、取り扱いもその後の改修でほぼ同一とされた。このため「はつかり」用として製造されたグループでは長く営業運転で運用され、10は1983年に廃車されるまで1960年の新造以降23年間車籍を有していた。走行用エンジンを2基搭載する中間1等車で定員48人。トイレと洗面所を客室前後位の2箇所に設置するが、6以降の増備車と異なり屋根上の水タンクはない。座席は2人掛けの回転式リクライニングシートで以下に示す特徴を持つ。後に3両が後述の普通車化改造を施工されたが、キロのまま残存した2両はキハ81形とともに秋田→和歌山と転属。1977年12月に廃車となった。気動車としては日本初の食堂車。付随車で食堂定員は40人。構造と間取りは同時期に開発されたサシ151形に準拠しており外観も非常に似通っている。完全電化の厨房と空調を装備する。食堂側車端の扉上には151系電車でも装備された列車位置表示器が、本形式でも設置された。床下には、大型水タンク3個のほかに発電用に燃料噴射特性を変更したDMH17H-GエンジンとDM63形発電機を組み合わせた発電セットを搭載している。それらの搭載スペースのために走行用エンジンは搭載されておらず、車重は38.2トンと全形式中で最も軽い。後に走行用エンジンを搭載しキシ80形900番台へ改造された(詳細は後述)。本項では「はつかり」運用開始後に施工された機能性向上や改良を目的とした改造、「はつかり」電車化による余剰と車種間の需給調整からキロ80形3両の普通車化ならびに付随車のため不足する編成出力問題解決と転配時自由度を確保する観点からキサシ80形3両の動力車化の形式間改造にわけて解説を行う。「はつかり」運用終了後は一部車両を除き以下の改造工事を施工。1968年に土崎工場(現・秋田総合車両センター)で施工。前位の車掌室・荷物保管室と後位のトイレ・洗面所を撤去して、座席を回転リクライニングシートから回転クロスシートに交換。客室窓は1等車時代の狭窓のままでシートピッチと合っていないが、定員はオリジナルのキハ80形と同一とされた。向日町運転所(現・吹田総合車両所京都支所)に配置された後に秋田機関区を経て鹿児島運転所(現・鹿児島車両センター)に転出し、日豊本線特急「にちりん」・肥薩吉都線特急「おおよど」などで運用された。大宮工場(現・大宮総合車両センター)で施工された普通先頭車化改造である。定員はオリジナルのキハ82形と同一であるが、片側のトイレ・洗面所・一部の客席部分を運転室・機械室に改装し車掌室・荷物保管室を撤去するほか、走行用エンジンを1基とし発電セットを搭載するなど大掛かりな工事である。901は「はつかり」運用終了後の1968年12月に改造され向日町運転所に配置。1972年3月15日ダイヤ改正で「いなほ」「ひたち」が9両化 されるために902と共に秋田区へ転出。7か月後の10月には羽越本線電化により「いなほ」「ひたち」が485系電車化され余剰となったために札幌運転区(現・札幌運転所)へ再転出。「北斗」「オホーツク」で運用された。1981年(昭和56年)10月のダイヤ改正で余剰となり同年12月25日付で廃車。サボ受けの移設は行われていない。902は「はつかり」運用終了後もキロ80 5のまま1969年10月に秋田へ転出。翌1970年2月に改造され鹿児島運転所に配置。同年9月に和歌山機関区に転出。1972年3月の秋田再転出後は901と同様な経歴を持つが、1982年6月11日に石北本線で脱線事故のため同年7月6日付で廃車。キサシ80形から床下の発電セット・水タンクを撤去し、走行用エンジンを2基搭載するキシ80形化改造であるが、冷蔵ケースの位置が新製車では調理室側車端なのに対し、本番台区分では食堂側車端となったほかに乗務員室もないなどの差異がある。また本改造工事では以下の変更も施工された。また改造に至るまでの経緯が901・902と903では異なり、901・902は「はつかり」運用終了後も尾久所属のままとなったキサシ80 2・3を1968年12月9日に高砂工場で改造。1969年10月1日に秋田機関区へ転出となり「いなほ」「ひたち」運用に投入されたが、1972年10月1日に向日町運転所へ再転出。903は耐寒工事が施工され1968年9月9日に函館運転所(現・函館運輸所)に転出したキサシ80 1が種車で、約1年間「北斗」で運用後の翌1969年12月27日に五稜郭工場(現・五稜郭車両所)で改造され、施工後も函館所属のまま運用された。全車とも余剰から1976年までに廃車となった。1961年から製造されたキハ82系 は、キハ81系の改良型で当初投入された列車の一つである特急「白鳥」にちなみ「白鳥形」とも呼ばれる。82系の登場から従来の81系と合わせ「キハ80系」または「80系気動車」という統一形式 で呼ばれるようになった。「はつかり形」キハ81系は、登場早々のトラブル続きで不評を買い将来性を危ぶまれた。しかし、その間にも旅客需要の増大で日本全国の国鉄線における輸送力改善は急務となっていたため、国鉄は1961年10月の白紙ダイヤ大改正を計画する。この改正では全国に特急列車を大増発することが計画された。特急新設路線の多くは地方の亜幹線であり、当然ながら非電化で、気動車を充当せねばならなかった。このため国鉄は1960年末から改良型となるキハ82系の開発に着手した。キハ81系には走行機器のトラブル多発のほか、いくつかの欠点があった。特に代表的なのは次の2点である。これらの問題に対するキハ82系での大きな改良点は、全体に信頼性向上を図ったうえ、先頭車を貫通式運転台と電源セットを備えるキハ82形に、食堂車をエンジン2基搭載の動力車キシ80形に車種変更したことである。つまり、中間車については全車走行用エンジン2基搭載とし、サービス電源容量が必要な場合はキハ82形の増結で対処することで一応の編成出力を確保すると同時に、分割併合自在に長短の編成を組めるようになった。気動車用のディスクブレーキは、1960年(昭和35年)に試作されたキハ60系気動車用のDT26系で試用された実績がある。本系列では、当時ラックレールのあった信越線への乗り入れ、車輪踏面のフラット対策と高速域でのブレーキ特性改を目的として、DT27系を基本とする空圧油圧変換式キャリバー車輪ディスクブレーキ方式のDT31A(付随台車はTR68)の台車を採用した。アプト式区間はラックレールが線路中央に敷かれているため、一般的な踏面ブレーキの気動車では台車のブレーキ部品がラックレールに接触して通過不可能であったが、ディスクブレーキ装着車では可能だった。なお、この台車は1961年5月に就役した信越本線用のキハ57系急行形気動車に導入したDT31の改良形である。1965年(昭和40年)度以降の生産車は改良型のDT31B・TR68Aに移行しているが、大きな差異はない。DT31系は揺れ枕吊りにベローズ式空気バネを搭載する第1世代の空気バネ台車であり、DT27系との相違はブレーキ関連機器のみである。そのディスクブレーキは、酷寒地域の厳しい気象条件の中でも高速域から有効にブレーキ力を発揮し、また長い下り勾配での酷使にも耐えた。しかし、逆転機とディスクブレーキユニットを車輪間の狭いスペースに並べて押し込めたその設計は、整備性という点では劣悪であり、整備担当の現場作業員は、窒息しそうなほどの窮屈な空間でブレーキダストで全身真っ黒になりながらブレーキパッド交換などの困難な作業を強いられたという。しかも車輪踏面にブレーキシューが接触しない構造のため、北海道地区では、後年に冬期を中心に踏面剥離現象 が多発した。キハ82系では、車体側面部において赤帯からはみ出ていたドア戸袋の点検蓋を小型化し、81系では車体裾の赤帯部にあった冷却水の給水口の位置を赤帯上部に移し形状を変更するなど仕様変更が見られる。入口ドアの引戸に付くステンレス製の帯が従来1本だったのが2本に増え、床下の機器類ではキハ81系ではあったエンジンカバーがなく(キハ81系は後に撤去)、レイアウトも一部異なっている。くずもの入れの大型化で妻板部分には張り出しを設け、仕切り扉の客室側の金属製のハンドルが縦長の黒い長方形の樹脂製プレートに変更された。1961年から1967年までに110両が製造された。キハ81形に代わって開発された本系列の貫通型先頭車である。発電セットを床下搭載としてボンネットを廃止し、当時の一般形・準急形気動車や急行形電車同様の貫通式運転台を採用した。客室のレイアウトもキハ81形と比較して、トイレ・洗面所の位置をデッキ寄りに変更。売店も廃止されたことから客室が拡大されている。このため座席定員は、キハ81形より座席3列分12人多い52人となった。一時は気動車特急の代名詞的存在となり、そのスタイリングはキハ181形やキハ391形はもとより、キハ189形や373系にも受け継がれた。造形面での優美さと機能性を兼ね備えた完成度の高い前頭形状は、今なお、工業デザイナーや鉄道愛好家から高く評価されている。正面貫通式で両側に若干の後退角を伴ったパノラミックウインドウ(曲面ガラス)付き高運転台は、星晃 らの手で同年に設計されたクハ153形500番台にも採用された当時最新のデザインであるが、灯具の位置や塗色の違いから両者の印象は相当に異なる。153系電車などのような列車種別表示幕は設けず、屋根上両側に前照灯と標識灯をセットとした横長のライトケースを設置(これは同時代のアメリカ製乗用車の影響と見られる)した。パノラミックウインドウは、前面の平面部分から曲面部分までがシームレスの大きな一体型ガラスで、コスト高を押して採用された。窓下には鳥の翼を思わせる広幅の赤帯を塗装してアクセントとしている(このイメージは後のキハ181形にも多少の改良を伴いながら継承された)。貫通扉には、ドアサイズに合わせた小型の列車愛称表示板と逆三角形の特急シンボルマークが装備されている。貫通幌は、収納時には車体側の凹みに面一で格納され、通常の貫通幌のように飛び出ることのないスマートな外観となった。同様の貫通幌は14系・24系客車の初期車にも採用された。1963年(昭和38年)製の46- は冷房装置の位置を変更し5基となる。さらに洗面所寄りにはダクトが追加された。従来の車両も順次追設工事 が施工された。また1965年製の76- は台車をDT31B/TR68A形に変更した。1961年 - 1967年に154両が製造された。番号はキハ81系からの続番で基本構造もほぼ同じであり、台車のDT31A形への変更と排気管をはじめとするエンジン周辺の熱害対策が施された程度の違いのみである。119- は台車をDT31B形に変更。1961年 - 1967年に57両が製造された。キハ80形同様に1960年製造車からの続番で熱害対策やDT31A形台車への変更のほか、地方線区での受信環境やイヤホン消毒のメンテナンス難を考慮したシートラジオの廃止や水タンクの屋根上増設が実施された。また48- は台車がDT31B形に変更された。1961年 - 1967年に37両が製造された。キサシ80形から以下の設計変更を実施した。当初はキサシ80形同様に走行位置表示板を搭載したが、他線への転用の際に撤去された。クーラーパネルはキサシ80と同タイプが初期車に採用され、後の増備車では82系1・2等車と同じ改良型に変更された。35・36は台車をDT31B形へ変更し走行位置表示器を廃止。1967年製造の最終増備車37は、さらに食堂部窓を大窓化しベネシャンブラインドを装備しており、後続の583系電車やキサシ180形の試作的要素を持った異端車である。1986年10月の「おおとり」「オホーツク」を最後に一般定期運用を終了。1987年の分割民営化時には29・36・37の3両が保留車のままJR北海道に承継。36・37はそのまま廃車となったが、29は1988年3月にジョイフルトレイン「トマムサホロエクスプレス」用の501へ改造。同車は2007年6月6日付で廃車され形式消滅となった。本系列に属するジョイフルトレインは、次の3車両である。詳細は、各項目を参照のこと。1960年9月15日付けでキハ81系先行製造車9両(1編成)が落成し尾久客車区(現・尾久車両センター)に配置された。同日には川越線で18日から23日にかけて営業運転と同様に常磐線・東北本線でPR映画 の撮影が行われた。翌10月には、アジア鉄道首脳者会議でお披露目され、国鉄の意図通り会議参加者の注目を集めた。特別に1等車を連ねた編成が組まれ東京 - 日光間を往復した。12月10日から上野 - 青森間特急「はつかり」に就役した。運転開始時は客車列車時代と同一の所要時間となるダイヤ設定であったが、前述の故障のため客車列車による運行もあった。翌1961年3月のダイヤ改正で初の気動車ダイヤが組まれ、同年10月の改正では10時間半を切り客車時代と比べて約1時間短縮する大幅なスピードアップが図られた。なお、82系グループのキハ80形とキロ80形も「はつかり」編成に組み込まれるようになる。編成は以下の9両である。「はつかり」は1963年(昭和38年)4月20日のダイヤ改正から、キハ80が1両増車され10両編成となった。1968年10月のダイヤ改正前に583系電車に置き換えられることになり、9月9日から上野発下り9001M、翌10日から青森発上り9002Mで常磐線経由のまま電車化する暫定ダイヤが組まれた。「はつかり」運転最終日となる9月8日の上野発下り1D、翌9日青森発上り2Dの編成は前後のヘッドマークに紅白の花の縁取りが施され、9日の上野駅から尾久客車区までの回送では先頭車両に「ディーゼル特急ご苦労さんでした」のプレートが取り付けられ、到着後同所で記念式典が行われた。この改正では、日本全国に9往復しかなかった国鉄特急列車を一気に26往復まで増発させることになり増備改良形のキハ82系127両が準備されたが、一部列車はダイヤ設定されたものの運転が見合された。これは、就役した本系列の信頼性が未知数 であり、万一トラブルが起きた場合でも代替用の予備車両を即座に用意できる態勢を作っておくためである。故障率の低さを確認した上で運休していた列車の運行に初めて踏み出したが、それでも完璧にトラブルを排除するまでには至らず当時開設されたばかりで本系列による特急列車運行を多数担当した向日町運転区(後の向日町運転所→京都総合運転所→現・吹田総合車両所京都支所)では、以下のエピソードがある。また故障・トラブル回避という観点から「つばさ」では 奥羽本線福島 - 米沢間に介在する急勾配区間の板谷峠で当初はEF16形、1964年以降はEF64形、交流電化へ転換後の1968年以降はEF71形を補助機関車として連結した。これは本系列のみでも低速での自力走行が可能であったものの液体変速機作動油(トルコンフルード)のオーバーヒートを防止するためである。本改正で新設された本系列による特急列車を以下に示す。「かもめ」を除いては全て新設列車であり、「つばさ」「ひばり」「白鳥」上野編成以外は、いずれも東京に直通しない特急列車であった。本系列が地方路線近代化の旗手となったことを象徴する事実である。「白鳥」と「かもめ」は、貫通型を採用したキハ82形の分割併合機能を活かした2つの目的地を持つ2階建て特急列車で、以下の理由からそれぞれの編成に1両ずつ食堂車が連結された。この結果「白鳥」大阪 - 直江津、「かもめ」京都 - 小倉の併結区間では編成内食堂車が2両同時に営業するスタイルを採用した。編成ごとの担当業者ならびにメニューの相違から、当該列車をよく利用する客は気分や好みで使い分けをしたり、味の比較を行った客もいたというエピソードも残っている。1963年12月5日からは上野 - 秋田間の「つばさ」に盛岡発着編成の併結運転が開始され、上野 - 福島間は食堂車2両連結となった。これら3列車はいずれも1965年10月1日ダイヤ改正で「つばさ」「白鳥」は運転系統の分割、「かもめ」は長崎編成からキシ80形を減車したため、食堂車2両連結特急の運行は1961年-1965年の4年間で終了した。前述の改正による大増発は、従来主要幹線のみに限定して運転されていた特急列車を地方路線に拡充する成果を挙げた。その結果として日本全国に特急列車網を成形し、各地の車両基地に配置された。以下で配置された車両基地と充当された列車について解説を行う。1972年3月15日のダイヤ改正で函館運転所から「北斗」運用の基本編成を移管される形で函館・向日町からの転属車が配置された。同年10月のダイヤ改正で「オホーツク」の運用も担当した。しかし、1981年に「北海」がキハ183系に置き換えられ「オホーツク」2往復の運用になるも、こちらも翌1982年10月でキハ183系化。余剰車は函館再転出もしくは廃車となり、翌1983年6月に配置が消滅した。キハ82系登場時からの配置車両基地である。担当列車は次に示す。1968年9月に「はつかり」電車化で運用を外れたキサシ80 1が尾久客車区から転入。1年間「北斗」の運用後五稜郭工場でキシ80 903に改造されたが、食堂車余剰により1975年3月で廃車。1986年10月いっぱいで定期運用を終了。残存車両のうちキハ82形6両とキハ80形6両は座席をキハ183系500番台同様のリクライニングシートに交換するなどの保全工事を施工。1986年に改造された「フラノエクスプレス」も落成直後は当所に所属していた。JR化の際に同所所属車両は苗穂運転所に転属となり、本系列配置基地としては幕を閉じた。「いなほ」と共通運用の「ひたち」を担当。配置当初の20両は、キシ80 2を除きすべて尾久から転入の1960年製造車でキハ82形の配置がないのが特徴。1972年3月に編成が7両→9両となったためにサービス電源確保のためキハ82 24・901・902が配置されたほか、キハ80 901も転入したためキロ80形改造の普通車全車が集結。同年10月に充当列車の485系電車化で全車転出。前年の1963年から運転されていた「つばさ」盛岡編成を尾久から移管する形で20両が配置される。しかし、1年後に電化完成による485系電車化で「やまびこ」に発展的解消となり他区所に転出。「やまばと」の尾久からの移管と上野 - 山形・会津若松間併結運転開始による配置。6両編成3本(使用2本・予備1本)計18両全車が新製車であるが、山形編成と会津若松編成が交互に行き来する運用 のため本系列では初の食堂車不連結 となりキシ80形の配置はされていない。奥羽本線山形電化ならびに磐越西線喜多方電化完成で485系電車化による分離運転となったために全車転出した。本系列最初の配置基地でキハ81形・キサシ80形は「はつかり」で限定運用。キハ81形は「はつかり」電車化後も「つばさ2号(上下とも)」のみの限定運用とされ1969年10月に秋田機関区に転出した。1961年にはキハ82系も新製配置され東日本地区の本系列使用列車の多くを担当していたが、ダイヤ改正に際し「つばさ」を除き他基地へ移管されているのが特徴である。1968年10月改正で「つばさ」運用では黒磯駅通過列車が設定されたためキハ81・82形には黒磯駅通過用列車選別装置が搭載された。1970年2月に「つばさ」のキハ181系置換えにより全車転出。1975年3月ダイヤ改正で「ひだ」を金沢運転所から移管されて配置基地となった。当初は、使用6両編成1本と予備車4両の計10両という少数配置であったが、1976年10月のダイヤ改正で向日町の余剰車を転入させ「ひだ」2往復を名古屋 - 高山間に増発。さらに1978年10月2日のダイヤ改正では、「くろしお」の電車化による余剰車を投入して「ひだ」1往復増発の4往復とともに紀勢本線の特急「南紀」にも投入された。民営化直前の1986年から一部車両には特別保全工事を施工。普通車の座席を117系電車や185系電車と同様の転換クロスシートに交換し、民営化後も引き続き「ひだ」「南紀」で運用された。「白鳥」上野編成を大阪 - 金沢間と金沢 - 上野間に分離運転とし前者を481系電車による「雷鳥」、後者を本系列による「はくたか」とするために7両編成2本と予備車6両の計20両が向日町から転入により配置。1967年3月からは間合い運用で臨時「雷鳥」にも投入されることになり、この場合夜間滞留は尾久・向日町となり所属基地となる金沢で夜を越せない珍しい運用スタイルとなった。1968年10月からは高山本線特急「ひだ」の運用も担当するが、こちらは食堂車不連結の編成が組成されている。1969年10月の北陸本線糸魚川電化による「はくたか」485系電車化により「ひだ」のみの運用となり、1975年3月改正で名古屋機関区に移管・全車転出。1961年の配置開始時には「白鳥」青森編成・「かもめ」・「みどり」・「へいわ」・「まつかぜ」を担当。北は青森から南は九州地区まで広域運用が特徴で最盛期の1973年には126両と本系列の約1/3が当所に配置された。電化の進展により1972年には「白鳥」が485系電車化。1975年の山陽新幹線博多開業による山陽本線経由九州特急の運用を終了。以後は山陰本線・福知山線系統特急「まつかぜ」・「はまかぜ」・「あさしお」・「おき」を中心に運用された。しかし「おき」は1976年に「つばさ」のキハ181系捻出車により小郡機関区(現・下関総合車両所運用検修センター新山口支所)に移管。1982年からは余剰となったキハ181系が転入して当初の本系列を置換え始め1985年3月のダイヤ改正で定期運用を終了。一部車両は転出し波動輸送用として残存した車両も翌1986年3月までに廃車となった。紀勢本線特急「くろしお」と間合い運用の関西本線・阪和線経由で東和歌山(現・和歌山)発着となる「あすか」に投入されたが、「あすか」は当初から利用者が少ないことがネックになり1967年10月改正で廃止された。以後は「くろしお」専従の車両基地 となり、当初の1往復から定期6往復+臨時1往復まで増発されている。しかし、1978年10月の新宮電化により運転系統が同駅で分断された。これにより「くろしお」は381系電車化され、同区の本系列は全車運用離脱。転出車を除き翌1979年10月までに廃車となった。1967年10月の改正で門司港 - 西鹿児島(現・鹿児島中央)間に鹿児島本線経由の特急「有明」を設定したために向日町からの転入車により運転を開始した。翌1968年10月改正では日豊本線経由で博多発着となる「にちりん」にも投入された。1970年10月には鹿児島本線全線電化により「にちりん」専従となり、1974年4月からは博多 - 宮崎間肥薩線・吉都線経由の「おおよど」と共通運用になった。この際に編成の組成変更が行われ食堂車が外されたためにキシ80形は向日町に転出している。1979年の日豊本線全線電化後も「にちりん」1往復は共通運用のため本系列で残されたが、翌1980年10月1日のダイヤ改正で「にちりん」は485系電車化、「おおよど」は廃止され鹿児島配置車は名古屋転出車と残存車に分類され1981年11月までに残存車は廃車された。JR北海道が18両、JR東海が50両継承した。「フラノエクスプレス」3両と一般車15両(キハ82形6両・キハ80形6両・キシ80形3両)が函館運転所から転入で苗穂運転所に配置された。一般車は普通車シートをリクライニングシートに交換するなどのアコモ改良工事を施工され波動輸送用で臨時「北斗」などで運用された実績もあるが、1987年から1988年にかけて「トマムサホロエクスプレス」に5両が、「フラノエクスプレス」に1両追加という形を採り苗穂工場で改造された。一般車は1992年までに全車廃車となり、ジョイフルトレインに改造された車両も老朽化により「フラノエクスプレス」は2004年までに、「トマムサホロエクスプレス」は2007年までに全車廃車となり消滅した。引き続き名古屋配置車により「ひだ」「南紀」で運用された。1988年には、キロ80 57を復籍させた上で他の2両と合わせて名古屋工場で「リゾートライナー」への改造も行われている。定期特急運用は「ひだ」が1990年3月9日、「南紀」が1992年3月13日を持って終了し後継のキハ85系と交代となった。その後は鈴鹿サーキット観戦臨時列車や1994年(平成6年)まで名古屋 - ナゴヤ球場正門前間のナイター観客輸送列車に投入された。また同年10月25日には高山本線全通60周年記念のイベント列車「メモリアルひだ号」として、11月には御殿場線60周年記念号として、12月には高山本線全通60周年記念と美濃加茂市制40年記念の「メモリアル6040ひだ号」として、1995年(平成7年)1月21日には紀勢本線にて「メモリアル南紀」としてさよなら運転されたのが最後となった。同年中には「リゾートライナー」も含めて保存を目的としたキハ82 73・105・キロ80 60・キハ80 99を残して全車廃車となった。保存目的車は、車籍上は名古屋配置のまま美濃太田車両区にて保管されていたが、キハ80 99は2008年(平成20年)3月31日付で、残りの車両も翌2009年3月31日付で廃車となった。これをもって本系列は廃系列となったが、キハ82 73のみが2011年(平成23年)3月にオープンしたリニア・鉄道館で静態保存されている。「レイル」 No.3 1981 Spring 特集 国鉄のディーゼル特急国鉄型車両の系譜シリーズ03 「形式キハ80・181系」THE LAST RUNNERS Vol.5 「80系気動車物語」

出典:wikipedia

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