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月岡野の戦い

月岡野の戦い(つきおかののたたかい)は、天正6年(1578年)10月4日に越中国月岡野(現、富山市上栄周辺)において織田軍(斎藤利治)と上杉軍(河田長親)が戦い、織田軍が勝利した戦い。1578年3月、上杉謙信が急死し、その後継者争い「御館の乱」が勃発すると、織田信長はこれを好機と捉え、4月には上杉氏勢力下にある越中国を攻略すべく、越中出身で越中守護代家の由緒をもつ神保長住に佐々長穐らの兵をつけて飛騨口から侵攻させた。当時北陸侵攻に当たっていた柴田勝家は加賀の一向一揆に手間取っており、能登も上杉方が保持していた。そこで、飛騨口から越中を攻略することによってこれらの上杉軍と越後との連絡を絶ち、分断撃破する戦略があったと思われる。長住は神保旧臣や国人衆を味方につけて砺波郡の増山城を攻略するなど一定の成果をあげたが、越中国内は依然として上杉氏優勢であり、9月には織田信忠付の家臣斎藤利治率いる濃尾の兵が援軍として越中戦線に送られた。斎藤利治率いる織田軍は三木氏の支援を受けて越中南部に進出、津毛城を攻略すると、神保勢に守備を任せ、さらに北進して今泉城を攻めた。しかし守りは堅く、夜半になり撤退を開始した。これに対し、河田長親、椎名小四郎率いる上杉軍は城を打って出て織田軍を追撃した。しかし戦巧者の利治は地形の複雑な月岡野まで上杉軍を引きつけ、ここで一挙に逆襲に転じ、首級360を討ち取り、三千人以上捕捉し勝利を得た。その後今泉城も攻略、信長や嫡男信忠は利治に感状を与えてその戦功を称えた。この戦いの結果、日和見の越中国人らが続々と織田氏に帰順し、越中国内の勢力図は塗り替えられ、上杉氏の劣勢が決定的となった。信長はこの戦果を拡大すべく、信忠付の毛利長秀、坂井越中守、森長可、佐藤秀方らをさらに援軍として送るが、北国越中の厳冬への危惧と、上方で荒木村重の謀反が起こったため撤退を命じ、一気に進展するかにみえた信忠軍による越中平定は頓挫し、上杉氏に立ち直らせる時間を与えることになった。しかし、勝利したことで、上杉軍は合戦より、後退を余儀なくされる。さらに越中平定は、後に柴田勝家率いる北陸方面軍により再興されることになる。

出典:wikipedia

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