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ゴリツィア

ゴリツィア()は、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州にある都市で、その周辺地域を含む人口約3万5000人の基礎自治体(コムーネ)。ゴリツィア県の県都である。スロベニアとの国境の都市であり、スロベニア側のノヴァ・ゴリツァとは双子都市の関係にある。 は と発音される。日本語文献では「ゴリツィア」のほか、「ゴリーツィア」とも記される。標準イタリア語以外の言語では以下の名を持つ。ゴリツィア県東北端に所在するコムーネで、イゾンツォ川の流域であるヴァッレ・デル・ヴィパッツォ(ヴィパーヴァ谷)の中心都市である。ゴリツィアの中心市街はイゾンツォ川の左岸(東岸)にあり、ウーディネの東南東33km、州都トリエステの北北西35km、スロベニアの首都リュブリャナの西70kmに位置する。。ゴリツィアの市街はスロベニアと国境を接している。コムーネとしてのゴリツィアの領域はイゾンツォ川の両岸にまたがっている。隣接コムーネ(およびスロベニアの基礎自治体)は以下の通り。SLOはスロベニア領を示す。市域の中央を北東から南西へイゾンツォ川が流れる。北部には山脈が位置しており、市域最北端にある国境の山・サボティノ山(、スロベニア語名: サボティン山、609m)は、ゴリツィア県の最高峰である。北側にそびえる山脈は、この周辺地域に強い影響を与える地方風ボーラからゴリツィアを守っており、穏やかな気候をもたらしている。市域北東部、イゾンツォ川右岸(北西岸)側にはコッリオの丘陵地帯が広がるが、市域南東部およびイゾンツォ川左岸(南東岸)側はおおむね平坦な地勢である。ゴリツィアの中心市街はイゾンツォ川の左岸(東岸)にある。鉄道線路に沿って国境線が引かれており、スロベニア側にはノヴァ・ゴリツァの市街地が形成されている。イゾンツォ川西岸(右岸)には南部にルチニーコ()、北部にはオスラヴィア()などの分離集落がある。イゾンツォ川沿いのこの地は、アクイレイアとエモナ(現リュブリャナ)を結ぶローマ時代の街道にも程近く、記録に残る以前から物見櫓や城砦などがあったと思われる。歴史的にスロベニア人が多く住む地域であり、ゴリツィアという地名もスロベニア語で「小山」を意味する に由来すると考えられている。「ゴリツィア」の名が記録に最初に現れたのは、1001年4月28日の日付が記載された神聖ローマ皇帝オットー3世の文書である。オットー3世が、サルカノ城と城下にあった荘園を、アクイレイア総司教ヨハネスとフリウリのエプシュタイン家(のちにバイエルンの宮宰を世襲する一族)に分け与えたこの文書で、"Villa quae Sclavorum lingua vocatur Goriza"(スラブの言葉で「ゴリツァ」と呼ばれる村)が登場する。11世紀以降、この町は2つの地域に分かれて発展した。上手にある「城」の一帯は政治的・行政的な役割を果たし、「村」は地方交易を担う役割を果たした。12世紀から16世紀初頭にかけて、町はゴリツィア伯国の政治的・行政的な中心であり、伯国の最盛期には今日のゴリシュカ・フリウリ東南部・クラス地方・中部イストリアから東チロルまでの地域の首都であった。1500年、ゴリツィア伯爵家の継承者が絶え、ゴリツィア伯(ゲルツ伯)の称号と領地はハプスブルク家のマクシミリアン1世のものとなった。その後、ヴェネツィアによる占領(1508年 - 1509年)もあったが、ゴリツィアの町はハプスブルク君主国による統治の下で発展を遂げた。町並みはゴリツィア城の下まで拡大し、北イタリアから移り住んできた人々が商業活動を始めた。ゴリツィアはさまざまな民族の暮らす町であり、フリウリ語・ヴェネト語・ドイツ語・スロベニア語が話された。16世紀半ば、ゴリツィアは宗教改革におけるプロテスタントの中心地のひとつとして注目された。スロベニア人の有名な宗教改革者プリモシュ・トルバルも、この町を訪れて説法を行っている。しかしながら16世紀末、当地の修道院長であったヤネス・タヴチャル(、のちのリュブリャナ司教)によって対抗宗教改革が推進され、カトリック側の巻き返しが行われた。タヴチャルが当地に誘致したイエズス会は、その後のゴリツィアの教育と文化に大きな影響を及ぼすことになる。聖イグナチオ・ロヨラ教会は、17世紀半ばに建築が開始され、約100年をかけて完成した。1751年、アクイレイアの総大司教座が解体された際、ゴリツィアに大司教区が置かれ、ハプスブルク君主国におけるカトリックの宗教行政の中心のひとつとなる。ゴリツィア大司教区は、北はドラーヴァ川、東はコルパ川までを管轄地域とし、大司教区内にはトリエステ・トレント・コモ・ペデナの各司教区が所属していた。大聖堂を中心とした新しい街区が整備され、大聖堂にはかつてアクイレイアの教会堂に収められていた文化財が移されてきた。町には典型的な後期バロック様式の邸宅群が数多く建てられ、特徴的な景観を作り上げた。また、市壁の中にシナゴーグが建設されたことは、多民族性に対して比較的寛容だったこの町の気風を語るものである。ナポレオン戦争中、1805年にはイタリア王国の一部に、1809年にはイリュリア州の一部に編成され、1813年までフランスの支配下に置かれた。ハプスブルク君主国の統治下に復すと、ゴリツィアを含む「ゲルツ伯領」はオーストリア帝国を構成するイリュリア王国の一部となった。この時期、ゴリツィアはオーストリアの上流階級の間では夏の滞在地として知られるようになり、「オーストリアのニース」として呼ばれた。この地の住人には七月革命で王位を追われたブルボン家の人々もあり、ブルボン朝最後の王であったシャルル10世もこの地で終焉を迎え、埋葬されている(墓地のある受胎告知教会は、現在ノヴァ・ゴリツァ側に属する)。「諸国民の春」と呼ばれた1848年の革命も、周辺地域とは異なりゴリツィアの町にはほとんど影響を与えず、「静かで王家に忠実な地方都市」との世評を再確認させることになった。1849年、「ゴリツィア伯国」はトリエステやイストリアを含むキュステンラントに属することとなった。1861年、「ゲルツ伯領」は「ゲルツ・グラディスカ公国」に再編され、自治権が認められた。この時期のゴリツィアの町は、中心部ではイタリア語・ヴェネツィア語・フリウリ語・ドイツ語・スロベニア語が行き交う多民族都市であり、郊外にはフリウリ人・スロベニア人の暮らしが広がっていた。1910年のオーストリアの国勢調査によると、ゴリツィアの人口2万9291人のうち、イタリア語・フリウリ語を母語とする者が50.6%、スロヴェニア語を母語とする者が36.8%、その他スラブ系言語を母語とする者が1.3%、ドイツ語を母語とする者が11.1%であった。また、ユダヤ教の信仰を持つ者が0.9%いた。イタリア人とフリウリ人・スロベニア人の間には緊張もあったと記録されてはいるが、第一次世界大戦の勃発までゴリツィアの町は比較的寛容であり、イタリア人・フリウリ人およびスロベニア人の文化がともに花開いていた。ゲルツ伯領を含むキュステンラントは、イタリア側からは「未回収のイタリア」の一部とみなされ、「ヴェネツィア・ジュリア」と呼ばれた。1915年4月、イタリア王国と三国協商の間で「未回収のイタリア」のイタリア帰属を取り決めた秘密協定(ロンドン条約)が結ばれると、1915年5月23日にイタリアは協商国側として第一次世界大戦に参戦。イゾンツォ川流域の支配をめぐってイタリアとオーストリアが争う、イゾンツォの戦い(イタリア戦線の一部)と呼ばれる激戦が展開された。ゴリツィアは1916年にイタリアに占領されるが、翌1917年にオーストリアが奪回。1918年11月3日、ヴィラ・ジュスティ休戦協定が締結されてイタリア戦線の戦いは決着し、ロンドン条約に沿ってイタリアがゴリツィアを占領した。イタリアは、ヴェネツィア・ジュリア総督の暫定的な統治の下に置いた。1920年に結ばれたラパッロ条約とサン・ジェルマン条約により、ゴリツィアは正式にイタリアに併合された。当初は旧ゲルツ・グラディスカ公国全域を管轄するゴリツィア県が置かれたが、1923年に県の分割が行われ、1924年にはゴリツィア県とウーディネ県が合併してフリウリ県(県都: ウーディネ)が編成されてこれに属する都市となった。1927年、ヴェネツィア・ジュリア州にゴリツィア県が再設置され、ゴリツィアは再びその県都となった。1922年に発足したムッソリーニ政権下、スロベニア人の民族団体は解散させられ、公的な場でのスロベニア語の使用も抑圧された。多くのスロベニア人は、ユーゴスラビア王国や南米(とくにアルゼンチン)へと逃れていった。また、抑圧に対抗してスロベニア人の地下組織が作られ、反ファシズムの運動として、時にはスロベニアの民族統一主義の運動が展開された。第二次世界大戦下の1941年4月、ドイツ・イタリアなどの枢軸国軍がユーゴスラビア侵攻を行うと、隣接するゴリツィア県地域もその影響を受けた。スロベニア人たちを含むユーゴスラビアのパルチザンはこの戦争をユーゴスラビア人民解放戦争として戦った。1943年9月、イタリア王国が連合国に単独降伏すると、町はスロベニア人パルチザンによって解放されたが、間もなくドイツ軍によって占領された。ドイツ軍はこの地域をアドリア海沿岸作戦地域とした。第二次世界大戦後、ゴリツィアは、ユーゴスラビア・パルチザンによる占領(1945年5月~6月)を経て、連合国軍(英米軍)の軍政下に入った。1947年9月15日正式にイタリアの施政下に戻ることになった。このとき、ゴリツィア県の大部分(シェンペテル=ヴロトイバなど)がスロベニア(ユーゴスラビア社会主義連邦共和国)に割譲され、ゴリツィアの市域も分割された。ゴリツィア市街付近において、国境線はオーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンとを結んでいたトランザルピン鉄道(現・ボヒニ鉄道)に沿って走っており、同路線のゴリツィアの駅(現在はノヴァ・ゴリツァ駅)の駅舎はスロベニア側に属している。ゴリツィアは「国境の町」であるが、スロベニア(ユーゴスラビア)側は分割後に発展した地域である。スロベニア側の新都市ノヴァ・ゴリツァ(新ゴリツィア)の建設は1948年に始められた。冷戦下、異なる体制によって都市が分断された状況から、ゴリツィアがベルリンになぞらえられることもあったが、ゴリツィアをめぐってイタリアとユーゴスラビアは良好な関係を保った。両国の調和と協調の象徴であった文化・スポーツ交流行事は、ユーゴスラビア連邦解体まで続けられた。1991年のユーゴスラビア解体後、国境の向こう側はスロベニアとなった。2007年12月21日、スロベニアがシェンゲン協定に加わったことで、国境は往来を妨げるものではなくなった。広域行政組織である「トッレ・ナティゾーネ・コッリオ山岳部共同体」(事務所所在地: サン・ピエトロ・アル・ナティゾーネ)を構成するコムーネの一つである。地中海性の穏やかな気候から、人気のあるリゾート地である。国立統計研究所(ISTAT)は居住地区()別の人口として以下を掲げている。統計は2001年時点。この町は、歴史的にスロベニア人の多く住む地域であり、また16世紀以来、約400年にわたりオーストリア・ハプスブルク家の統治下にあった。ゴリツィアの料理や菓子にも、イタリア以外のさまざまな文化の影響を受けたものが見られる。また、ワインの産地としても知られる。原産地統制呼称(DOC)により、ゴリツィア周辺で生産されたワインのみが「コッリョ・ゴリツィアーノ」()と称することができる。コッリョ・ゴリツィアーノには、白、赤などの種類がある。

出典:wikipedia

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